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灰と影の歌  作者: Fugato
第三章:シミュラクラム
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第30話:オフィーリア (1)

 聖暦六二七年 七月四日

 ——砕けたのなら、組み直せばいい。生命とて変わりはない。

 部品が摩耗すれば取り替え、回路が断たれればルーンを刻み直して動力を注げば済む話だ。肉体という殻も所詮は精巧に組み上げられた有機的な機械装置にすぎぬではないか。

 心臓は動力炉。血管は管路。脳は記憶を格納する装置。ならばなぜオフィーリアだけは直せないというのか。

 死は侮辱だ。聖なる摂理などではない。知性に対する醜悪な嘲弄であり神の卑劣な報復だ。

 学会の愚者どもは理に従えと説き諦めを強いた。教団の司祭どもは神の御心だと嘯(うそぶ)いた。壊れたものを直そうとすることがなぜ罪なのか。直す力を持たぬがゆえに死を神聖化して己の無能を取り繕っているだけだ。

 偽善者ども。反吐の出る偽善者ども。

 だが唯一の理解者であったコンラートまでもが、あんな目を向けるとは思わなかった。培養管に収めた私の研究を見て色を失い凍りついた。そして言った。もう眠らせてやれ、と。

 眠らせてやれだと。冷たく暗い土の底へ放り込み朽ちるに任せるのが安息か。あの瞳をよぎった侮蔑と憐憫(れんびん)を生涯忘れることはないだろう。一生を分かち合った友情が道徳という美辞の前でこうもあっけなく崩れ落ちるとは。

 胸の一隅をえぐり取られたようだが、構わない。すべてが去っても構わない。そうだ、世界中が狂人と罵り、指を差そうが構わない。

 窓の外でオフィーリアとともに育てたルナリスが月光をはらみ凍(い)てつくように燃えている。一夜(ひとよ)で散るあの儚い花ですら明日にはまた咲くというのに、娘の笑みが永久に散らねばならぬ理由など、この宇宙のどこにもない。

 あの花畑にひとり佇むたび骨身に染みる孤独が押し寄せるが、止まるつもりはない。


 オフィーリア。私の宇宙。私のすべて。


 パパが必ずおまえにもう一度息を吹き込んでみせる。神の胸倉(むなぐら)を掴んで揺さぶってでも、地獄の底からおまえの魂の欠片(かけら)を掬(すく)い上げてでも。

 たとえこの世のあらゆる理に逆らい、おぞましい怪物に成り果てようとも。


 * * *


 聖暦六三三年 七月四日

 娘が生き返った!

 おお、神よ。……いや神など要らない。この私こそが神なのだから。

 今日、私のオフィーリアが目を開いた。冷え果てた器の胸郭で心臓が脈打ち始めたとき、耳を疑った。

 培養管の羊水が引いてゆき、娘が初めて息を吸い込んだ。震える唇の隙間からこぼれた最初の吐息が頬に届いたあの温もりを、どうして文字に書き尽くせようか。

 娘が目を開いた。防腐液の中に大切に保存しておいた、娘の無傷の両眼。あの碧い宝石を空の眼窩(がんか)にはめ込み、魔力で血脈を繋ぐと、生前は私と同じ色で世界を映していた瞳が私に向けられた。


 オフィーリア。


 震える声で名を呼ぶと、娘はゆっくりと首を巡らせ、こちらを見つめた。

 奇跡だ。世界の理をねじ曲げ砕き、遂に奇跡を創り上げた。蒼白だった頬にうっすらと血の色が差し始め、髪は漆黒から銀色に変わってしまったが、それすらも月光のように美しい。

 娘がよろめきながら手を伸ばす。私は床に膝をつき、小さな身体を砕けるほど抱きしめた。温かかった。冷たい金属でも硬直した屍(しかばね)でもない。私の娘だ。死という盗人から完全に奪い返したのだ!

 今宵エレボスの愚かな者どもは死という幻想に屈して眠りに就くだろうが、私は永遠の生命の朝を迎えた。

 オフィーリア。もう私たちは永遠に幸福だ。二度とおまえを失いはせぬ。……二度と。


 * * *


 アッシュは日記から目を離した。大時計の振り子の音が壁を伝ってくる。

 隅の少女は先刻と同じ姿勢のままだった。

 しばし少女を見据え、薬草の葉を取り出した。カリッ、と噛み潰すと苦みが舌を刺した。

 再び頁(ページ)へ視線を落とした。


 * * *


 聖暦六三三年 八月四日

 あの子が目覚めてひと月が過ぎた。城に再び温もりが戻っている。ランスロットも嬉しいのか終日あの子の脚に頭を擦りつけてはゴロゴロ喉を鳴らしている。

 少し、しっくりこない。以前のあいつなら、とうに研究室の器具を叩き割り、ランスロットを相手にかくれんぼをしながら廊下を揺るがして駆け回っていただろう。うるさいと怒鳴れば、首にしがみつき頬をすり寄せてぬけぬけと笑ってやり過ごしたものだ。

 だが静かだ。あまりに静かで背後に立っていることにすら気づかぬほどだ。

 あの子は一日中窓辺に座って森を見つめている。かつて泥だらけになって手折(たお)ってきたルナリスも、今は花びらを傷めまいとしてただそっと撫でている。活発で騒がしかった娘は繊細で内向的な子に変わっていた。

 死の深淵を覗いてきたためだろうか。あるいはあの凄まじい苦痛が幼い魂を鎮めたのだろうか。失った体力がまだ戻り切っていないだけかもしれない。

 廊下を轟かせていたあいつの駆け足と、天井が崩れんばかりの笑い声がふと恋しくなることはある。

 だが案ずることはない。あの子が書物を読みながらすうっと眠りに落ちたとき、白い頬を撫でると掌に温もりが移る。寝息がこの静まり返った書斎を満たしてゆく。時折見上げてはルナリスを一輪差し出すあの子に、込み上げる安堵で胸が張り裂けそうになる。

 性格が少しおとなしくなったくらい、よいではないか。あいつは今も私を愛してくれていて、私は私の宇宙を取り戻したのだから。それで十分だ。


 * * *


 八月十七日

 あの子は静かだ。あまりに静かでどこかちぐはぐだ。いや、単なる性格の変化ではない。あの目には私の知る過去が映っていない。

 数日前、あの子に幼い頃いちばん好きだった茶をいれてやった。熱いと舌を出して騒いでいた記憶があり、少し冷まして出したのだが、生まれて初めて目にするもののように不思議そうに茶碗を覗き込んでいた。

「美味しいかい?」

 問いにただ小さくうなずくだけだった。あのうなずき。あの機械的なうなずきが時折首を絞める。

 肉体と記憶の共鳴がまだ完了していないのだと自分に言い聞かせた。だからともに育てたルナリスの花畑へ向かった。

 以前のオフィーリアならば銀白の海を目にするなり歓声を上げて飛び込み、全身を葉と泥まみれにしていただろう。だがあの子は花畑の縁で足を止めた。裾が汚れぬよう気遣いながらただ静かに眺めていた。

 違和感を振り払おうと今度は娘との思い出の詰まった観測所へ向かった。幼い頃のあいつは望遠鏡の向こうの星座にでたらめな名前をつけていたものだ。

 太った魚の星。怒ったお玉の星……。

 名前をつけるたびに手をぎゅっと握り誇らしげに笑っていた顔が今も鮮やかだ。

 北天の星団を指し示した。あの子はしばらく見上げたのち、星々の共鳴率と、私が教えたルーン幾何学の法則を静かに暗唱した。辞典から切り取ったような回答。

 だがそれは、創造の過程で私の頭にあった知識が結晶となってあの子に刻印されたものにすぎない。正答を聞いた瞬間、冷たい風が首筋をかすめた。

 決定的だったのは昨日だ。あいつの十歳の誕生日に、初めて古代文字を教えてやった王国の地下洞窟。壁面に刻まれた文字を見れば、移植された記憶ではなく本物の思い出が反応するはずだった。

 洞窟に足を踏み入れても、あの子は茫然と壁面を見つめるだけだった。何の懐かしさも宿らないうつろな瞳。

 じれて詰め寄った。なぜ喜ばないのかと、おまえが初めて古代文字を書いた場所ではないかと。

 私のこわばった表情を見たあの子は戸惑った。そして床から鋭い小石を拾い上げ、私が刻んだ文字の下におぼつかない手つきで何かを刻み始めた。

 石が岩壁を引っ掻く音に、今も総毛立つ。刻まれたのは自分の名前だった。


 オフィーリア。


 たどたどしく、醜い文字。

 石の鋭い断面で切れて血がにじんだ白い指を背中に隠しながら、あの子は褒めてほしいとでもいうように私を見上げた。

 私の娘ならば顔色などうかがわない。知らないなら知らないと駄々をこねただろう。指から血を流してまで岩壁を削るなど、オフィーリアのすることではない。

 頭の芯が冷えた。異物感。精巧に人の皮を被った不気味な獣と対峙したときの本能的な悪寒だった。


 * * *


 八月二十一日

 記憶は存在を証明するか。同一の記憶を移植された肉体は果たして原本と同じ存在と呼べるのか。

 数十年にわたり錬金術の深淵を覗き続けてきた私は、肉体とは魂を収める精巧な器にすぎないと信じていた。

 器が割れたなら、より堅固な土と水で同じ形をこね上げれば済むことだ。脳細胞の配列、マナの固有波動、そして娘が十数年の歳月をかけて積み重ねたあらゆる記憶の結晶まで、シミュラクラムの脳に刻印した。理屈の上では、あの子は私のオフィーリアであるはずだった。

 だが人間の記憶は書庫に並んだ書物ではない。時の雨風に削られ、忘却の霧に覆われ、刻々と変転する感情の風化作用を経て初めてその人だけの魂として凝固する、不完全な欠片だ。

 生前の娘が過去を振り返るとき、その記憶の縁にはいつもおぼろげな郷愁や誇張がにじんでいた。人間は記憶を完全には保存できないからこそ、逆説的に欠落を感情で埋め固有の自我を完成させる。

 あの子は違う。回想するのではなく、閲覧する。

 昨日、七歳の頃に初めて海を見た日のことを訊いた。一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、波の色、頬を撫でた風の温度、鷗(かもめ)の鳴き声の回数まで、脳裏に刻印された最初の感覚をそらんじてみせた。

 だが巨大な海を初めて前にしたとき娘の魂を震わせた肝心の驚異は去勢されていた。奴は私の娘の生涯が記された日誌を丸暗記した他人にすぎなかった。

 今日の午後、この仮説は最もおぞましい形で証明された。

 書斎で書物を整理していたあの子がうっかり机の上のインク瓶を倒した。インクが紙に染み込み滴り落ちたが、私は怒らなかった。洞窟の一件以来、ただ無言で奴を見つめるばかりだった。

 かつての娘ならばどうしただろう。ぺろりと舌を出し、あのいたずらっぽい笑みを浮かべて私の袖を引いただろう。

 パパ、ごめんね。あたし、またやらかしちゃった。

 そうやってうやむやにするのが娘のやり方だった。

 沈黙を叱責と受け取ったのだろうか。ずっと床ばかり見て蒼白になっていたあの子が不意にぎこちなく顔を上げた。口の端を引き上げ、笑った。


 ——パパ、ごめんね。あたし、またやらかしちゃった。


 全身から血の気が引く。声の抑揚、気まずそうに笑うとき右目をわずかに顰(しか)めるタイミング。脳裏に移植しておいた記憶の結晶を探り当て正確に再現してみせた。

 だがその模倣の裏側には、怯えて震える瞳があった。自分が今どんな顔をしているかすら知らない生き物が、記憶にある娘の殻をまとい、必死の芝居をしていた。

 その奇怪な真似事を前に私は息をすることもできなかった。

 あの子は、不完全であるがゆえに美しかった娘の歴史を盗み写す、身の毛もよだつ模造品でしかない。


 私は何をしでかしたのか。

 望んだのは本当にこれだったのか。

 娘の瞳を宿すあの子が果たして、私の娘なのか。


 * * *


 アッシュは頁に置いていた指を引いた。

 顎の動きも止まった。背後の小競り合いが遠のいていった。

 ゆっくりと顔を上げると、銀髪の少女は膝の上で両手をそろえ慎ましく座っている。

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