第25話:前向きに考えれば
ロシナンテ号は北を目指して飛んだ。
アッシュは窓辺に頬杖をつき、眼下を眺めていた。雲の切れ間に北部高原の痩せた稜線が浮かんだ。荒涼とした大地を列車が白い蒸気を途切れがちに吐きながら、死にゆく獣のように這っていく。
ガラスに映る顔の上に古い残像が重なった。
吹雪の哨所。凍りついた柄。あの頃の仲間は今どこにいるのか。生きているのか。それとも。
「……昔は要塞だったな」
「あ?」
ドレイクがけげんな顔で振り返ったがアッシュは既に別の場所を見ていた。
* * *
エーテルヴァインの秋は朽ちつつあった。風が吹くたび落ち葉が石畳の上を転がり乾いた音を立てた。
足元にまとわりついた落ち葉をセレナがヒールで踏みにじって通り過ぎた。
「なんっつー陰気な街」
ベルナーが周囲を見回し、深く息を吸い込んだ。
「アッシュさん、ここを覚えていますか」
アッシュはうなずいた。一行は街を横切り外縁へ向かった。
通りに人の姿はまばらだった。シャッターの降りた店やガラスの割れた店の間で、主を失ったマネキンだけがぽつんと立っていた。たまに見かける人影は目が合う前に路地へ消えた。
ベルナーが足を止め、紙を一枚取り出した。
「陽が眠る場所……ゼペットが示した場所はまさにこの近くです」
ドレイクが眉間に皺を寄せた。
「陽が沈むなんざどこでも同じだろ。わざわざここじゃなきゃならねえ理由でもあんのか?」
「ありますとも。夕陽がこの地ほど美しく眠る場所は他にありませんから」
声に揺らぎはなかった。ドレイクがちらりと目を向けると、セレナが肩をすくめた。
* * *
丘を越えると廃工場地帯が姿を現した。錆びた配管と崩れた煙突。陽はその向こうに沈みかけていた。
「ここだと?」
いぶかしむドレイクをよそにベルナーは震える指で一点を示した。
「あそこです……! あの建物ですよ!」
アッシュの視線がそれを追った。建物がひとつ危うげに立っていた。外壁は剥がれ、落ちた看板の代わりに残ったのは痩せ細った鉄骨だけだった。ショーウインドウの向こうに壊れたカウンターがのぞいた。
セレナが眉をひそめた。
「……ただの潰れたパン屋みたいだけど」
「そのとおりです。昔はこの辺りで一番おいしいパンを焼いていた店でしてね」
パンの匂いでも嗅ぐかのようにそっと目を閉じた。
「マルガレーテは焼きたてのパンの匂いには目がなくてね。毎朝私を引っ張り出したものです」
そう言って建物の裏手を指した。
「ご心配なく。本物はあの奥ですから。ほら、あの溶鉱炉が見えますか」
建物の背後に溶鉱炉がそびえていた。黒々と焦げた円筒形の構造物。
「あの溶鉱炉が燃え盛っていた姿はまるで太陽のようでしたよ。陽が眠る場所……まさにあそこです!」
ベルナーの案内に従いたどり着いた先には、人の背丈の倍はある円形のハッチがあった。ハンドルも表面も錆に覆い尽くされていた。
「あの扉を開ければ……きっとゼペットの残した手がかりが見つかるはずです」
ドレイクがハッチの前に立った。
「こいつ回しゃいいんだな?」
ベルナーがうなずいた。手袋をはめ直したドレイクがハッチのハンドルをつかんだ。
「ぐ……っ」
びくともしなかった。
「なんだこりゃ」
「何やってんの」
「うるせえ、ちょっと待て。ガタつくってことは何かに引っかかってんだよ」
ドレイクが顔を真っ赤にしてしがみついたが、ハンドルはあざ笑うように元の位置へ戻った。腕を組んで見ていたセレナが舌打ちした。
「どきなさいよ。イライラする」
「待てっつってんだろ!」
「いつまで待つのよ!」
セレナがドレイクを押しのけハンドルをひったくった。指先から魔力の火花が散った。
金属が悲鳴を上げた。数十年閉ざされていたハッチがきしみながら回りはじめた。内側から空気の吸い込まれる音にアッシュが一歩下がった。
刹那。圧縮されていた空気が爆発する。古い煤。鼠の糞。腐った落ち葉。
コートの襟に降り積もり、開いた口の中にまで吹き込んだ。
完璧な黒い彫像。
目だけをしばたたいた。真っ黒な灰が雪片のように舞い落ちる。
ドレイクの肩が震えた。固く結んだ唇の隙間からこらえきれずに押し殺した笑いが漏れた。
ベルナーの背後で、夕焼けが溶鉱炉を伝って広がり、眠りかけていた。
* * *
煤は執拗だった。セレナが頬を擦ったが消えるどころか広くにじんだ。つたない筆致が台無しにした絵のようだった。
歩くたびに粉が散り、通ってきた道にくっきりと跡を残した。
ドレイクがくっくっと笑った。
「黙れ」
「何が?」
睨みつけたが、ドレイクは笑いを噛み殺して視線をそらした。セレナは苛立たしげに歩を速め、距離を開けた。
いつしか陽は完全に姿を消していた。夜の降りた街の傷痕は闇に埋もれた。その上を天の川が流れていた。北部の夜空は凍てつくほどに透き通り、星がこぼれ落ちそうだった。
ベルナーが足を止めた。
「ここです。星が踊る狭間」
感慨に濡れた目で宙を仰いだ。
「夜になると噴水に灯りがともり、水柱が噴き上がりました。飛沫が散るとき、星明かりがその間に降りてくるように見えましてね。私とマルガレーテは……毎晩その光景を眺めたものです」
一行の視線がベルナーの指す先へ向かった。水はとうに干上がり、床のタイルはあちこち剥がれていた。噴水の中央に立つ彫像は首が折れ、空へ両腕を広げたままだった。
その周囲に黄色い規制テープが幾重にも巻きついていた。
——注意:下水道整備区域。関係者以外立入禁止。
「ご覧ください。結界まで張ってありますよ。近づく者、災いを受けん——という警告です」
ドレイクが呆れたようにテープを指ではじいた。
「ただの……工事用テープだろこれ」
「いいえ。偽装ですよ」
「さっきの溶鉱炉も本物だって言ってたじゃないですか!」
セレナが突っかかった。顔の煤のせいで怒れば怒るほど道化師のようだった。
ベルナーは毅然と首を横に振った。
「今度は違います。ドレイクさん、よくご覧ください。あの配管の構造、おかしいと思いませんか」
ドレイクはぶつくさ言いながらしゃがみ込んだ。割れた石材の隙間に太い金属パイプが複雑に絡み合っていた。継ぎ目ごとにルーン文字の刻まれたバルブを備えた、通常の水道管とは異なる奇妙な形状だった。
「……配管のツラが妙にごちゃついてんな」
「そうでしょう? この配管をたどれば、きっと手がかりが見つかるはずです」
一行はテープを越え掘り返された区域に足を踏み入れた。奥には大人の太腿ほどもあるパイプが垂直に突き立っていた。表面は腐食し、胴体全体を密封する止めバルブが中央を塞いでいた。
「あの中です」
確信に満ちた声で言った。
「こいつも……がっちり閉まってんな」
ドレイクはしばし構造物を見つめ、嫌な予感でもしたのか後ずさった。
「おい、お前が開けろ」
「ヤダ」
「譲ってやるって」
「冗談じゃない」
腕を組んだまま微動だにしなかった。ドレイクが歯噛みしてから顔を向けた。
「じゃあアッシュ、今度はお前が……」
アッシュはポケットに手を突っ込んだまま一番遠くで星座を数えていた。ドレイクがカッとなって口を開きかけた瞬間、ベルナーが両手を合わせて切々と言った。
「ドレイクさん、お願いいたします」
「わかった、わかったよ!」
セレナとアッシュを一度ずつ睨みつけてから、バルブの前に陣取った。
「まさか二度はねえだろ」
止めバルブをつかんだ。力を込めると金属が悲鳴を上げた。渋っていたバルブがごくゆっくりと回りはじめた。内部から何かが無理やり解かれる摩擦音とともにパイプを這い上がる振動が足裏に伝わる。
「開きますよ!」
ベルナーが歓声を上げた。
刹那、空気の匂いが変わった。アッシュが一歩下がった。
「あ?」
ドレイクが鼻をひくつかせ首をかしげた。
「ぶふっ!」
バルブの継ぎ目が爆竹のように吹き飛ぶ。避ける暇もなかった。黒く粘つく液体が正面から直撃した。
排泄物。饐えた油。どろどろになった何か。
数十年地下に溜まっていたエーテルヴァインの汚水だった。
水流が収まると、ずぶ濡れのドレイクだけが呆然と立ち尽くしていた。髪の先から正体不明の澱がぽとり、と肩に落ちた。口元には粘り気のある汚物が黒い筋を引いている。
「…………」
セレナは口を押さえた。真っ黒に煤けた顔の上で目尻が三日月のように弧を描いた。
「これは……」
ベルナーは眼鏡をかけ直した。レンズの奥に困惑がよぎったが、それだけだった。泰然と手帳を取り出し、何かを書き留めた。
「今回も違いましたね。ですが前向きに考えれば、残るはあと一箇所ということですよ」




