第13話:不協和音の洗礼
救護所へ向かう街路では絶叫と慟哭、怒号が絡み合って鼓膜を叩いた。入口はバリケードと死体で塞がれていた。生き残った兵士は恐怖に駆られ、散り散りに逃げていた。
テリオンが叫んだ。
「退くな! 教団の名において命じる、持ち場を守れ!」
だが兵士のひとりに押しのけられた。手が触れた法衣の胸元を呆然と見下ろすばかりだった。
リボルバーのシリンダーが回る音が、意識を現実に引き戻した。ドレイクだった。
「何やってんだ司祭サマ。お祈りは後にしろ」
そのとおりだった。最後の衛兵すら踏み潰した赤狼団は飢えた群れと化して溢れ出し、殺気は戸口の隙間に潜む民間人へ向いた。
斧が最もたやすい獲物の背に突き立った。店の扉を閉めようとしていた老いた商人が悲鳴ひとつ上げられぬまま崩れ落ちた。手から落ちた鍵束はぬめった血の音に呑み込まれた。
遮蔽物のない路上で三人は狼団の集中攻撃に晒された。
「左、四匹!」
ドレイクが砕けた馬車の陰に身を寄せて叫んだ。リボルバーの反動が前腕を重く叩いた。義眼が視界を塗り替え、敵の武装と動線を記号に変換した。
脅威要素。石弓二、斧一。最優先排除対象、民間人へ向かう剣兵。
叫びは届かなかった。一家が刃の下に倒れた。
感傷に浸る暇はない。次弾を装填する。相棒はいつもどおり好き勝手で、司祭は実戦経験が足りない。防衛線は自分ひとりで支えるしかなかった。
傍らでテリオンが詠唱を紡いでいた。理論どおりならばマナの流れを計算し、最も効率的な地点を撃つべきだった。
指先を離れた光が過たず標的を貫いた瞬間、衛兵の胸に刃が食い込んだ。書物で学んだ秩序は、ここにはなかった。
アッシュの動きは混沌の極みだった。物理法則をあざ笑うように空間を掻き裂く剣が味方の陣形さえ切り捨てた。
「くそっ……どうしろというんだ」
ぼやき終わらぬうちにひやりとした気配がした。巨躯の狼団員が斧を振りかぶり、懐に潜り込んでいた。
躱せない。死を確信した刹那。
目の前でアッシュの姿がかき消えた。短い断末魔が響いた。
振り返ったとき狼団員の頭部は胴体から離れ、地面を転がっていた。
剣に付いた血を払い落とす音だけが鮮明だった。
* * *
戦闘は市街戦へと広がった。割れた硝子窓が炎を映して閃いた。立ち込める煙の向こうで、怯えた民間人の顔と貪欲に光る略奪者の眼が交差した。
アッシュの視線が止まった。崩れた果物屋台の陰に、子供がひとり。
汚れた手には昨日渡した人形が握られていた。
……計算になかった変数だ。冷徹だった判断に雑音が混じり始めていた。
子供に向かって狼団員ふたりが薄ら笑いを浮かべながら近づいていた。
アッシュが動こうとした瞬間ドレイクの切迫した叫びが飛んだ。
「アッシュ、上だ!」
反射的に体を捻った。肩を掠めて飛んだ矢が煉瓦に深く突き刺さった。
路地の反対側でもうひとりの男がその光景を目撃していた。
ガレスだった。
その視界にも無防備な子供の姿が飛び込んできた。顔から迷いが消えた。隣で小刻みに震える巡礼者の肩を軋むほどに掴んだ。
「恐れるな、兄弟よ」
畑仕事のピッチフォークを握り直した。そして割れた声で叫んだ。
「少しでいい……時間さえ稼げればいいんだ!」
叫びに応じ、周囲にいた巡礼者五、六人が角材と割れた瓶の欠片を手に立ち上がった。最後の信仰を絞り出し、無謀に突撃した。
「なんだ、この虫ケラどもは」
立ちはだかったのは狼団の頭目バルガスだった。巡礼者を、蝿を払う手つきであしらった。
巨大な斧が振るわれるたび、悲鳴とともに薙ぎ払われていった。
ガレスは仲間の死にも止まらなかった。ただ子供に向かって必死に道を切り開いた。遂にバルガスの眼前に辿り着いたとき、手にしたフォークはすでに歯が欠けていた。
バルガスが鼻で嗤った。首をわずかに傾けるだけで渾身の一突きを躱し、斧を横薙ぎに振り抜いた。ガレスの体が紙切れのように弾け飛んで壁に叩きつけられた。
世界が横に傾いだ。霞んでゆく視界の果てに子供を抱えて身を翻すアッシュの背中が遠ざかっていった。
最期に涙がひと粒浮かび上がり砕け落ちる。
光を失った瞳はもう、何も映さなかった。
* * *
ガレスの死が残した静寂を破ったのはバルガスの低い笑い声だった。先刻すれ違ったアッシュの奇妙な動きを執拗に追う目には、剥き出しの興味がぎらついていた。
先日の埠頭で生き延びた部下の報告が脳裏に蘇った。空間を飛び越える亡霊。
口元に貼りついていた嘲笑が確信に変わっていった。
「……影のように動く剣。貴様か」
声は血の匂いを嗅ぎつけた狼のそれだった。
「埠頭で俺たちに一杯食わせた野郎か」
手を挙げ、下ろした。路地の屋根と出入り口から狼団員が一糸乱れず姿を現した。数百に達する狼の群れが一斉にアッシュへ包囲網を狭めてきた。バルガスが部下に命令を下した。
「盾隊! あのデカブツを抑え込め!」
タワーシールドと鉄槌で武装した重装兵の一団がドレイクに殺到した。ドレイクは砕けた馬車を盾代わりに凌ぐも、鉄槌が振り下ろされるたび木片が降り注いだ。
交互に叩き込まれる攻撃に前腕から鈍い破砕音が響いた。ドレイクは低い呻きとともに押し戻された。防衛線が崩れかけていた。
「術師! あの光り野郎の目を塞げ!」
次の命が下ると後列からローブを被った魔法使いが詠唱を始めた。黒い球体がテリオンの陣取る建物の二階に吸い込まれた。
一瞬にして濃密な闇が視界を呑む。もはや階下の戦場を把握することは叶わない。背後から忍び寄る敵の足音。
テリオンは長い詠唱を要する術を捨て、即座に放てる魔法を構えて身を潜めた。
最後にバルガスの視線がアッシュに向いた。口元の笑みがいっそう深まった。
「地面を溶かせ! 奴の足場を奪え!」
魔法使いが杖を打ち下ろした。無傷だった敷石がぬるりと溶け崩れた。同時に、狼団員の放った油瓶が地面で砕けた。
油の臭いが広がった直後、火矢が一本突き立った。炎が蛇のように這い回りアッシュの退路を断った。
鮮やかな空間魔法も跳ぶ足場がなければ意味はなかった。刃が掠め、火の粉が裾を焦がした。
遂に三人は袋小路に追い詰められた。
ドレイクは血の流れる腕を抱えた。煤混じりの咳を吐き出した。アッシュの足先にまで炎が舐め上がった。
四方から影が揺らめき、首を絞め上げてくる。バルガスは演出家のように眺めていた。
* * *
三人の男が煙の中へ消えた。
エリアーナは教会の床にくずおれた。遠くから聞こえていた爆音と悲鳴が寄せては返した。
轟音が響くたび、床が震えた。死にゆく都市の脈動のように骨を伝って這い上がってくる。
無力だった。
両手で耳を塞いだが、音は頭蓋の内側で鳴っていた。
胸元にかかる竜の涙を砕けるほどに握りしめた。
——お願い、止めて。あの暴走する憎悪と苦痛が鎮まるように。
だが切なる想いが力を引き出そうとした瞬間、脳裏に氷の声が突き刺さった。
——代償なき奇跡はない。
射抜いた、冷たい眼差し。
集中が砂のように崩れた。軽率な祈りは善意の名のもとに新たな災厄の種を蒔くのと同じだった。
握りしめていた手がほどけた。竜の涙は沈黙したまま、無力をあざ笑っていた。
視線が床に転がる硝子のかけらひとつに止まった。先刻弾け飛んだステンドグラスの破片だった。かつては偉大な聖女の姿が描かれていたはずのもの。
今は意味の読み取れない青だけが残っていた。
吸い寄せられるように手を伸ばした。冷えた破片の上に欠けた自分の顔が浮かんだ。
——これが、私なのか。
数々の奇跡。救済への足掻き。結局は、このかけらと同じだった。
黙って見つめた。手に力を込めると血が滲んだ。破片を置き、立ち上がった。
エリアーナは隅に置かれていた外套を羽織った。そして壊れた敷居を越え、煙の中へ一歩を踏み出す。




