第5話:すべての奇跡は代価を問う
「んな……馬鹿な……」
震える声が操舵室の空気を裂いた。ドレイクは両手と砕けた計器盤を交互に見比べた。義眼が無意味な分析を試み、低くうなった。
煙のくすぶるハッチの隙間から一枚の金属板がのぞいた。今回の旅のために割増しまで払って手に入れたエンジンフィルターだった。表面には故郷アイゼンガルドの職人の刻印が鮮明に残っていた。
「あれが……いくらしたと思ってんだ……」
呟きは力なく散った。ほんの数時間前に豪語していた声が耳の奥でこだました。
『こいつは本物のアイゼンガルド製だっての!』
だが応えたのは軽薄な破裂音とともに噴き出した真っ黒な煤だけだった。ロシナンテ号は制御を失ったまま埠頭の柱に突っ込み、砕けたエンジンの欠片がいくつか放物線を描いて海へと落ちた。
騒動の中心でアッシュはひとり、一歩引いていた。やけつく太陽の下、湿って肌にまとわりつく南部の空気を感じた。
港町ソレイユ、第三埠頭。腐敗を覆い隠そうとする人工的な消毒剤の匂いが魚油の臭いに混じって鼻を突いた。
視線が、こちらへ怒鳴る港湾管理人の不満げな顔に向かった。そして再びドレイクの肩越しに黒い煤を吐き出すエンジンに移った。
「……使えないな」
* * *
修理費と解決の糸口を求めて向かった先は、教団の目を盗んで開かれた闇市だった。ドレイクはある露店の前に立ち、商人との値切り合戦を始めた。
「おいおい、この程度なら回路は見るまでもねえだろ。半値にしろよ」
アッシュは興味なさげに人混みの中を幽霊のように歩いた。怒号。見知らぬ獣の鳴き声。異国の香辛料の匂いが風景となって流れ去った。
足がぴたりと止まった。片隅にガラクタを山積みにした露店があった。置き時計とひび割れた食器の間をさまよっていた目が一点で凍りついた。
そこに、それがある。額縁から荒くはぎ取られた古びたキャンバス。
かつて聖所の最も高い場所に掲げられていたはずの、聖女ルクレツィアの肖像画だった。
顔は誰かが故意にひっかいたのか長く傷が走り、微笑みをたたえていたであろう口元は黴に蝕まれている。価値を知らぬ商人は「二シルバー」と殴り書きした札を無造作に載せていた。
声が耳元をかすめた。
『約束しましたよね……』
囁きが途切れる前に手が腰へ伸びた。薬草の葉を探す古い癖だった。だが袋は空だった。
どれほどそうしていただろうか。さっきまで舟をこいでいた露店の主人が、いつの間にか警戒心をむき出しにこちらをにらんでいた。
アッシュは意に介さず、絵の傷痕に縫い止められたまま、朽ちゆく過去を凝視した。
* * *
夕焼けが市場通りを赤く染めた。肉の焼ける匂いと果物の甘い香りが入り混じった、気だるい空気がふたりを包んでいた。ドレイクはツケで部品を融通してくれる商人が見つからないとぼやき続けていた。
「きゃあっ!」
悲鳴が弾けた。露店から果物がなだれ落ち、人々が一斉に退いた。
通りのど真ん中。五、六歳ほどの子供が全身を痙攣させて崩れ落ちた。白目を剥いたままだった。
「くそっ、どけっ! ガキが息できてねえだろうが!」
ドレイクが真っ先に動いた。巨体で人垣を押しのけて空間を作り、子供の気道を塞いでいた衣服を緩めた。母親は名を叫び、泣きわめくばかりだった。恐怖が瞬く間に伝染していった。
「せ、聖痕病だ……」
「違う、マナ中毒だ!」
群衆はおびえてささやくばかりで誰ひとりとして踏み出せなかった。アッシュは冷ややかな眼で静観していた。
誰かが切迫した声で叫んだ。
「聖女様を! 聖女様をお連れしなければ!」
叫びが合図となったかのように巡礼装束の男たちが現れた。訓練された兵士さながらの一糸乱れぬ動きだった。ひとりは母親をなだめ、もうひとりはドレイクの肩を丁重だが断固として押しのけた。
「道を空けていただこう、兄弟。聖女様がお見えになる」
群衆を両脇に整列させ道を開いた。涙の巡礼団だった。やがて、ひとりの女が姿を現した。
エリアーナ。
汚れを知らぬ純白のローブ。彫像のように静謐な面差し。近寄りがたい聖性が周囲の薄汚れた景色を遠ざけ、結界を形作っていた。
子供の前にひざまずいた。衣の汚れもいとわず袖で口元からあふれる泡をぬぐった。
胸の首飾りを強く握りしめた。その中の何かが共鳴し光を放った。濃い睫毛から涙がひとつぶこぼれ落ちる。
刹那——身の内からまばゆい黄金の光がほとばしった。あらゆるものを焼き尽くし、組み直す生命の波動だった。子供の痙攣が止まり、頬に赤みが差した。
奇跡が終わるとエリアーナの身体がよろめいた。頬から血の気が引いていた。傍らの巡礼団員が素早く腕を支えた。
子供がぼんやりと目を開けた。苦痛は消えていたが、硝子玉のように凪いだ瞳だった。ただ穏やかな顔で母親を見つめるばかりだった。
「聖女様! ありがとうございます! この子が……この子が落ち着きました!」
嗚咽しながらエリアーナの足元にひれ伏した。群衆も一斉に膝を折り、聖女の名を讃えはじめた。ドレイクですらその光景の前には言葉を失っていた。
だがアッシュには別のものが見えていた。苦痛の消えた子供の瞳に宿る無邪気な光もまた、色あせていた。奇跡という祭壇の上に魂の一片を供物として捧げたかのように。
光が強いほど影は濃くなる。台本は同じだ。
供物、祭壇、盲いた観客。
エリアーナは支えられながら人波の中へ消えていった。
アッシュは、呆然と立ち尽くすドレイクの腕をぐいと引いた。
赤く染まった空に向かって長く息を吐いた。
「行こう。……もういい」
声は虚無に沈んでいた。この街で最初に、腐敗を隠す消毒剤をかいだときと同じ嫌悪だった。
* * *
約束の場所は三叉路の宿場だった。
乾いた風が土ぼこりを運んでいた。色あせた看板の軋みが唯一の気配だった。
ドレイクは壁に背を預け、地平線を見渡した。義眼が光を放ち、陽炎の立ちのぼる道の果てを執拗に走査していた。アッシュは宿場の柱の影に立っていた。
ひとりの男が歩いてきた。馬車ではなく徒歩で。真っ白な司祭服が蜃気楼のように近づいてきた。テリオンだった。
ふたりの前で足を止め、しばし見回してから視線をアッシュに据えた。口元には薄い軽蔑が張り付いていた。
「赦された亡霊——皆そう呼んでいますよ」
声は熱風の中にあってもなお冷ややかだった。
「間違いではないでしょう。すべての不純物が浄化されたというのに、最大の汚点がこうして息をしているのですから。時折、教団の慈悲も度が過ぎるのではないかと思わずにはいられません」
アッシュはゆっくりと瞼を持ち上げた。蒼い眼差しがテリオンの向こう、地平線に注がれた。
「用件だけ言え」
「南部で疫病のように蔓延する感傷的な狂気の排除です。いわゆる涙の聖女なる者とその追従勢力の瓦解」
寸分の揺るぎもない目がアッシュを追っていた。アッシュは地平線を見据えたままだった。
「その気はないな」
ドレイクは目を見開き、壁から身を離した。
「おいアッシュ!」
テリオンの表情が初めてゆがんだ。
「どちらへ行かれるおつもりですか」
「発つ」
「では教団の依頼を反故になさると——そう受け取ってよろしいので?」
「好きにしろ」
振り返らず肩越しに言い捨てた。




