第3話:リミナ
風の死んだリミナの黄昏は吐き出した息のように生ぬるかった。隣国ソランティスから吹く潮風は帝国の城壁を越えられず、よどんだ空気の中、近くの聖所から流れてくるほのかな乳香と冷めた大理石の匂いだけが路地を満たしていた。
酒場は二階にあった。街の監視網からわずかに外れた、危うい解放感が漂う空間。
窓の向こうには、やはり教団の尖塔が立っていた。逃れられぬという烙印のように。
アッシュは椅子に背を預けたまま、グラスの氷を転がしていた。ドレイクは違った。狭い空間に体を押し込みながらも目には猟犬の執念が光っていた。
左の義眼から赤い光が漏れた。歯車の噛み合う音が微かに鳴った。
「あの野郎。手首についた粉。商団の運び屋に間違いねえ」
グラスを掲げ付け足した。
「十分。野郎が十分以内に自分から出ていきゃ、次のエンジン掃除はお前な」
アッシュはグラスから目を離さず気だるげに答えた。
「違う」
「この目で見たんだぞ。何が違えんだ」
「運び屋じゃない。同業者を売りに来た情報屋だ。手が汗で湿ってる」
ようやく顔を向けた。蒼い瞳に薄い嘲笑が浮かんでいた。
「五分で引きずり出される。掃除はお前がやれ」
そのときだった。ざわめいていた一階から規則的な振動が響いてきた。軍靴が木の階段を上ってくる鈍い足音。
扉が開き、白い制服の衛兵がふたり、足を踏み入れた。視線はまっすぐ隅の男に向かった。男は蒼白な顔で椅子から引きずり出された。その目にあったのは来るべきものが来たという諦念だった。衛兵と男が消えると、途絶えていた喧騒が戻ってきた。
「ハッ、あの間抜けが。ふざけやがって」
舌打ちしグラスを一息に空けた。アッシュはそのグラスを取り、バーテンダーに顎をしゃくった。
カウンターを磨いていた若い女が手を止めた。混沌が一瞬、拭い去られた表情だった。しばしほうけていたが慌てて目を伏せ、酒瓶を手に近づいてきた。
勘定書を受け取ったドレイクの顔が再び歪んだ。
「くそっ、こりゃ酒代か献金か? 教団の連中、祈りより商売のほうが向いてんじゃねえのか」
アッシュは懐から銀貨を数枚取り出し、カウンターに放った。銀貨が一回転して倒れた。手垢のついた片面には帝国の初代皇帝の顔が、反対の面には白薔薇教団の紋章が微かに残っていた。
だが女は困惑の表情で引き出しを開けた。
「お客さん、申し訳ないんですが……もうこれは受け取れません」
見せたのは鋳造されたばかりの銀貨だった。皇帝の肖像があった場所にはマエストロ・イゾルデの感情のない横顔が刻まれていた。
動きが止まった。彫り込まれた存在の視線が首筋に冷たく触れた。
——すべては、あるべき場所に。アッシュ。お前は、私の傍に。
その声は命令というより、世界の法則を説くようにひどく淡々としていた。ドレイクがぼやきながら新しい銀貨を二枚、取り出して置くのをただ眺めていた。
アッシュは先に立ち上がり、振り返らずに歩き出した。窓の外、外壁に描かれたイゾルデの巨大なフレスコ画が無言で見下ろしている。
* * *
酒場を出ると、夜がふたりを待っていた。
ドレイクは街灯がまばらに灯る大通りへ向かおうとしたが、アッシュは反対側へ足を向けた。闇が顎を開けている狭い路地だった。
「ネズミどもに挨拶でもすんのか」
その不平をよそに迷いなく闇の中へと紛れ込んだ。
水の滴る音。正体不明の落書き。酸っぱい汚物の臭いが鼻を突いた。建物と建物の間が狭く空は細いひびのようだった。
音を殺すかわりに読みながら進んだ。夫婦喧嘩。古いマナ導管が発する不安定な共鳴音。そのすべてがなじみの地図だった。一方ドレイクは巨躯を隙間にねじ込みながら悪態を噛み殺した。
何かが素早く通り過ぎた。鼠、あるいは影。
騎士団の行軍法は光と秩序の言葉だった。だがここは——暗闇、沈黙、奇襲。
騎士アッシュ・ヴァレンタインは忘れても灰色の狐は覚えていた。
体が、覚えていた。
中央広場は清潔で活気に満ちていた。大理石の敷石は傷ひとつなく磨き上げられ、光輝石の街灯は夜の街を柔らかな白色光に染めていた。魔力軌道車がレールの上を滑っていった。
広場の一角、国営のパン屋の前には人々が長い列を作っていた。飢えの陰りはなかった。むしろ、順番を待ちながら交わす些細な談笑に、平穏が宿っていた。
ドレイクが低く言った。
「あのパン、美味いらしいぜ。しかも労働者にゃ半額だとよ」
「腹の膨れた犬は噛みつかないからな」
首を巡らせた。ひとりの母親が目に入った。息子が駆け回ろうとすると、慌てて腕をつかみ静かに言い聞かせていた。
片隅、不動の姿勢で立つルーン・ゴーレム。ただ存在するだけで突発的な行動を抑制している。
息が詰まった。誤差なく噛み合うルーン回路の精密さであり、標本箱の蝶の静けさだった。鳥籠はあまりにも安楽で自ら扉を開けて出ていく者などいないはずだった。
無意識に胸元をなでた。かつて白薔薇騎士団の紋章が縫い付けられていた場所。今は何もない。
足は中央の巨大な鋼鉄の像へ向かった。剣を掲げ世界を見下ろす神の代理人イゾルデの像。ドレイクが舌打ちした。
「おいおい、あの肩の仕上げを見ろよ。まるっきり素人仕事だ。重心もガタガタじゃねえか」
アッシュは見なかった。台座に刻まれた文字だけを追った。
『反逆者の武器は溶け、秩序の剣として再誕せり』
異端の烙印とともに粛清された者の名がびっしりと並んでいた。その中に、見覚えのある名があった。
異端者 ダンテ・クロウェル
『アッシュ、覚えておけ。教団の真の敵は混沌ではなく、慈悲を失った秩序だ』
敬愛した先輩の最期の声さえイゾルデを讃える装飾と化していた。顔を背けた。
目的地の教団中央財務聖所は旧い聖堂の隣に建っていた。天に祈るごとくそびえる尖塔とは異なり、大理石と黒水晶で築かれた巨大な芸術品のようだった。効率と洗練で圧倒する構造物だった。
「さて、行くか」
ドレイクが大股で歩き出した。アッシュは、夫婦に手を引かれて像の影の下をおとなしく歩いてゆく子供の後ろ姿を見ていた。
そして、後に続いた。




