第6話:おが屑を噛む味
厨房の換気口はとうに死んでいた。熱い蒸気が天井に触れては水滴となり、ぽたり、ぽたりと落ちた。逆流した焦げの臭いと腐りかけた残飯の悪臭が息を吸うたび、鼻の奥にねっとりと絡みついた。
ドレイクはそのすべてに耐えていた。上半身を剥き出しにしたまま背丈より低い流し台に巨体をねじ込んでいた。手の中の皿が今にも砕けそうに軋んだ。
「くそっ、くそったれ……!」
荒い息をつきながらこびりついた油汚れをこそぎ落とした。サイラスが提示した莫大な報酬を蹴り飛ばし、皿洗いで食いつなぐ始末。
義眼が苛立たしげに唸った。
「発つだと? どこへだよ! 洗い桶にツラ突っ込んでくたばる前に全部片付けなきゃなんねえだろうが!」
アッシュは何も答えなかった。一定の速度で皿をすすいだ。優雅で精密でありながら、いかなる意欲も宿してはいなかった。
彼はここにいない。蒼い瞳は過去のどこかの風景を映しているようだった。
ガシャン——。
滑り落ちた皿が床で砕け散った。
「ちょいと、何やってんだい!」
帳簿をつけていた女将が肉を揺らして駆けてきた。
「使える皿を割られちゃ困るんだよ!」
床の破片を見て舌打ちし、アッシュの手をぐいと掴んだ。
「顔だけは上等じゃないか。いっそ表に出したほうがマシだね。皿はそっちのデカブツに任せて、あんたは外で客でも引いてきな!」
アッシュの表情が歪んだ。倦怠の膜を淡い嫌悪がかすめた。ドレイクが鼻で笑った。
「なんだよ。ツラで稼ぐチャンスじゃねえか」
肩をすくめ再び皿を磨きはじめた。
* * *
雑用を終えたふたりは銅貨を数枚握って食堂を出た。ドレイクが先に口を開いた。
「こんなザマじゃエンジンどころか酒代にもなりゃしねえ。俺はまともな仕事を当たるから、てめえはそこで気高く野垂れ死にでもしてろ」
ぼやきながら裏路地の闇へと消えた。ひとり残されたアッシュは風にさらわれる灰となり、あてもなく歩きはじめた。
足は都市の外れへ向かった。砂ぼこり舞う道を境に片側には枯れた雑草しかなかったが、もう片側には生気に満ちた畑が広がっていた。緑が鮮やかすぎて絵の具を塗りたくったかのようだった。
古びた柵にもたれ、腰の空になった薬草袋を弄んだ。畑では三、四人の農夫が汗を流しながら雑草を抜いていた。そのうちのひとり、年嵩の農夫がアッシュに気づき腰を伸ばした。足元の、人の頭ほどもある芋を掲げて叫んだ。
「これを見てくだせえ。これが聖女様のお恵みじゃ!」
名はバルナバス。生涯この土地で鍬を握り、昨年のすさまじい旱魃をその身で耐え抜いた男だった。自慢が抑えきれぬといったふうにアッシュへずんずんと歩み寄った。
「去年の今頃はのう、地面がひび割れて鼠一匹かじる根っこもなかったんじゃ。それが聖女様がいらしてからというもの、見なされ! これもみんな、あのお方が流された涙ひとしずくのおかげじゃ!」
一緒に働いていた少年ルカスが駆け寄り相槌を打った。
「今年も聖女様を信じてれば大丈夫だよ!」
バルナバスはアッシュを見て尋ねた。
「ときに……旅のお方はどちらからいらしたんじゃ? 見たところ、ずいぶん遠くから来なすったようじゃが」
アッシュは視線を遠くの山稜に移すだけだった。バルナバスは意に介さぬ様子で再び芋を掲げた。
「こいつらをしっかり育てりゃあ収穫祭でたんまり値がつくはずじゃ。そうすりゃわしも孫っ子に暖かい上着の一着くらい、買うてやれるんじゃ」
その無垢な喜びの只中に、ルカスがおずおずと口を開いた。
「でもさお爺ちゃん……大きいんだけど、味がちょっと……。去年のあのしなびた芋のほうがずっと濃い味がしたんだよ。こいつはなんだかおが屑を噛んでるみたいっていうか……」
バルナバスの顔がこわばった。ルカスの頭に拳骨を落とした。
「これっ! なんちゅう罰当たりなことを言うとる! 聖女様のお耳に入ったらどうするんじゃ。命を救うてもろうたお方にありがたいとも思わんで、味がどうのこうのと?」
ふたりが揉めている隙にアッシュは身をかがめた。足元の土を一掴み、掌の上で転がした。表面は湿っていたが、中は搾りかすのようにぱさついていた。
土を払い落とし、農夫に小さくうなずいてから再び歩き出した。希望に満ちた声が遠ざかった。だが頭の中は掌に残る感触で埋め尽くされていた。
* * *
アッシュは商店街を見下ろせるカフェの片隅に席を取った。ラムを混ぜた苦い珈琲を前に、行き交う人々を眺めるだけだった。
街は収穫祭の準備に沸き立っていた。人足たちは建物の間に横断幕を張り渡し、商人たちは屋台を磨きながら早くも利益を勘定する顔つきだった。
活気の中で一角に集まった小さな人だかりがひときわ目を引いた。祭りには不釣り合いな緊張感が漂っていた。
小ぎれいな巡礼装束をまとった青年——テオだった。眼は硝子玉のように静かで、幸福な微笑みをたたえていた。声は大きくなかったが、人をひきつける奇妙な力があった。
「皆さん。苦痛は脆弱さから生じるのです。ですが聖女様は我々の魂を強くし、真の平穏をお与えくださるのです」
青年の言葉に数人の巡礼者が感化され、祈りを捧げた。そのとき、ひとりの女が人垣をかき分けて駆けてきた。テオの姉だった。弟の腕を掴み、懇願した。
「テオ、お願いだからやめて! 家に帰ろう! 母さんがあんただけを待ってるのよ!」
だがテオはその手を振りほどき、気の毒そうな表情で言った。
「姉さん。私は平穏を得たのです。お母さんもすぐに安らぎを得られるでしょう。心身の苦痛などというものは一瞬の虚像にすぎないのですから」
「……あんた、狂ってる!」
女は絶望の叫びとともに弟の頬を打った。乾いた破裂音に通りの視線が集まった。
テオは微動だにしなかった。傾かぬ首、揺るがぬ瞳。動物を見下ろす冷ややかな憐れみだけが浮かんでいた。
姉は膝をつき嗚咽した。
グラスを手にしたままのアッシュの目に青年の顔が映った。感情の振幅が消え失せた顔。魂の一部を削り取られた者に現れる兆候だった。教団が秩序の名で犯したあまたの惨劇の残像と重なった。
目的のなかった足取りに初めて方向が生まれた。空のグラスを置き、通りに背を向けた。都市の最も深い陰を目指した。
* * *
大地を蘇らせ、魂を奪う。この奇跡は一体、何で成り立っているのか。ひとりの涙がこれほど多くの魂を埋め合わせられるものか。
そうしたうさんくさい力はいつだって暗い血管の中から動力を得るものだ。空気に混じる異質な痕跡が足を導いた。酸い薬品の刺激臭と、むせ返るエーテルの香り。打ち捨てられた倉庫地帯だった。
錆びた鉄扉は錠前もなく開いていた。中へ滑り込み、二階の鉄製キャットウォークに身を潜めた。
内部は複雑に絡み合った錬金術の装置で埋め尽くされていた。中央の蒸留器では青白い液体が耳障りな音を立てて煮えたぎっていた。
「今回も頼む。不純物が限界だ。できるだけ早く……」
巡礼団の導き手、ガレスが老いた錬金術師に小箱を手渡していた。箱を開けると、不吉な紅い光を放つ結晶体——竜の涙が姿を現す。
鉄扉が荒々しく押し開かれた。
「順調か?」
赤い狼の紋章を押し立てた一団が踏み込んできた。ソレイユと南部沿岸一帯を支配する大海賊。赤狼団だった。
錬金術師は見るなり揉み手をした。先頭に立つ幹部は錬金術師の手から竜の涙をひったくると感嘆した。
「美しいもんだ。こんな石ころが人を生かしも殺しもするたぁな」
ガレスへ向けて薄ら笑いを浮かべた。
「今回の精製費は沈黙で払ってもらうぜ、導き手殿」
「……どういう意味だ?」
「今週、埠頭のほうでうるせえ鼠を締め上げるつもりでな。そんときにお前んとこの聖女が盛大な癒しの儀式をやってくれりゃいい。衛兵どもの目がそっちに集まるようにな」
ガレスの肩を軽くたたき、釘を刺した。
「ただいつもどおり人助けをしてりゃいい。何も見なかったし、何も聞かなかった。そうだろ?」
ガレスの拳が細かく震えた。手の甲に筋が浮き出たが、遂に口は開かなかった。
アッシュは静かに闇に溶けた。
* * *
暮れなずむ港は赤黒い輪郭に染まっていた。
アッシュは波止場の錆びた錨に腰掛けロシナンテ号を眺めた。かつて船を繋ぎ止めていたであろう錨は、もはや何の役目も果たせぬまま朽ちている。
昼に目にした光景が交錯した。希望に満ちていた農夫、平穏を得た狂信者、そして仮面をかぶった奇跡とそれを維持するための共生。
腰を探った。触れたのは空の袋が返す虚しさだけだった。記憶の底に沈んでいた思考が頭をもたげた。
「代償なき奇跡はない……次は何だ?」
アッシュは立ち上がり、喧騒の押し寄せる市街へ身を向けた。
赤黒い夕焼けが、遠ざかる背を染めていた。




