第10話:泥沼の中へ
夜通し灰のように降り積もった真実は、夜明けとともに埠頭のざわめきの中へあっけなく散った。世界は誰の苦悩とも無関係に慌ただしく朝を迎えた。
アッシュは埠頭の端、古びたロープの山に腰掛け、海面を漂う油膜を眺めていた。エリアーナの最後の問いは今やカモメの鳴き声ほどに遠く感じられた。
虚無とはそういうものだ。結局は鈍り、時間という濁流に洗い流されてゆく。
背後で板が鳴いた。ドレイクだった。義眼が、朝日に浸る港をひと巡りした。
「ひでえツラだな。こっぴどく絞られたか」
声はいつものように軋んだ。
「聖女様の懺悔ってのはそんなにキツいのか?」
アッシュは空のポケットを探った。ドレイクは舌打ちして埠頭の向こうの古ぼけた貨物船につかの間目を留めた。
折しもふたりの役人が船体に赤い印章の捺された羊皮紙を釘で打ち付けていた。差し押さえ通知書だった。船主らしき男が絶望的な顔で抗議したが、役人は取り合わずに立ち去るだけだった。
ドレイクの義眼がカチリと噛み合い、素早く回転した。声に現実の重みが乗った。
「ボサッとしてたら俺たちも札ぁ貼られちまう」
路地の奥に顎をしゃくった。
「急ぐぞ。この界隈でお前の草っ葉と部品を扱ってる場所は一箇所しかねえ」
ドレイクが先に立ち、アッシュはしぶしぶ後に続いた。陽の光さえ陰に遮られ届かぬ場所だった。
「だから素直に受け取っときゃよかったんだ。蹴っ飛ばしてなんでこんな苦労をさせる?」
ぼやきがアッシュを一瞬、昨夜の幻影から引き戻した。
看板のない扉の前でドレイクの足が止まった。アッシュは壁に背を預けたまま、中へ踏み込む背中と薄暗い店内を見ていた。
扉が開くと埃をかぶった鈴が鳴った。内部は時間の墓場だった。
「……直しに来た者の、重みだねェ」
店主である盲目の老人だった。へたった椅子に深く沈み込み、時計の死にゆくゼンマイの音に耳を傾けていた。
ドレイクは老人を無視し棚の最奥から小さな部品を探り当てた。
マナ増幅器。在庫はたった一つ。
交渉が続く間、アッシュの視線は別の一角へ向かった。片翼の砕けた金属蝶が埃をかぶっていた。
指が無意識に蝶へ伸びかけ——止まる。触れはしなかった。かつては歌い、飛び立ったのだろうが、今はただの鉄屑にすぎない美しきガラクタ。
手に余る力を抱いた代償に歌の最中で砕け落ちた。
傍らには動きを止めた小さなオートマタが陳列してあった。口角は上がったままだったが、瞳のレンズにはひびが走っていた。奇跡を受け取り、魂を差し出した者たちの顔が重なった。
「ブレがあるじゃねえか。調整しなきゃ半年ももたずにぶっ飛ぶぞ。高すぎだ」
物思いが途切れた。ドレイクは音叉を増幅器の表面に当て、響きを聴いていた。
老人は余裕の笑みを崩さなかった。皺だらけの手で本体をなでながら口を開いた。
「だがねェ、この外装はアイゼンガルド工房の品でもあるのさ。今じゃあこの純度は手に入りゃせんよ。ガワだけでもお前さんの言い値の半分は取れるさね」
交渉は平行線をたどった。ドレイクが機能的欠陥を突けば、老人は歴史的価値を盾にした。
アッシュは目を閉じた。もう見たくはないというように。
扉へ向かうドレイクの足音は軽かった。店を出る間際、老人が低く言葉を投げかけた。
「お前さんの手からは……まだギルドの鋼の匂いがするねェ」
ドレイクはフッと笑った。気づけば胸を張っていた。布に包んだマナ増幅器を戦利品のように掲げてみせた。
「聞いたか? 盲目の爺さんにも分かるのさ。この俺様の実力がな」
意気揚々と先に立った。アッシュは数歩遅れて無言で従った。やがて光と喧騒の激流が押し寄せた。
世界の色と温度が一変する。黄昏の赤い光が、舞う塵さえも黄金色に染め上げていた。建物の隙間ごとに収穫祭を告げる原色のリボンがひるがえり、空気は甘い菓子の香りと油のはぜる匂いで満ちた。
ドレイクはすっかり溶け込んでいた。露店で果物の串を二本買いアッシュにぐいと突き出した。
首を振った。ドレイクは肩をすくめ一口かじった。
ふたりが広場の角にさしかかったとき、澄んだ合唱の声が飛んできて耳を打った。
噴水の傍らで巡礼者姿の男が手振りで指揮を執り、歌を教えていた。
子供たちの中で最も幼い少女が近寄ってきた。祭りのあいだ手首に結んでいたリボンをほどき、はにかみながら差し出した。
純粋な好意。
アッシュはびくりと半歩後ずさった。突き返すことも、受け取ることもできなかった。ただ小さな手を見下ろし、目をそらした。少女は傷ついた顔で母親の元へ戻っていった。
依然として歌がまとわりついていた。笑い声で墓碑をぬぐっている。
ドレイクがそんなアッシュの肩を小突いた。
「いい加減しけたツラやめて酒でも飲みに行くぞ。エンジンも生き返ったんだ、一杯やらねえとな」
促し、背を向けようとしたそのときだった。
「待って!」
切迫した声が足を止めた。畑で見かけた少年、ルカスだった。ルカスがアッシュに駆け寄ろうとするのを、広場の片隅にいた巡礼者ガレスが阻んだ。
「小僧、どこへ行く気だ!」
ルカスの肩をつかんで、すごんだ。
「近づくな! あいつは教団の犬だ!」
だが少年はその手を振り払い叫んだ。
「違うよ! 聖女さまが……直接お連れしてって言ったんだってば!」
ガレスの手を逃れたルカスがアッシュの外套の裾を握りしめた。息せき切って、覚えた言葉を忘れまいと一語一語はっきりと吐き出した。
「アッシュ兄ちゃん……だよね? 聖女さまが……探してるの。どうしても、話したいことがあるって……」
祭りの喧騒が嘘のように遠のいた。
「馬鹿言え!」
ドレイクが反射的に立ちはだかった。
「これ以上あの女と関わる理由はねえ。部品も手に入れたんだ、さっさとずらかるぞ」
答えなかった。少年の瞳を静かに見下ろした。正解を失った者が誤答しか知らぬ者に道を問うようなものか。
うんざり。だが目を背けられぬ類の枷だった。
遂に動く。ルカスへ一歩を踏み出した瞬間ドレイクが肩を強くつかんだ。
肩に乗った重みを感じ、小さく首を振ると、その手は離れた。振り返らなかった。
「……案内しろ」
アッシュはルカスに従い闇の中へと歩み入った。
ドレイクの手から果物の串が力なく地面へこぼれ落ちた。広場の華やかな灯りと子供たちの歌声が、あざ笑うように散っていく。




