第8話:灰色の港の二重奏
最初の音はドレイクのリボルバーから弾けた。
重い炸裂音。
弾丸は予告どおり右翼指揮官の肩を正確に射抜いた。指揮棒が折れ、赤狼団の右の隊列が軋んだ。オーケストラの開幕を告げる一打だった。
拍子が狂った隙間へアッシュが滲み込んだ。音も、気配もなく。
さっきまで立っていた空間には幻聴だけが残された。
「いねえ! どこだ、どこ行きやがった!」
アッシュが男の背後に現れた。
——線。
空間に一筋のひびを入れただけだった。首から血が迸り、一拍遅れて世界が裏返って男は崩れ落ちた。
「何やってんだ! 撃ちまくれ!」
残った左翼指揮官が喚いた。狼どもは距離を取り、アッシュが現れうるすべての場所へ照準を向けた。
空間が閉じる。誰もその中では生き残れない。
だがアッシュはコンテナの山の頂に月光を背負って立っていた。重力を無視するように地上へ身を躍らせた。
「撃て!」
弾丸が雨霰と降り注ぐ。鉛弾は残像を裂き、虚空を貫いた。
「……な、なんだ!」
着地するや包囲網の内側へ駆けた。闇をキャンバスに月光を散らす軌跡に、悲鳴もなく倒れ伏す身体が増えていく。
ドレイクの銃声は重厚なコントラバスのピチカートのように短く太く戦場の拍子を刻んだ。その堅固なリズムの上でアッシュの剣がヴァイオリンの独奏のように自在に遊ぶ。
役目はアッシュが華麗なアルペジオを奏でられるよう舞台を整えること。
それがすべてだった。
死角で銃口が閃けば決まって雷火が落ち、脅威を先に消し去った。
狼どもの頭目が歯噛みして叫んだ。
「クソ共が! たかが一匹、なんで仕留められねえ!」
獣じみた咆哮とともに斧が脳天めがけて振り下ろされた。アッシュの輪郭にノイズが走り、半歩横へずれた。
再び斧が唸ったが今度も虚空だった。左、右。叩き込むほど息が上がった。
ようやく悟った。届かぬ蜃気楼を斬ろうとしていたことを。
すくんだ刹那、影が覆いかぶさった。リボルバーのグリップがこめかみにめり込んだ。白目を剥いて巨躯が沈んだ。
硝煙と血の匂い、遠くから届く聖歌が隙間を埋めた。
やがて生き残った者たちがひとりまたひとりと闇の中から姿を現した。
鉄盾のグロリムはひしゃげた盾を見下ろした。この戦闘の結末はいかなる戦術でも説明がつかなかった。
傲慢の砕けたシラの瞳には畏敬が宿っていた。自慢のルーン・マスケットはもはや恥ずべき玩具にすぎなかった。アッシュが傍らを過ぎると身をすくめて後ずさった。唇は乾いて張り付き、離れなかった。
足を止めたアッシュの視線が、裂けた貨物袋に引っかかった。粗末な布の巡礼服、固いパン、痛み止めの薬草。そして穀物の山の下、砕けた箱。
中には赤黒い宝石が眠っていた。光を受け血管のように蠢いた。
血妖石。
かつて異端審問所で見たあの狂気はこの石から始まっていた。口元に微かな笑みが浮かび、消えた。
そのとき、二階からマルコが転がり落ちるように降りてきた。顔は歓喜で上気していた。
「はっ……はぁ……!」
言葉を継げず腰を折った。
「ありがとうございます! 本当に……本当にありがとうございます! あなた様方が……いなければ、私は……!」
震える両手でずしりと重い袋を捧げ持った。命を救った神への供物だった。
「お約束の倍でございます。ですが、これでは到底足りるものではございません! ご所望のものがあれば何なりとお申し付けください。私のすべてを懸けてご恩返しいたします」
ドレイクが満足げに袋へ手を伸ばした。その手をアッシュが制した。マルコの揺れる瞳孔を射抜いていた蒼い眼差しが、白みゆく虚空へゆっくりと流れていった。
「……いらん」
声が薄明の中に低く響いた。
「代わりに、あんたの客に会わせろ」
* * *
夜明けの蒼白い光が朝霧を含んだまま、長く伸びていた。
「なにぶん信仰心の深い方々でして……少々荒っぽいところがございます。決して悪い人たちではございませんので、どうか……」
面会を取り持ったマルコの声は哀願に近かった。ドレイクはその背中を見やり、鼻で笑った。
アッシュは風に混じる土の匂いを吸い込んだ。海に近かったが、もはや潮の香りはしなかった。祝福の代わりに、切迫した祈りの残響だけが漂っていた。
天幕の立ち並ぶ小さな空き地に差しかかったときだった。最も外側で丸太を割っていた巡礼者が真っ先に気づいた。斧を振る手が止まった。仲間がいぶかしげに顔を上げ、アッシュたちを見て顔色を失った。
警告が水面下の波紋のように広がっていった。日常の物音がひとつ、またひとつ死んでいく。
遂に、数百の視線が一斉に突き刺さった。
アッシュの足が止まった。目に留まったのは怒れる大人の狭間に立つひとりの子供。
十歳そこそこか。手には大人を真似て先端を削った木の枝が握られていた。瞳は燃えていたが、その奥は空だった。市場で見たあの瞳と同じだ。
恐怖は狂気となり、狂気は信仰となる。
沈黙を破ったのは巡礼団の導き手ガレスの怒号だった。
「マルコ! 教団の犬どもを連れてきやがってどういうつもりだ!」
マルコは泣きそうな顔で両者の間に割って入った。
「ガ、ガレス様! 落ち着いてください! この方々は商会の重要な客人です。そ、それに聖女様もご存じの話なんですから!」
「聖女様だと? ふざけるな!」
マルコを乱暴に突き飛ばし、アッシュだけを睨み据えた。
「テリオンと会ってきたのを知らないと思ったか? あの蛇野郎に、聖女様を売り払いに来たのか?」
傍らにいた若い巡礼者がドレイクの義眼を指差してわめいた。
「あの機械の目玉もぐるだ! あの目にマエストロの監視回路が仕込まれてるかもしれねえぞ!」
ドレイクの眉根が寄った。腕を組んだまま隊列の最も脆い綻びを探っていた。アッシュにだけ届く声で低くつぶやいた。
「感情で適当に継ぎ接ぎした壁だな。中央のあの男さえ崩せば、総崩れになるぜ?」
蒼い眼差しはガレスの背後の天幕に据えられていた。張り詰めた緊張感が弓弦のように引き絞られ、切れる直前。
天幕の入り口が静かに開き、ひとりの女性が姿を現した。
エリアーナ。
すべてが止まる。唸りを上げていた怒号も、殺気立っていた身振りも、さらには——砂埃を運んでいた風さえも。
朝日を背にした姿は逆光に沈んだシルエットだった。低いが、全員に届くほど断固とした声で言った。
「おやめください」
視線はガレスに向いた。
「私がお招きしたお客様です」




