第11話:完璧な闇
早朝の空気にはすりつぶされた薬草と朽ちた木の匂いが入り混じっていた。エリアーナの居所は聖所というより野戦の天幕に近かった。
アッシュは闇のよどむ入り口脇の死角に立った。卓上の蝋燭は赤い蝋だまりだけを残して固まっていた。燃えさしの芯の上に、蒼白い暁光がにじんでいた。
そのとき。収穫祭の準備に沸く歓声が波のように押し寄せた。入り口を覆う布がふるりと震え、内部の静寂は重く沈殿していった。
中央にエリアーナがいた。簡易寝台に腰掛け、組んだ手だけを見下ろしていた。
歓声が途絶えると、隅の水盤の前に立った。揺らぐ水面にやつれ果てた顔が浮かび上がった。しばらくのぞき込んでからアッシュのほうへ歩み寄ってきた。顔を上げ正面から向き合った。
「私の目は……もう信じられません」
ほとんど囁きだったが、すべての音を飲み込んだ。
「本物なのか、仮面なのか。もう分かりません。信じたい景色しか映らないんですから」
無意識に手が目元をなぞる。
「ですがあなたは違いますよね。今日一日だけ……私とともに歩いてください。そして教えてください。見えるままを」
エリアーナの揺れる瞳を見つめ返した。
外から子供の澄んだ笑い声が飛んできて張り詰めた空気を切り裂いた。視線が入り口へ一瞬向かい再びエリアーナに戻った。緩慢に一度うなずき背を向けた。
天幕を跳ね上げると——光がなだれ込む。エリアーナは光の中にさらされた両手を見下ろした。
奇跡を紡いだ手。今はただ震えている平凡な女の手。
砕けんばかりに強く一度握り締め、開いた。
やがて外へ歩き出した。アッシュは一歩、脇へどいた。エリアーナが原色の激流へ足を踏み出せるように。
審判台へと歩みゆく背中を、ただ見送るだけだった。
* * *
祭りは色と音の爆発だった。
太陽は世界の彩度を奪い尽くすほど苛烈で、風景は奇妙なまでに乾いていた。宙を漂う甘い匂いすらどこか作り物めいて感じられた。
雑踏の中を歩いた。
ひとりの女がエリアーナに気づき野花を差し出した。澄みきった顔には平穏だけが漂っていた。
エリアーナが乾いた微笑みとともに受け取ると、女は幸福そうに頭を下げ喧騒の中へ溶けていった。アッシュは遠ざかる後ろ姿と、エリアーナの手の中でしおれゆく野花を記録するように交互に見やった。
規則的な金槌の音が周囲のざわめきを断ち割った。靴修理の露店前でエリアーナの足が止まった。主の老人はかつてひどい関節炎を患っていたが、聖女の奇跡によって再び槌を握った男だった。ちょうど修繕を頼んでいた客が靴を受け取るなり顔をしかめた。
「爺さんふざけてんのか? ちぐはぐじゃねえか!」
視線が一足の靴に留まった。左は滑らかな仔牛の革、右は粗い山羊の革。完璧なちぐはぐ。
老人はしばらくいじり回してからハハと笑った。
「この手がのう勝手に嘘をつきよるんじゃ。まあ足は楽なはずじゃよ」
恥じらいも悔いもなかった。手が犯した過ちを他人事のように語っていた。
片方はもう片方の過ちを知らない。互いに違うからこそ釣り合う——皮肉。
エリアーナは靴から目を離せなかった。
再び歩き出そうとしたときだった。ひとりの子供が脇をかすめ、持っていたものを落とした。粗末な青い絵具が塗られた小さな鳥の人形だった。
泣きもせず、拾ってくれとせがみもしなかった。アッシュと人形を見やり、にこりと微笑むだけだった。沈黙は無視を許さなかった。
仕方なく身をかがめた。指先に触れた感触の上を、灰の山で見た折れた翼の幻影がよぎる。
一瞬ためらい、差し出した。人形を受け取った子供はぺこりと頭を下げ振り返りもせずに遠ざかった。
また歩いた。
子供たちの手には人の頭ほどもある果実が握られていた。皮は塗り重ねた絵具のように不自然なほど滑らかだった。
ひとりが大きくかぶりついた。サクッという音の代わりに繊維が引き裂かれる鈍い音がした。
「味がしない……」
母親が血相を変えて駆け寄った。慌ててもうひとつ果実を抱かせた。
「こら! そんなこと言うもんじゃない! さあ、これも食べなさい。恵みに感謝するのよ!」
味のない果実の上に別の味のない果実が重ねられた。
母親が子供を引っ張って消えた後、気まずさだけが残った。アッシュはつぶやいた。
「……もともと味がしないのか」
エリアーナは答えられず顔を背けた。
* * *
夕暮れになると人々は焚き火の周りに集まってきた。焚き火は温もりを与えつつも深い影を吐き出し、それが疲れた顔の上で踊っていた。
ひとりの若者がとろんとした目で杯を掲げ叫んだ。
「狼団だろうがクソだろうが、束になってかかってきやがれ! ちっとも怖くねえんだよ!」
その言葉にかつて傭兵だった老いた男が鼻で笑った。
「臆病を売り飛ばしたか。犬死にするってのに、怖くねえだと?」
炎が一度低く消えかけるように揺れた。傍で息子の背を撫でていた女がぽつりと言った。
「うちの子……毎晩の咳が止まったのはいいんですけど、妙に駄々をこねないんです。ただ……あげたものをそのまま飲み込むだけで」
最後に、妻を亡くした老人が消えかかる火種に目を落としてつぶやいた。
「女房の顔は思い出せるんだが……悲しくないんだ」
瞬間、薪の一つが崩れ落ち、火の粉を吹いた。闇が一尺伸びる。
アッシュは喘ぐ残り火を見た。光が消えた跡には、闇に沈んだエリアーナの蒼白い顔があった。
* * *
夜が更ける頃ドレイクが姿を見せた。顔には安堵と苛立ちが入り混じっていた。
「くそったれ。エンジンに息は吹き込んでやった。あとは飛ぶだけだ」
三人の足は自然とまだ灯りの落ちていない祭りの外れへ向かった。ドレイクの義眼が胡散臭い射的の露店で止まった。明滅するランプの下、誰が見ても当たるはずのない的が巧妙に配置されていた。
ドレイクが空笑いを漏らした。
「こいつらなめてんのか?」
横に立つエリアーナのことさえ忘れ、露店に近づいた。機械の義眼まで駆使し銃身の角度と風速を計算したが結果は失敗の連続だった。理性で不条理に挑む必死さが野次馬の安い笑い種となっていた。
ところが、すぐ隣から予期せぬ音が聞こえた。
「……ぷっ」
小さく弾けた、こらえようとして漏れた破裂音。
エリアーナだった。
初めて聞く種類の音だった。口を覆っていたが、肩は細かく震えていた。無表情に固まっていた顔の上に笑みが咲く。
ドレイクの首筋が赤く染まった。ぶっきらぼうに言い放った。
「そんな簡単に見えるかよ?」
そのときアッシュが動いた。銃を奪いエリアーナに差し出した。「やってみろ」という勧め。
エリアーナは手を振って断ったが、アッシュは引かなかった。結局おずおずと銃を受け取った。おぼつかない構えでほとんど目をつむるようにして引き金を引いた。
銃声が虚空を裂いた。弾丸は見当違いの方向へ飛び、壁に当たって跳ね返り、隅の空き缶を力なく倒した。狙いではなかったがともかく成功だ。
「あ……」
エリアーナは手と、床に転がる缶を交互に見つめ、子供のように目を丸くした。すべてを忘れて晴れやかな笑い声を上げた。ドレイクがあきれた顔になった。
「ありえねえ!」
その笑い声を、その表情を、焼き付けた。
エリアーナが銃を下ろすとアッシュが受け取った。狙いもつけなかった。面倒くさそうに手首だけを返し、引き金を引いた。
空間が陽炎のようにゆがむ。弾丸は不可能な軌跡を描き障害物を避けて的のど真ん中に吸い込まれた。
けたたましいベルの音がざわめきを断ち切った。露店の主人は口を開けたまま言葉を失い、ドレイクは唖然とした顔で立ち尽くしていた。
アッシュは景品である、滑稽なほど巨大なぬいぐるみを受け取った。しばし見下ろしてから、親の手を握りぼんやりと眺めていた子供へ向かった。昼間、人形を落としたあの子供だった。
子供がぬいぐるみを抱え込んだ。体ほどもある贈り物なのに、硝子のような目で見上げるだけだった。
「ありがとうございます」
答えず背を向けた。
戻ったときエリアーナの顔にはまだ薄い笑みが残っていた。視線が交わった瞬間、その瞳から戯れの色が消えた。
アッシュは行くべき方向へ顎をしゃくった。
エリアーナは少し息を整えた。さきほどの笑いがため息とともに散った。そして小さくうなずいた。
* * *
三人が焚き火に戻った頃には、祭りの熱気は引き波のように遠のいていた。
灰をかぶった薪は、かろうじて赤い吐息だけを漏らしていた。ドレイクは舌打ちし、懐からスキットルを取り出してあおった。
「あのポンコツでも見てくる」
アッシュと笑みを失ったエリアーナを見比べ、闇の中へと消えていった。今や野営の中央にはふたりだけが残った。
示し合わせたように言葉はなかった。死にゆく熾火を見つめた。
エリアーナは懐から潰れた空き缶を取り出しもてあそんだ。束の間、本物の笑いをくれた、冷たい感触。
火影が危うげに瞬くたびふたりの顔が闇の中に浮かんでは沈んだ。すすけた匂いだけが空白を埋めた。
しばらくして、エリアーナが残り火を背に立ち上がり、アッシュと向かい合った。逆光に遮られ、表情は見えなかった。ただ声だけが闇を裂いた。
「もういいんです。私が何を終わらせるべきか……はっきりと見ましたから」
アッシュに最後の問いを投げた。
「あなたの目に映る私は……救い主ですか、それとも災いですか」
答えなかった。赤く明滅する灰の山だけを見つめた。目をそらさぬまま緩慢に腰元へ手が伸びた。癖で探ったがつかめるものはなかった。
エリアーナの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……そうですか」
低い一言を最後に、握りしめていた空き缶を石の上に置いた。小さな金属音が対話の終わりを告げる終止符のように響いた。
短い目礼を残し天幕へ戻っていった。
ひとり残された。最後の熾火が一度燃え上がるかと思うと、ふつりと途切れ、灰の中に姿を隠す。
完璧な闇が降りた。
その闇の中でアッシュは、主を失った空き缶を長い間見つめていた。




