第7話:狼を待ちながら
夜の第七埠頭は死んだ鯨の胎内だった。港の喧騒はとうに消化されていた。月明かりだけが死装束めいた霧の奥に滲み、癒えた傷跡のように浮かんでいた。
アッシュは舳先に腰掛けていた。微動だにせず。
視線ははるか彼方、亡霊のように明滅する教団の尖塔に縫い付けられていた。追うべき舞台だった。
「臭えな。まったく」
粗悪な火酒の臭いが鼻を衝いた。ドレイクだった。ドカリと腰を落とし、スキットルを干した。
「このションベンも最後だ」
ぼやきながら青い腕章をひとつアッシュに放った。アズール商会の証だった。
「ツイてたぜ。あの鉄屑にもまた息を吹き込めるだろうよ」
義眼の歯車が噛み合い、期待に微かに唸った。
「荷を守ってくれだとよ。聞きゃ、この辺の海賊どもにえらく目をつけられてるらしいな」
アッシュは腕章を左腕に巻いた。
「ただの荷じゃないわけだ」
「知るかよ」
ドレイクは空のスキットルを振りながら付け加えた。
「問題は衛兵どもがこぞって広場へ行っちまったってことだ。ま、おかげで俺たちにお鉢が回ってきたわけだがな」
瞬間、アッシュの眼差しが変わった。焦点を失っていた瞳孔が鋭く収縮した。
狩人の眼だ。
「行くか」
「おう」
アッシュは埠頭の闇へ影のように消えた。ドレイクはただ仕事を前にした相棒の集中力だと受け取り、肩をすくめるだけだった。
* * *
指定の倉庫の周辺には既に複数の主が陣取っていた。ドレイクが顎をしゃくった。
「ウルガンの鉄盾。金さえ積みゃ何でもやる荒くれどもだが、結構イイ値がするぜ」
義眼が瞬き、武器に刻まれたルーン文字を解析した。ドワーフは岩のように密集し、戦場の軸を押さえていた。
「あれはハルシオン傭兵団。ふんぞり返ってるあの女はシラってんだ。リベルタスじゃそこそこ名が売れてる」
ドレイクの言葉が終わるが早いか、ハスキーな声が突き刺さった。
「グロリム。まともに壁を立てな。また虫ケラみてえに逃げんじゃねえぞ」
鉄盾のリーダー・グロリムが斧の柄で地面をドンと突き、痰を吐き捨てた。
「イカれ女がまたほざいてやがる。テメェは銃だけまともに撃ちやがれ。また後ろからブチかましてきたら、頭カチ割ってやるからな」
張り詰めた神経戦。
シラが飛び降り大股で歩み寄った。ドレイクには一瞥もくれず銃身でアッシュの顎先をコツンと突いた。
「なんだ、こりゃ。商会は金欠か?」
嘲り。そこに興味が混じっていた。
「ドンパチ始まったら後ろに隠れてな。アタシが守ってやるよ」
アッシュは顔だけをわずかに背けた。銃口が横へ滑った。視線は港の深淵を見据えていた。
シラの笑みが凍りついた。ふっと笑い、銃口を下ろした。
「つれねえな」
肩をすくめて戻っていくと、ドレイクがくつくつ笑いながらささやいた。
「姐さんが守ってくれるってよ」
アッシュはうんざりしたように目を細めるだけだった。
そのとき、巨大な黄金の柱が天を衝いて立ち昇った。聖女の祈りの始まりだった。群衆の聖歌が夜風に乗り、埠頭まで流れてきた。
光が都市を呑み込み、埠頭の影をいっそう長く引き伸ばした。静寂に沈んでいた死角がうごめいた。闇が牙を剥く。音もなく、数百もの人影が溢れ出した。
赤狼団。
飢えた狼の群れが三方から同時に殺到した。
「グァハハッ! 上等だ来やがれ! ミンチにしてやる!」
グロリムが咆哮し、盾を地面に突き立てた。鈍い響きが連なり、鉄盾の防壁が完成した。
倉庫二階のテラス。商会の代理人マルコはワイングラスを揺らしながら階下を見下ろしていた。助手が不安げに止めようとしたが、マルコは構わずグラスを傾けた。
「生意気な奴め。よくもこのマルコ様を脅しやがったな? 身の程知らずの代償を払わせてやる」
豪語を嘲笑うかのように、狼どもの先鋒が一斉に黒い球体を投げ込んだ。気の抜けた音とともに漆黒の煙幕が噴き出した。屋上の狙撃手と地上の盾部隊の間で、視界という鎖が断ち切られた。
「クソが! 何も見えねえ!」
シラの切迫した叫びとともに援護射撃が止んだ。隙を突き、赤狼団は防壁の脆い箇所へ猛攻をかけた。破裂音が立て続けに弾けた。
「ボンクラども、何やってやがる! 持ちこたえろ! 隊列を崩すんじゃねえ!」
グロリムの怒号もむなしく、盾の一枚がすさまじい金属音を立てて紙切れのようにひしゃげた。
マルコの顔から血の気が引いた。
堅固だった壁に亀裂が走ると狼どもがなだれ込んだ。ドワーフはなすすべもなく乱戦へと呑み込まれた。混沌、悲鳴、鉄と骨がぶつかる音。
「……だ、ダメだ。逃げるぞ!」
マルコは慌てて助手の腕を引いた。
「あっ! あの小箱! あれだけは絶対持ち出せ!」
助手が震える手で小箱を胸に抱えた。扉がまるごと吹き飛んだ。外には返り血を浴びた男がひとり、薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「マルコ、このドブネズミが。ずいぶん探させやがったな」
マルコは腰を抜かした。
「う……あ……ああ……」
団員が刃を振り上げた瞬間。遠く、ドレイクは修羅場を冷ややかに眺めていた。義眼が追っていたのは次の標的を沈着に指示する赤狼団の動きだった。
「アッシュ」
低く呼んだ。
「指揮官は三つ。中央、左翼、右翼。蛇みてえに動いてやがる。頭を同時に潰さなきゃ尻尾が際限なく湧いてくるぞ」
返事はなかった。ドレイクはそれ以上問わず、リボルバーを持ち上げた。照準の向こうに右翼を指揮する男を捉えた。
「右翼は俺が獲る」
カチリ、と撃鉄を起こした。
「……じゃ残りは俺の分か」
すべてが終わったかに思えた刹那。港を満たしていた不協和音の中へ——たった二挺の新たな楽器が演奏を始める。




