第24話:永遠の設計図
グレイフィールドの朝は濡れた煤のように降りてきた。爛れた空から雨筋が注いだ。
油垢の絡みついた液体が外壁を伝って流れ落ち、水を吸ったフードが頬に張りついた。刻まれたルーン文字が血のようににじみ都市に彩りを添えていた。右手の配管からシュウッと、青い吐息が噴き出した。
アッシュはポケットに手を突っ込み、人波に逆らって歩いた。行き交う者は互いの肩をぶつけ詫びもなくすれ違っていった。
目を閉じた。視覚が断たれると脈拍が鼓膜を叩いた。
痰の絡んだ罵声。汚物を飲み込む下水の渦。換気扇の鉄をひっかく回転音。
配管の振動は血管の痙攣であり、不規則に明滅するルーン文字は不整脈だった。
聖皇庁の秩序は光と祈りで築き上げた塔。
ここは錆と黴、混沌が支配する沼。
騎士は地図を見て道を探すが、始末屋は騒音に乗って歩く。
水溜まりを避けて足を運んだ。飛沫ひとつ上げず、影のように軽く。
裏路地、ルカの食堂の扉を押すと染みついた油の臭いとコーヒーの香りがどっと押し寄せた。
錆びたベルが鳴っても、ルカは新聞から目を離さなかった。カウンター席に座った老いた常連がひとり虚空を見つめているだけだった。
きしむ椅子に身を沈めた。しばらくして、ぬるいコーヒーと硬いベーグルがひとつテーブルの上に投げ出された。
「アッシュ、久しぶりだな」
「……」
「雨のやつ、昨日も降ってたってのによく飽きないもんだ」
ルカは持ち場に戻りながらぼやいた。
ベーグルを機械的に噛み砕いた。コーヒーは泥水の味がした。
窓の外を眺めた。向かいの路地で清掃用オートマタが壁に頭を打ちつけていた。
ゴン。ゴン。ゴン。
回路が壊れたらしい。もう進む先がないことを認識できないまま、無意味な前進を繰り返していた。誰も気に留めなかった。
最後のコーヒーを口に流し込みながら、規則的な破裂音に合わせて指でテーブルを叩いた。
別れの挨拶のように。
* * *
ロシナンテ号のハッチを開けた途端、怒号がはぜた。
「勝手なことしやがってこのイカれた女!」
船室は修羅場だった。テーブルの上には地図が散乱し、ドレイクは肩を怒らせて指を突きつけていた。
「てめえに何の権限があって依頼なんか受けてんだ!」
セレナはこの上なくくつろいだ格好で、ソファに斜めに寝そべり書類をめくっていた。
「あ、来た?」
おざなりに手を振った。アッシュは濡れたコートを脱いで椅子の背に掛けた。
「どうした」
ドレイクがバッと振り向いた。救世主にでも出会ったような顔だった。
「聞いてくれよ相棒、この女がゼペットだかネペットだか知らねえが、幽霊城を探すっつって勝手に契約しやがったんだ。相談もなしにだぞ!」
「アタシたち、組んだでしょ。当然じゃない」
「「組んだ、だと? ふざけんな! そんなに気になるならひとりで行きやがれ。なんだって人の船に転がり込んで、でかい面してやがんだ!」
意に介さずセレナが上体を起こした。紅い瞳が興味できらめく。
「アッシュ、アンタに依頼が来てるの。とんでもなくデカい案件」
「デカいもクソもねえよ。幽霊城なんかに時間潰されてたまるか! つーか……お前いつ出てくんだ?」
ドレイクの抗議を空気のように受け流し、依頼書を広げた。
「依頼の内容はシンプル。ゼペットの古城の場所を一緒に探してほしいんだってさ」
湿った髪をかき上げるアッシュの手が止まった。
「……ゼペット?」
「そう。ゼペット・アイオン。史上最高の魔法使い。ほら、この前アタシたちが散々な目に遭った、あの通路を造った張本人よ」
依頼書を見下ろした。セレナが指先でつつきながら続けた。
「ゼペットが天才だったのは魔法だけじゃない。魔工学、錬金術、古代文字の解読……あらゆる分野で突出してた。ところがあるとき、跡形もなくエレボスから消えたの。理由はいまだに謎のまま」
「とにかくその城には魔剣インフェルヌスが眠ってる。アタシにはどうしてもそれが要るの。宝や遺産はおまけ」
ドレイクが鼻で笑い、踵を返した。セレナは一拍置いて、その背に低く付け加えた。
「それにゼペットは魔弾の製造にも通じてたらしいから、もしかしたら知られていない設計図があるかも……」
ドレイクの足がぴたりと止まった。背を向けたままだったが耳だけはぴくりと動いていた。
「馬鹿言え。何百年も大勢が探して失敗してきたもんをどうやって見つけるってんだ。どう見ても詐欺師の臭いがプンプンするぜ」
「依頼主が誰か知ったら考え変わるんじゃない?」
もう一枚の紙を抜き出してテーブルに滑らせた。
「正真正銘ゼペット研究の生ける最高権威。アッシュも知ってる人よ」
アッシュの視線がテーブルに落ちた。紙の端に、見覚えのある筆跡で署名された名前が記されている。
ベルナー・フォン・クライスト。
瞳が揺れた。記憶の彼方から黒縁の眼鏡を直す学者の顔が浮かび上がった。
* * *
待ち合わせ場所へ向かうべくロシナンテ号を出た三人は、旧市街を横切った。道がひび割れ、舗装が剥がれた地点を越えると、空気までもが湿り気を帯びて沈んだ。
「このクソ雨、いつまで降んのよ」
セレナが濡れた髪を苛立たしげに払った。
「ぐちぐち言うならさっさと帰れよ。誰も止めねえから」
アッシュは口を挟まず狭い路地へ滑り込んでいった。
建物は死んだ時代の遺産だった。無骨な石柱、剥き出しになった初期工学の魔力管。回路は大半が断たれ、黒く焦げた傷痕が壁面にこびりついていた。
ふと足を止めた。視線の先に古びた看板が掛かっていた。
サロン・アルマン。
塗りの剥げた文字がかつての栄華を物語っていた。
扉を押し開けて踏み入ったとき、一行を迎えたのは店主ではなく静寂だった。カウンターは無人でホール中央の柱時計は止まっていた。隅のピアノの上には楽譜が広げられていたが、端は黄ばんで朽ちかけていた。
「やってんの、ここ?」
セレナがピアノの鍵盤をそっと押した。澄んだ音色が空気を裂いて響いた。
「手入れはされてるみたいだな」
ドレイクが周囲を見回しながらつぶやいた。
アッシュは奥へ歩いていった。そこに誰かがいた。ソファに埋もれ、深く頭を垂れている老人。
テーブルの上には冷めきったティーカップがふたつと、半ば溶け崩れた角砂糖の器が置かれていた。近づいてテーブルを軽く二度叩いた。
反応はなかった。ドレイクが緊張した面持ちで肩に手を置こうとした刹那、老人の瞼が重たげに持ち上がった。
白髪の老爺、ベルナーが目を開けた。焦点が戻るまでに数秒を要した。
「おお……アッシュさん!」
声は歓びに震えていた。立ち上がろうとしたが、膝が折れそうになった。テーブルにすがってかろうじて体を支えた。
ベルナー・フォン・クライスト。
黒縁の眼鏡の向こうから世界をのぞいていた好奇心に満ちた目。実験に没頭しては頭をかきながら笑っていた姿。記憶の中の顔に歳月が上塗りした皺が重なった。
白髪。落ちくぼんだ眼窩。骨と皮ばかりの手の甲に浮き出た血管。時間が蝕まれている。
横目でテーブルをうかがった。ティーカップの紅茶は干上がって輪じみを残していた。少なくとも二時間は経った痕跡だった。
「長く待ったか」
「いえいえ、さっき来たばかりでして……つい、うとうとしてしまいましてね」
咳払いをして眼鏡を直した。声は老いていたが、口調には張りがあった。
「……とにかく、久しぶり」
言葉を吐き出すまで喉の奥が締めつけられた。
ベルナーはアッシュを抱き寄せた。痩せた腕が背を叩いた。
「やはり少しもお変わりないですね。教団をお辞めになったとお聞きしました。ご連絡差し上げようと思っていたのですが、なにぶん研究が忙しくて……ですがようやく実を結んだのですよ」
老人はゆっくりと身を引いた。そこでようやく、後ろに立つ一行に気づき目を丸くした。
「俺はドレイク。こいつの相棒だ。よろしくな。で、この女はなんでもねえから気にしなくていい」
セレナが目を細めてドレイクをにらんだ。
「はじめまして。セレナ・マーロウです。アッシュの信頼厚いパートナーを務めております。口先ばかりのどなたかとは違って」
「んだと?」
「ああ、そうですか。はじめまして。さ、どうぞこちらに」
一行が席に着くと、ベルナーは鞄からくしゃくしゃの紙束を取り出した。紙は落書きで埋め尽くされ、端は触れれば崩れそうなほど脆かった。染みと幾何学的な図形が絡み合っていた。
「これをご覧ください」
丁寧に紙を広げた。
「ゼペットが残した手がかりです」
「……これが、ですか?」
セレナが眉を寄せた。ドレイクも鼻で笑った。
「ただの落書きにしか見えねえんだが?」
「これは暗号化された設計図ですよ。ゼペットは自分の痕跡をこうした象徴の中に隠す癖がありましてね」
「まあ、重要な情報を隠すのはよくある手口だし」
セレナが紙を引き寄せてのぞき込みながらつぶやいた。ベルナーは自信たっぷりにうなずき一箇所を指で示した。
「ゼペットはすべてを隠喩の中に隠しました」
もう一枚の紙を取り出した。幾度も折り畳まれた跡の残る表面には、インクで文章が綴られていた。
陽が眠る場所、
星が踊る狭間に、
我らのすべてを遺す。
「これは座標を暗示する表現です。私はこの手がかりをもとにここ数年、世界中の地図をくまなく洗い出したのですよ」
セレナが腕を組んで尋ねた。
「ところでベルナーさん、なんでわざわざアッシュに依頼したんです?」
ベルナーの表情がかげった。神経質に辺りをうかがい、声を落とした。
「アッシュさんはもうお察しかと思いますが……イゾルデのせいです」
その名が出た瞬間、空気が凍りついた。
窓の外に目を向けた。雨が硝子を打つ音だけが室内を満たした。
「教団が私の研究を奪おうとしているのです」
震える手でティーカップを持ち上げたが、口をつけずにそのまま戻した。
「イゾルデはすべてを止めようとしています。ですが摂理に逆らうことはできません」
さらに声を潜めた。
「ゼペットは生命を創造する技術を完成させたのです。マナと魂の欠片を結合し、永遠に動き続ける存在を生み出す技術。私は……あの女にだけは渡せません」
目に力がこもった。
「我々が先に見つけなければなりません」
アッシュはベルナーを見返した。長い沈黙の果てにうなずいた。
一行は席を立った。四人が雨の中に消えた。
誰もいなくなったホール。止まっていた時計の針がごとり、とひと目盛り進んだ。埃を被った振り子が微かに震え、時は再び秒を刻みはじめる。




