第12話:冷たい暁
乱雑にひるがえっていたリボンは疲れた吐息さながらに垂れ下がっていた。天幕からエリアーナが幽霊のように抜け出た。手にしていたのは水筒とパン一切れ。
振り返らなかった。アッシュが小さくうなずいた。
二人が灯りの届かぬ分かれ道にさしかかったとき、ドレイクが岩に腰掛けていた。腕を組み、面白くもなさそうな顔だった。
「遅えよ。別れの挨拶クソ長えんだよ」
エリアーナは軽く頭を下げた。ドレイクは舌打ちして立ち上がった。
「お前のカッコつけに付き合ってちゃ、ろくな死に方しねえよ」
何かを投げてよこした。薬草の袋だった。
三人は村を一望できる丘の道に立った。片側には豊穣が、もう片側には荒野が広がっていた。夜が明け、輪郭を現す村を、エリアーナはこれが最後と目に刻んだ。
丘の下に小さな獣が見えた。野良猫が一匹、陽射しの中で身を伏せ、何かを狙っている。
稲妻のように飛び出し、鼠を一匹さらった。
エリアーナは胸元の竜の涙を両手で包み込んだ。自分の奇跡には牙も、爪も、足掻きもなかった。あるのは剥製の平穏だけ。
沈黙が長引くとドレイクが鼻を鳴らした。
「時間ねえぞ。先は長え」
エリアーナが歩き出し、アッシュとドレイクが後に続いた。距離は、なかなか縮まらなかった。
* * *
光の差さない教会に、埃とマナの残り香が淀んでいた。
テリオンが窓辺に立っていた。指先が宙を滑るたび、白亜の文字が描かれては消えた。
不意に、手が止まった。殺気を嗅ぎ取ったドレイクが短く舌打ちした。
「俺は風にでも当たってくる」
扉が閉まり、エリアーナが先に名を呼んだ。
「テリオン」
声には温かな決意が宿っていた。描きかけのルーン文字が、パチッとはじけて火花のように散華する。
「ヴァレンタイン。何の茶番です?」
アッシュの視線が窓辺に刻まれかけた術式をなぞった。
「一人で抑え込めるとでも思ったか」
エリアーナが二人の男の間に歩み出た。
「もうその必要はないの」
テリオンの口が半ば開き、閉じた。やがてアッシュを睨んでせせら笑った。
「姉さん、こいつが何者か分かってるのか?」
エリアーナはアッシュを少しだけ振り返った。それから弟の目を真正面から見据えた。
「彼を信じているわけじゃない。……私の選択に、彼が必要なだけ」
「姉さん!」
そのとき、アッシュが宣告するように口を開いた。
「お前の姉を助けられるのは俺だけだ」
テリオンの口元に嘲笑が浮かんだ。
「……正気ですか」
一歩踏み出すと床板が悲鳴を上げた。
「どうやって? まだご自分が大騎士のおつもりのようですが、あなたは八つ裂きにされてしかるべき裏切り者です」
殺気が喉元に突きつけられた。アッシュは薬草を取り出し、口に放り込んだ。苦い味が舌の根まで広がった。
「だがまだ生きてる」
足元の瓦礫を無造作に踏みにじった。
「なんでだと思う?」
気だるげに緩んでいた瞳がテリオンを真っ直ぐに射抜いた。
「お前が姉のためにできることはもうない」
「あなたには……関係のないことです」
「お前こそいつまでごまかせると思ってる? 時間がないのは、お前のほうがよく分かってるはずだ」
テリオンの肩がこわばった。反論しようとした唇が固く引き結ばれた。
「あとは俺に任せろ。お前の姉を救えるのは俺だけだ」
行き場を失った瞳がエリアーナに向かった。姉が穏やかな目で弟を見つめ返していた。
視線が姉の手で止まった。傷だらけの白い手。
テリオンの拳が固く握られ、力なくほどけた。窓の隙間から風が吹き込み、埃が舞い上がった。
片手で顔を撫で下ろし、口を開きかけた——
窓が白く染まる。轟音。ステンドグラスが砕け、硝子の雨を降らせた。
「今度は……何だ」
テリオンがつぶやいた瞬間ドレイクが扉を蹴り開けて飛び込んできた。
「アッシュ! 狼団の野郎どもが港を片っ端からぶっ壊してやがる!」
ドレイクの叫びが消えぬうちに、アッシュは動いていた。エリアーナも後を追おうとしたがテリオンの腕が遮った。
「駄目だ! 姉さんはここにいろ!」
「でも!」
ドレイクがうんざりしたように割り込んだ。
「聖女様はここにいな。俺たちに任せな」
言い捨てるが早いか扉の外へ飛び出していった。テリオンはエリアーナと遠ざかる背中のあいだに視線をさまよわせ、奥歯をかみしめて背を向けた。
ひとり残されたエリアーナは、三人の男が硝煙の向こうへ消えていくのを見送った。
* * *
丘の上から見下ろす港は、すでに地獄の序曲だった。
頭上にあるべき太陽は見えなかった。街が吐き出す炎と煙が空を呑み込み、病んだ橙色に揺らめいている。
無数の悲鳴が波のように押し寄せた。ドレイクが唾を吐き捨てて唸った。
「街ごと食い尽くすつもりらしいな」
炎。悲鳴。崩れる建物。アッシュには見慣れた光景だった。教団の旗の代わりに、二人の男の荒い息遣い。違いはそれだけだった。
視線が一点に固定された。昨日まで巡礼者の歌声が聞こえていた場所から、黒煙が噴き上がっていた。風向きが変わり、熱気が丘の上まで吹きつけてきた。
「……なんてことだ」
テリオンの瞳が細かく震えた。
「クソ野郎どもが……!」
ドレイクの義眼が遠くの光景を拡大した。赤狼団が民間人を獲物のように斬り伏せる姿を捉えた。
「迷ってる暇はねえ! 行かなきゃ全員死ぬぞ!」
アッシュが地を蹴った。迷わず駆け出した。
「アッシュ!」
振り返らなかった。テリオンとドレイクが後を追った。




