第31話:オフィーリア (2)
「いつまでモタモタしてんだ。たかが箱ひとつ開けらんねえのかよ」
ドレイクの愚痴が書斎の重い空気を裂いた。
「うっさい、黙ってて。気が散るの」
「バカみたいに無理やりこじ開けようとするからだろ。頭使え、頭を。魔力の流れを読めっつってんだ」
「あーもう!」
言い返すセレナの声とともに、保管庫を巡る小競り合いが続いた。猫が喉を鳴らす低い音がその隙間を埋めていた。
騒がしい光景をかすめたアッシュの視線が、部屋の隅にいる銀髪の少女に短くとどまった。
薬草の葉をもう一枚くわえた。再び目を落とした。
* * *
九月三日
書斎にこもる時間より窓外のルナリスの花畑にひとり座り込む時間のほうが長くなった。
銀白の花びらが夜風にさざめくたび、波の向こうから駆けてきたオフィーリアの幻がちらつく。永遠に止まったこの城で、一夜で散る儚い花畑だけが最後の逃げ場となった。
夜気が骨に食い込むが、あの場所でだけは娘と分かち合った無傷の過去が息づいているのだから。
だがそれすら許されない。人形は何度も足を運んでは花畑の縁をさまよう。人形と目が合うのが、もう耐えがたい。
どうにかして気を引こうとあがく。昨日は書斎の隅でうずくまって編んだ銀白の花冠を差し出してきた。私は怒りもせず、払いのけもしなかった。一瞥もくれず通り過ぎただけだ。
振り返らずともわかっていた。人形は取り残された花冠をぼんやり見下ろし何が間違っていたのか理解できぬまま、ぽつんと立ち尽くしていたはずだ。本物の娘なら寂しさに涙をこぼしただろうに、人形にはそんな感情など存在しない。
今朝。生前のオフィーリアが愛した空色のドレスをまとって現れた。昨日の失敗を取り返すかのように娘の殻をわざわざ探し出して被ってきた。人形は私好みの温度にいれた茶をそっと置き、微笑んだ。
書斎の扉を閉めた。扉の向こうで衣擦れの音が長いこと消えなかった。
娘の瞳を持つ存在が娘の衣をまとい、戸口で主人を待つ犬のように行きつ戻りつする。私には死者の墓を暴いて皮を被った冒涜にしか見えない。
娘が横たわるべき安息の座を厚かましく占拠している人形に。
狂おしいほど反吐が出る。
* * *
九月十五日
壊れた時計は部品を替えれば再び時を刻む。生命もまたしかりだと盲信していた。
遠い昔、足元で喉を鳴らしていた老いたランスロットが息を引き取ったとき、死を機械の欠陥以上のものとはみなさなかった。ゼンマイが止まれば巻き直せばよい、古びた部品は交換すれば済む、と。だから冷めゆく脳髄と心臓を魔獣の骨格へ移植し、キメラに作り変えた。
巨大になったあの猫は再び目を開け、かつてのように裾に頭を擦りつけて喉を鳴らした。
ようやく悟る。あの獣は私の知るランスロットではなかった。死んだ猫の振る舞いを真似る新たな怪物をこしらえ、そばに置いて喪失を紛らわせていただけだ。卑小な生き物であるがゆえにその欺瞞的な慰めが通じたのかもしれない。
それをあろうことか、娘にしでかした。
生きるとは、刻一刻と揺らめく危うい炎だ。娘はいつも膝を泥だらけにし、突拍子もないわがままを言い、儚い時間を燃やし尽くしていった。傷と欠落こそがオフィーリアという魂の脈動の証だった。
あの人形を見るがいい。残酷なまでに完璧だ。傷ついても泣かず悲しみで軌道が狂うこともない。ただの一度も自らを壊しながら燃えることはない。あれの時間はよどんで腐ってゆく。傷つかぬものは、生きてなどいない。
永遠に壊れぬ剥製をこね上げ生命だと錯覚していた。死とは、生命という文を初めて完成させる句点だった。私は理に逆らい、崩せぬ墓標を打ち立ててしまったのだ。地獄の底までさらってでも掬い上げようとした宇宙は、初めからありはしなかった。
* * *
十月二日
うねっていた銀白の波が死んだ。娘と育てたルナリスの花畑が一夜のうちに黒く崩れ落ちた。魂を横たえていた最後の逃げ場にはもう、灰の匂いをはらんだ風しか残っていなかった。
アレの仕業だった。
灰にまみれた空色のドレスの裾を握ったまま、目の前に立っていた。指をもじもじと動かしながら、造物主をさいなんでいた元凶を遂に排除したという、うすら寒い安堵を浮かべて見上げてきた。
毎日花畑でくずおれる私を見つめていたアレが、とうとう焼き払った。
夜風に乗った炎は思い出をのみ込むだけでは終わらなかった。山裾の村まで燃え広がり、十数人の罪なき者が炭となって見つかった。誰かの親であり、誰かの子であった命が、私の被造物の盲信ひとつで塵と消えた。
自分が何をしでかしたか、わかるまい。他者の苦痛も命の重みも、初めから移植されていないから。
アレにとって世界の基準は私の表情ひとつきりであり、アレは私を笑わせることさえできるならこの世を丸ごと焼き尽くすことも厭わぬ壊れた機械にすぎない。
——パパ。もう悲しくない?
全身から血の気が引いた。
私の娘の声だった。無辜の命を灰燼に帰した化け物が、愛らしい声色で私の称賛を乞うていた。
もう耐えきれない。
* * *
十月三日
アレの唇から漏れていた娘の声を抉り出した。
声帯を断つのに要したのは刹那だった。娘を真似て慰めを垂れ流していた雑音が途絶えると、書斎が息をのんだ。
音を失ったアレがゆっくりと顔を上げた。私を縛ったのは、娘の無傷の両眼だった。防腐液の中に保存し移植した、この宇宙にただひとつ残る本物のオフィーリアの欠片。
怪物の眼窩にはまって見つめていた。
あの忌まわしき被造物が娘の瞳で世界を映しているという事実をどうしても許せなかった。存在してはならない。
指先に魔力を凝縮した。動力炉を貫き、あの不敬な眼窩から娘の瞳までも抉り取り、この失敗した奇跡を廃棄する。冷たくこわばった頬に手を添え、碧い瞳へ魔力の刃を突きつけた。
避けなかった。存在を消し去る掌が迫っているのに微動だにしなかった。私のために世界を焼いた盲目的な怪物が、処分を淡々と受け入れて見上げていた。
透き通る碧い瞳から、何かが伝い落ちる。頬は乾いていた。錯覚だ。アレの回路に涙を紡ぐ機能など存在しない。
手が宙で止まった。
声を抉ったときは一片の迷いもなかったというのに、力を込めるに忍びなかった。この眼をくり抜いてしまえば世に残る娘の痕跡は永遠に消滅する。宇宙の最後の欠片まで消し去るその完全な喪失を前にする勇気が私にはなかった。
結局、手を引いた。隅に転がっていた黒い端切れを拾い両眼を覆った。後頭部にきつく結び目を作った。
目まで塞がれた人形が、闇の中にぽつんと立っていた。
* * *
目を塞いでから幾日が過ぎたのかわからない。
窓の外から漂う焦げた匂いが薄れゆく間、人形は書斎の片隅に立ち一歩も動かなかった。この痩せ細った字を綴っている今も、ペン先が紙を噛むたびに首がわずかにかしぐ。人形の全神経は、なお私に向いている。
いっそ外してくれと泣きわめいていればまだ楽だったものを。何の恨みも反抗もなくおとなしく受け入れるあの盲目性が魂を底まで抉る。
息遣いさえ聞こえぬ書斎。
ゼンマイを巻かれてなお、進まぬ時計。
黙って私へ首を傾け続けるあの枯れぬ墓標を死ぬ日まで見届ける刑罰は背負いきれない。
すべてを止めてしまったこの城に遺す。
記憶も、罪悪も、傲慢も。
明日、陽が昇ればエレボスを去る。そして二度と戻ることはない。
私の娘は、死んだのだから。
* * *
革表紙が噛み合う鈍い音が虚空へ散った。オフィーリアの首が微かにかしぐ。少女は今も、小さな気配ひとつに全神経を張り詰めていた。
どこかで時計の振り子が左右に揺れる音だけが時を切り刻んでいた。
「開いたーっ‼」
背後からセレナの歓声が弾けた。




