第28話:主なき家の作法
銀白の波が足元で砕けた。アッシュは薬草の葉を取り出してくわえた。視線は城壁の厚みを測り、魔力管の這う胸壁をなぞった。
分厚い花崗岩。細く縦長の窓。壁面のそこかしこが焦げていた。時の流れから切り離された化石だった。
ふと一箇所に目が留まった。うっそうと絡み合う蔦の中で、窓を塞ぐ蔓だけが等間隔にまっすぐ切り落とされていた。誰かが世界をのぞく隙間を残した。
「ついてきて」
一行は花畑を横切り巨大な城門の前に立った。待ちくたびれた唇のように、門は人ひとり通れるほど半開きになっていた。
セレナが隙間から手を差し入れた。目を閉じて気流を読みながら小さくつぶやいた。
「罠はない。魔力反応も」
アッシュが敷居をまたごうとした刹那だった。うなじの産毛が逆立つ。微かだが確かな気配。闇の中から眉間を狙い澄まされる感覚だった。
足を止め森に目を走らせた。散る花びらのほかには何もなかった。怪訝に思ったセレナが振り返った。
「どうかした?」
「……誰かに見られてる気がして」
ドレイクが鼻を鳴らした。
「幽霊でもいるってのか」
セレナが眉根を寄せてもう一度探ったが、すぐに首を振った。アッシュはそれ以上何も言わず体を滑り込ませた。奥歯の間で薬草の葉がすり潰された。
* * *
敷居を越えると、降り注ぐ月光が床の上に長い影を三つ落とした。ブーツが石床を踏む音だけが空間をたたき、反響した。
セレナが掌の上に青白い光球を浮かべた。闇が引くと玄関ホールの中央に立っていたものが光の中へ入ってきた。人の背丈ほどの大時計だった。
「うそ……」
木製ケースの前面には幾何学模様とルーン文字がびっしりと刻まれていた。ドレイクが表面をこんこんと叩いた。
「数百年前に主人が出てったんだろ。このポンコツがどうやって動いてんだよ」
「ほんとよね」
手袋を脱いだセレナの指がガラス面をなぞった。
アッシュの目は別のところを向いていた。表面にはワックスの効いた艶が浮き、ガラスは指紋ひとつ残さぬほど澄み切っていた。磨き上げたばかりのように真新しかった。
真鍮の振り子が左右に重く揺れ、その響きを石床伝いに送り出した。
ガチリ、ゴチリ。時の止まった城。時計だけがひとり時を切り刻んでいる。
——二度目の気配。
「……」
今度は玄関ホールの上方、闇の沈んだ二階の欄干のどこかだった。アッシュの手が剣の柄へ伸びた。
顔を上げたとき影は欄干の向こうへ滑るように消えた。
「こっち。奥へ続く廊下がある」
気づいていないセレナが光球を先行させて歩き出した。アッシュは手を離し、後に続いた。振り子は闇の中でなお虚空を斬り続けていた。
* * *
二階のバルコニーに出ると壁面を丸ごと占める絵画が一行を見下ろしていた。
セレナがキャンバスの上へ光球をかざした。にじみ広がる光に導かれ三つの存在が闇の外へ浮かび上がった。
男、少女、巨大な獣。
男は鋭い知性と頑なさが入り混じった目元だったが、口元だけは優しい弧を描いていた。片手には杖を。もう片方の腕は隣に座る少女の肩を抱き寄せていた。
「この人がゼペットってわけね」
「血も涙もないイカれたじいさんかと思ってたのに」
ドレイクの目が男の傍らの少女へ移った。
十五、六ほどに見える少女だった。漆黒の髪と碧い瞳。満面の笑みを浮かべ膝の上で両手をそろえていた。その手に握られていたのは見覚えのある一輪の花だった。
ルナリス。
「ゼペットの娘か?」
「娘に決まってるでしょ。妻なわけないじゃない、バカ」
「魔法使いは見た目と中身が違うからな。ああ見えて数百歳のババアかもしれねえぞ」
ドレイクの軽口にもセレナは笑わなかった。少女の瞳をじっと見つめていた。
「……目を見りゃ分かるでしょ。大人は、あんなふうには笑わない」
眼差しが少女の無邪気な顔にしばしとどまった。
「で、あの化け物は何だよ。猫があんなデカいかよ。しかも二本足で立ってやがる」
指さしたのは少女の背後だった。熊の巨躯に猫の丸っこさを乗せた奇妙な獣。肖像画の中の家族を守る番人のようだった。
「ゼペットはキメラ術師だって言ったでしょ。肖像画に娘と並べて描かせるくらいなんだから……家族なんでしょ」
数百年前に止まった幸福が、古びたキャンバスの中から見下ろしている。
「もっと奥に行くわよ」
未練なく身を翻した。
バルコニーの先の廊下には両側の壁に沿って何かが立ち並んでいた。鉄とマナ石で組まれた人形たち。オートマタだった。箒を握る者、盆を持つ者、窓のほうへ腕を伸ばした者。それぞれが最後の務めを果たす姿勢のまま止まっていた。
セレナが箒を握ったオートマタに歩み寄った。関節の継ぎ目をあらためた目が見開かれた。
「……乾いてない」
「は?」
「油が乾いてないって言ってんの。関節は滑らか、錆もない。誰かが最近まで手入れしてたってこと」
「おい、ちょっと待て」
背後のドレイクが床にしゃがみ込み何かを拾い上げた。声が低く沈んでいた。分厚い指の間に挟まれていたのは針のように太い灰褐色の毛だった。
「……何かいる。とんでもなくデカいのが」
唾を飲み込み、リボルバーを引き抜いた。
古城の心臓部へ踏み込むほど空気は重みを増した。さらに奥深くへ下る階段が顎を開けていた。一段踏むごとに列をなしていたオートマタが視界から順に首をはねられていった。
「このままじゃ夜が明けちまう。何だよこの城、果てしなく……」
ドレイクが盾を構えた武装型オートマタの前を通り過ぎようとしたときだった。アッシュの耳の先がぴくりと動いた。執拗にまとわりついていた不快な視線がふつりと途絶えた。代わりに石床を伝って振動が這い上がってきた。
気流が反転する。壁面を走る回路が光を放つ。一斉に関節が噛み合う摩擦音が弾けた。
オートマタが起動した。最も奥の一体を皮切りに次々と息を吹き返していった。そして示し合わせたように三人へ首を巡らせた。赤いレンズが数十、闇の中で瞬く。
「くそったれ!」
リボルバーのハンマーを起こした。セレナも即座に両手へ赤い炎球を浮かべた。アッシュも剣の柄を握った。
ところが。
事態は奇妙な方向へねじれた。真っ先に飛び出した三体のオートマタがアッシュを素通りした。攻撃どころか一瞥もくれず脇を抜けていった。
セレナへ突進した一体も同様だった。行く手をふさいだだけで武器は振るわなかった。思わず一歩引けば、きっちり一歩詰めて防衛線を保った。
だがドレイクは違った。
「うわああっ!」
残るすべての人形がドレイクただひとりを目がけて殺到した。武装型オートマタの鉄槌が虚空を裂き、使用人型までもが盆と箒を振りかざして襲いかかった。
「ちくしょう!」
かろうじて身を転がし、攻撃をかわした。元いた場所の大理石が叩きつけられる武器に砕け散った。
「なんで俺だけなんだよ! あのいけ好かねえ女にも行きやがれってんだ!」
床を這いずりながらわめいた。装填する暇もなく金属の豪雨が降り注いだ。顔から血の気が引いた。
セレナは手の炎を消し腕を組んだ。
「よっぽど好かれてんのね」
「アッシュ! このクソ女! 見てねえで助けろ!」
絶叫が高い天井にこだました。
アッシュは床を転がる仲間の姿をしばし見つめた。そしてゆっくりと、剣の柄から手を下ろした。




