第26話:消え去りしものの座標
夜が退くことを拒む時刻。灰青の光が住宅街の路地に沈み込んだ。
足音は四つだった。規則的な三つと、不規則な一つ。
ドレイクの足音だけがひときわ遅れていた。一晩中浴びた汚物と諦めが靴底にこびりついているせいだった。
セレナが鼻をつまんだ
「臭い。あっち行きなさいよ」
「……」
ベルナーが曲がった背を伸ばし振り返った。
「皆さんお疲れさまでした。もうすぐ着きますよ」
「その『皆さん』から一人は抜きな」
ドレイクがアッシュの後頭部を睨みつけ唸った。アッシュは応えもせずのろりと歩を運ぶだけだった。
路地を曲がると人の気配が途絶えた区画が現れた。街灯のマナ石は砕けており、かつて住まいだったはずの家々が闇の中で口を開けていた。
ベルナーが足を留めた。火災で骨組みだけとなった住宅の前だった。半ば崩れた塀の向こうから雑草が膝の高さまでせり上がっていた。ゆがんだ格子の隙間から夜明けの光が差し込み、細長い陰を落としている。
アッシュの足がぴたりと止まった。瞳がゆっくりと廃墟をたどった。柱の位置、玄関の向き。残像が重なり、消えた。
ベルナーの背中を見つめた。唇がわずかに動き、そのまま閉じた。
「ここに私たちのすべてを遺しました」
声が細く震えた。
「ただのゴミ捨て場じゃねえか」
ドレイクが眉間に皺を寄せた。ベルナーは断固として首を振った。
「いいえ。この場所こそが始まりであり、終わりなのです」
雑草をかき分け庭へ踏み入った。ドレイクとセレナが呆れたように目を見交わした。二人が振り向いたとき、アッシュは既に後を追っていた。
* * *
内部は外よりも惨たらしかった。天井はぽっかりと抜け落ち、空をそっくり切り取っていた。腐り崩れた床板は踏むたびにうめいた。
「お気をつけて。少々がたついておりますので」
ベルナーが穴を慣れた足取りで避けながら言った。壁紙がぼろぼろに垂れ下がる居間のただ中で足を止め、晴れやかに笑った。
「こちらが居間でした」
手を挙げて窓辺を指した。硝子は割れて久しく、窓枠は半ば剥がれ落ちていた。
「マルガレーテは日当たりのいいこの場所がお気に入りでしてね。ここでお茶を飲みながら私の研究の話を聞いてくれたものです。退屈な話ばかりだったでしょうに、一度も席を立つことはありませんでした」
窓枠の向こうから光が流れ込み、老人の痩せた手の甲を照らしていた。しばらく光に手を浸したまま佇んでいる。ティーカップを待つかのように。
「それからあちらがシュルツの部屋です。あの子は怖がりでしてね、雷でも鳴ろうものなら私のベッドの下にもぞもぞ潜り込んできたものですよ」
足取りは家の最も奥へ向かった。
ドレイクがセレナのほうへ身を傾けた。声は低く押し殺されていた。
「なあ、ちょっとおかしくねえか」
「知らない」
苛立った目元に戸惑いがにじんだ。
「おい、アッシュ」
ドレイクが呼んだが、アッシュはベルナーを追って奥へ歩み入っていた。
火に焼かれ半ばねじれた扉が一枚、壁に張りついていた。蝶番に蜘蛛の巣が幾重にも絡みついた古びた戸棚だった。
「ここです。ゼペットが残した最後の手がかり」
確信に満ちた眼で戸棚の扉を指した。ドレイクがぎょっとして二歩退いた。
「絶対御免だぜ、今度は」
「アタシも」
セレナもまた顔を背けた。二人の視線がアッシュに集まった。アッシュは黙って前へ進んだ。きしむ床板を踏み、戸棚の前に立った。
長い歳月閉ざされていた扉が低くこすれる音を立てて開いた。埃が舞い上がり光の筋の中に散った。
湿気を吸って膨れ上がったアルバム。片脚の折れたブリキの兵隊。そして壁から剥がした痕のある、目盛りがびっしりと刻まれた細長い板。歳月と火をくぐり抜けたがらくたがすべてだった。
一つずつ取り出した。板にはインクで綴られたふぞろいな文字が並んでいた。
シュルツ 五歳。シュルツ 六歳。シュルツ 七歳……
年齢が上がるにつれ刃の跡は深くなっていた。子が成長する速度の分だけ、目盛りを刻む父の手の力も強まっていたのだろう。
アルバムに挟まれた写真もあった。黒縁の眼鏡をかけた若いベルナーと、傍らで満面の笑みを浮かべる女。栞代わりに押し花が挟まれていた。透けるほど薄くなっていたが、かたちだけは損なわれずに残っている。
消え去りしものの輪郭。
アッシュは板、兵隊、アルバムをまとめベルナーに手渡した。
「ああ……残っていたんですね。よかった、本当によかった」
胸に抱き取った。震える手でゼンマイを巻いた。床に下ろすと、兵隊はけたたましい音を立ててその場を回りはじめた。
「シュルツが五つの頃から遊んでいたやつですよ。買ってくれとわんわん泣いて大騒ぎしましてね、マルガレーテが誕生日に買い与えたんです。一週間も経たずに片脚が壊れたのに、絶対に手放そうとしなかった」
板を持ち上げ、皺だらけの頬に当てた。そうして声を出して笑った。
「日に日にぐんぐん伸びましてね。研究よりもこの目盛りが上がっていくのを見るほうが、ずっと嬉しかったものです」
視線が再び床へ落ちた。回り、傾き、また回るブリキの兵隊。
ゼンマイが尽きるまで見つめてから何かに沈むように独り言をつぶやいた。
「ゼペットも……こんな気持ちだったのでしょうか」
「心を注いでいるうちに……本物か偽物かなど、問わなくなるのですよ」
ドレイクが口を半開きにしたまま呆然と立っていた。セレナは狐につままれたような顔で頭をぽりぽりとかいていた。
「一体……どうなってんだよ」
庭の向こうで名もない鳥が一羽、廃墟の屋根を蹴って飛び去った。
そのとき荒い足音が静寂を押しのけた。雑草を乱暴にかき分けて入ってきたのは一人の中年の紳士だった。
「父さん!」
アッシュより頭ひとつ低かったが額の皺はその三倍は深かった。もみあげには霜が降りていた。息を切らしながらベルナーを見つけた男は安堵の溜息を吐いた。
「やっぱりここにいたんですね!」
ベルナーが不思議そうに首をかしげた。
「おまえがここに何の用だ?」
「はあ、随分探しましたよ」
「余計なことを。何度も言っただろう。ゼペットの足跡をたどりに行くと」
「やれやれ、父さんも……」
諦め混じりの笑みを浮かべ視線を巡らせた。ドレイクを過ぎ、セレナを過ぎ、一点で止まった。
アッシュは見つめ返した。記憶の中の顔が重なった。ベルナーのズボンの裾にしがみつき鼻をすすっていた子ども。
腰より低い位置からいつも見上げていたあの丸い瞳の色だけは変わっていなかった。
「……シュルツ」
灰のような声が漏れた。シュルツは力の抜けた笑みをこぼした。
「まさかとは思いましたが、本当にアッシュさんだったんですね。子どもの頃にお会いした姿と少しもお変わりない」
あの小さな少年が今やくたびれた中年になっていた。父は老い、息子も老いた。
「マルガレーテは? 元気か」
シュルツの口元に浮かんでいた笑みがわずかに揺れた。
「母は五年前に……亡くなりました」
アッシュの視線が床に向いた。壁紙の切れ端が床板の上に残されている。かつては花柄だったはずの、今はもう見分けすらつかない一枚。
「どうかお気になさらず。母は最期に目を閉じるそのときまで……幸せでしたから」
ドレイクとセレナに向かい丁寧に頭を下げた。
「いずれにせよ大変ご迷惑をおかけしました」
ドレイクが咳払いをした。何か言うべきだという顔だったが、適切な言葉が出てこなかった。代わりにセレナが前に出た。
「ちょっと、一体どういう状況なんですか。説明してもらえます?」
シュルツはしばし父を見やった。ベルナーは会話に興味がないかのように、がらくたに没頭していた。
「ゼペットの古城を探さなければと言って家を出たんです。以前にも何度かこういうことはありましたが、まさかここまで遠くに来るとは思いませんでした」
「じゃあどうやってここだって分かったんです?」
「最近研究の合間にしきりにこの家の話をしていたんです。もしやと思ったら、案の定」
セレナが苛立たしげにくしゃくしゃの依頼書を取り出して振った。
「今までアタシたちが追い回してた暗号は? 『陽が眠る場所』だの『星が踊る狭間』だの」
「父が作り出したものです。父自身の記憶とゼペットの研究が頭の中で絡み合ってしまったのでしょう」
セレナが額を押さえた。
「はあ……じゃ全部勘違いだったってわけ?」
煤まみれの紙に記された文句を見たシュルツが小さく苦笑を漏らした。しばし何かを迷うように唇を動かしてから、口を開いた。
「いいえ。その句そのものは本物です」
三人の視線が同時にシュルツに突き刺さった。
「ただ場所が違っていただけです。父の記憶とゼペットの手がかりが混ざり合ってしまったのでしょう」
ひと呼吸置いて続けた。
「父がまだ正気だった頃、教団に悪用されることを恐れて資料をすべて焼き捨てました。ですが古城の座標だけは密かに私に教えてくれたのです」
セレナの紅い瞳に再び生気が灯った。
「それなら……その座標教えてもらえます?」
シュルツは懐から手帳を取り出し、万年筆で何かを記した。一枚破りセレナへ差し出した。
「もちろんです。この座標にあなた方が探しているゼペットの古城があります」
座標を確かめた二人は息をのんだ。セレナがちらりと床のベルナーへ目をやった。顔に申し訳なさそうな色がよぎった。
「でも……これアタシたちに渡しちゃっていいわけ? ベルナーさんの意思は無視してさ」
シュルツはアッシュを見た。短い沈黙が流れた。
「構いません。正直に申し上げましょう。私には荷が重いのです。父があのようになってから教団の監視は緩みましたが、座標を持っているだけでも気が休まらなかったのです」
一拍、言葉を切った。
「ですがアッシュさんなら担えるでしょう。父もまた、あなたであれば快く許したはずです。私も同じ考えです」
シュルツはいつの間にか老いてしまった父の横顔をじっと見つめていた。
「老いていくのは、私たちのようなただの人間が当然背負うべき摂理ですから。それなのに時を繋ぎ止めるだけでは飽き足らず永遠まで手にしようとするとは……イゾルデは欲が過ぎます」
* * *
陽が完全に昇った。崩れた壁の隙間から朝の光が注ぎ込んだ。灰青だった世界がたちまち黄褐色に染まった。
焼け焦げた痕、晒された垂木、途切れた階段。夜明けが隠していた素顔がひとつずつ姿を現した。
一筋の陽光がベルナーの白髪の上に降りた。
写真を一枚手に取っていた。黒縁の眼鏡をかけた若い自分と、笑っている女。そしてズボンの裾にしがみついたまま鼻をすすっている小さな子ども。
記憶の中のパンの匂いが鼻先をかすめた気がした。手を伸ばせば届きそうなあの頃の温もりは、もう栞の中で脆く崩れ、痕だけが残った。
すべてを知り得ぬまま、時はそうして人を彫り、行ってしまった。
ベルナーは目盛りを指先でなぞりながら何かを数えていた。シュルツが隣でようやく聞き取れるほどの低い声で応じた。
床の上では依然として、脚の折れたブリキの兵隊がきしんでいる。
キリ。キリ。
同じ場所を回り続ける兵隊の足音が時の鼓動のように響いた。
三つの影がエーテルヴァインの朝の中に長く伸びていた。




