第4話:灰の中の名
教団中央財務聖所。内部は冷たい秩序で満ちていた。アーチ型の天井では色とりどりの光輝石の欠片がマエストロの業績を再現し、床には魔法回路が血管のように這い広がり、低く唸りを響かせた。
窓口には審査司祭と呼ばれる者たちが座っていた。実用的に仕立てられた衣の裾には教団を象徴するルーン文字が縫い取られていた。
アッシュは隣の窓口から漏れる声に耳を傾けた。
「夫の魂格がなぜ引き下げられたんですか? 毎週祈りを欠かさず、浄化税も……」
審査司祭は柔らかくも機械的な微笑みで答えた。
「記録を確認いたしましたところ、ご主人の奉献実績が平均値に達しておりません、姉妹よ。ご相談の予約をお取りしましょうか?」
女は結局、支援の資格を失ったという通告に肩を落とし、背を向けた。去ったあとの窓口に、赤子を抱いた若い夫婦が立った。震える手で家門の印章が刻まれた小さな光輝石を差し出した。
司祭が受け取り、感応石板に載せると、まばゆい黄金の光が放たれた。微笑みに初めて温もりが宿った。
「ああ、お二方の先月の奉仕記録が確認されました。素晴らしい。支援等級が最上位に調整されます。マエストロの恩寵がともにあらんことを」
夫婦は抱き合い窓口の向こうのイゾルデの肖像画に深く頭を垂れた。一方を奈落に突き落とし、もう一方を救う天秤。
口の中で甘みがにじんだ。腐り落ちる寸前に漂う、吐き気を催す甘い臭いだった。
ようやく順番が回ってきた。窓口の司祭はアレクトの手配書を受け取り石板に載せた。指先から光が石板に染み込むと、情報がルーン文字となって宙に浮かび上がった。
「貴族狩りアレクト。懸賞金の支給が確認されました。処理なさった方の紋章か、帝国民固有のマナ波長をご登録ください」
「そんなもんねえよ」
ドレイクはぴしゃりと言い放った。司祭の微笑みが薄れた。
「それでは支給が困難です。規定上……」
そのときアッシュが口を開いた。気だるげだが、静謐な空間で鮮明に響く声だった。
「アッシュ。アッシュ・ヴァレンタイン」
壁際に控えていた騎士が鼻を鳴らした。
刹那、司祭の指先から流れていた光が赤紫に変じ激しく揺らいだ。指が宙で凍りつく。
足元から這う回路が光を放ち、蛇のように管理室の扉の下へと滑り込んだ。案の定、より上位とおぼしき司祭が奥から歩み寄り丁重に頭を下げた。
「ヴァレンタイン卿。第四使徒サイラス様がお待ちでございます。こちらへ」
使徒。
マエストロが新たな秩序を大陸に打ち込むための忠実なる十二本の楔。その四番目は最も忌まわしい悪臭を放った。金と血が絡み合った匂い。
アッシュは定められた道を歩き出した。畏敬と軽蔑が入り混じった視線を背に受けながら、巡礼者の足取りで。
* * *
サイラスの執務室は〈金庫〉という異名そのものだった。窓のない完璧な防音空間。壁には宗教的な象徴のかわりに、経済の流れと資源の移動経路を映し出した巨大なホログラム地図が蒼い光を放ちながら息づいていた。
地図の前に立っていた男が振り返った。塵一つない純白の司祭服。サイラスだった。
ホログラムから噴き出す光が顔の半分を蒼く染めている。
「ようこそおいでくださいました、ヴァレンタイン卿」
声は蜜のように滑らかだった。非の打ちどころのない丁重な微笑みをたたえていたが、その眼は危険資産を査定する鑑定士のものだった。
「相変わらず自由な魂でいらっしゃるようですね」
一瞥し、茶を勧めた。カップから立ちのぼるほのかな香りが室内を侵食したが、アッシュは手もつけなかった。サイラスは意に介さず柔らかな微笑みを保ったまま口を開いた。
「もう五年ですか」
爬虫類めいた瞳孔が閃きアッシュを解剖した。
「あのときのことは、いまだに理解しかねますが……」
サイラスのカップが受け皿に当たり鋭い音を立てた。何事もなかったかのように肩をすくめてみせた。
「今さら問い詰めたところで何の意味がありましょう。マエストロは、お許しになったというのに。いつでもお戻りください」
答えなかった。サイラスは待っていたとばかりにフッと短く笑った。カップを傾け一口含み、本題を切り出した。
「……最近南部から上がってきた報告書の中に実に奇妙な案件が一つありましてね。涙の聖女と呼ばれる女の件なのですが……」
聖女という言葉を偽造硬貨でも鑑定するかのように舌先で転がした。
「……今では誰もがその名を騙るようですね」
再び事務的な声音に戻り、言葉を続けた。
「彼女の奇跡には対価が伴います。治癒の瞬間は完璧に見えます。患者は苦痛から解放され平穏を取り戻しますからね。ですが……時が経つにつれ、その人をその人たらしめていたものが消えはじめるのです」
「鋭い個性、些細な癖、はては利己的な欲望さえも摩耗してしまうのです。笑みは浮かべますが……その中にはいかなる起伏も、理由もありません。ただ盲目的な温もりだけが残った、無害な人間になってしまうのです」
一度言葉を切り無表情な顔を観察した。
「ご興味おありですか?」
魂の角が擦り減ってなくなる。
説明が記憶の引き金を引いた。五年前の生きた燃料たちの姿と重なった。次第に色を失い空になるまで。別の祭壇、別の名……だが同じ結末。
サイラスは沈黙から答えを読み取った。
「この件を、あなたにお願いしたいのです。むろん相応の報酬をお支払いします。三年分の稼ぎにはなるでしょう。いかがですか?」
アッシュは目を閉じ、また開いた。視線がサイラスの顔から剥がれ蒼く光るホログラム地図に束の間留まった。すべてがあるべき場所に収まった世界。
ゆっくりと首を巡らせ再び向き合った。
「……行く」
サイラスはうなずいた。
「賢明なご判断です。南部へ向かえば、こちらの者があなたを補佐いたします。実に篤実で有能な者ですよ」
アッシュが扉へ向かったときだった。
「ヴァレンタイン」
背後からサイラスの声が響いた。愛想が削げ落ちた、氷のような声だった。
「あの日、何をご覧になったとお思いですか?」
歩みが止まる。振り返らずホログラムに映るサイラスのゆがんだ像を凝視した。
「計画は完璧でした。ただ一つ……時宜を逸して廃棄できなかった変数を除いては」
像の口元がねじれる。
「あなたこそが、あの方の汚点でございます」
拳に力がこもった。関節が白く浮き出る。
「……唯一の、失敗作でございましょう」
アッシュはそのまま、再び亡者たちの回廊へ歩みを進めた。入ってきたときと同じ回廊だったが、もはや同じ空間ではなかった。




