第23話:残影へのワルツ
唇に触れた硝子瓶は冷たかった。
隣ではドレイクの声がくぐもり、正面では噴水の水音が単調に続いていた。ふたつの雑音は互いににじみ合いながら夜の大気へと散っていった。
広場は空だった。古い街灯が注ぐ蒼い光だけが霧のように降り積もり、都市を深い水槽に沈めている。
「せこいクソジジイ。最初は五千ゴールドで済まそうとしやがった」
武勇伝に酔って一段と声を張った。革袋が揺れるたび、金属の擦れ合う音がした。
「ありえねえだろ。最初っから一万ゴールドの約束だぜ? まぁ、倍額ふんだくってやったし……やっぱ頭だよ頭」
アッシュはドレイクと並んで座っていたが目は噴水に釘付けだった。酒瓶を口元へ運んだが、飲みはしなかった。唇に当てたまま、現実に繋ぎ止められる感覚だけを頼りにしていた。
ドレイクが振っていた袋から金貨が一枚ポロッとこぼれた。高く澄んだ音を立てて転がり、噴水の中へ落ちた。
「くそっ! 俺の金!」
視線を落とした。底には無数の願いが込められた硬貨の上に金貨が沈んでいた。
水圧に打ち上げられた雫がひとつ頂点で静止した。光をはらんだまま、硝子玉のように宙に浮いている。重力にあらがえず落下し、千の光の欠片となって砕けた。
その破片の中から幻影が立ち昇った。アッシュを振り返り微笑むルクレツィア。
手を差し出した。
「ヴァレンタイン卿、硬貨をくださいな。どうせなら金貨で。大きなお金を投げたほうが女神さまも願いを叶えてくださると思いませんか?」
答えられなかった。ただ戸惑うだけだった。
ルクレツィアの瞳に悪戯心がよぎった。一歩近づいたかと思うと懐に潜り込んできた。ほどなく、得意げな顔で金貨を一枚取り出してみせた。
噴水に歩み寄り、陽射しをひと掬いするように金貨に光をまとわせた。そして両手で包み込み、目を閉じた。誰にも届かなかった囁き。
やがてウィンクをひとつ送った。手を離れた金貨が放物線を描き噴水の中へ飛んでいった。水面の下に消えた。振り返った顔に、秘密を抱えた子供のような微笑みを浮かべていた。
「さあ、当ててみてください。何を願ったでしょう? ああ、気になっても教えて差し上げられません。秘密ですから。ただ……本当に叶ったら、そのとき。卿に一番にお伝えしますね。約束します」
その約束と、笑い声。
気がつけば口元に笑みが浮かんでいた。
「へえ、そんなに嬉しいかよ」
現実の声が記憶の帳を引き裂いた。金貨を拾い上げたドレイクはにやりと笑った。
「まぁ、ここんとこ俺たちも懐が寂しかったしな」
掌の上で見せびらかすように金貨をはじいた。澄んだ硬い音が鼓膜を打った。
「こいつが本当に願いを叶える音だ。腹を満たしてくれっていう願いのな」
どれほどそうしていただろう。いつの間にかドレイクが口を閉ざした。理解しがたいものを見る目でアッシュを眺めていた。
瞳には砕けて流れ落ちる噴水の水筋が映っていた。
その水滴の中に、残像だけが揺らめいている。
* * *
板張りがドレイクの重みに耐えかね、きしんだ。
「くそったれ、体中ガタガタだ」
夜更けの停泊場は月光に沈み、すべての境界を消していた。ロシナンテ号は埠頭の最も奥でうずくまっていた。
アッシュが止まった。先を行くドレイクも足を止めた。義眼が闇をなめたが、怪しいものは見当たらなかった。
「どうした?」
アッシュが船を見上げた。視線を追ったドレイクの目に換気用ハッチが映った。普段なら閉じているはずのそれが開いていた。魔力回路の共振音に不規則な物音が混じっていた。顔から安堵が引いた。
「……ネズミか」
ふたりの目が合った。アッシュは柄に手を置き、ドレイクはリボルバーを引き抜いた。音を殺し、侵入者の領域と化した船へ向かった。
灯りの落ちた船室は見知らぬ場所だった。家具は馴染みの位置にあったが威圧的なシルエットに変わっていた。外のかすかな光が操縦席の計器盤に映っては幽霊のように消えた。そして異質な香り。
アッシュは物陰に身を寄せたまま船室のあらゆる気配を吸い込んだ。ドレイクは我慢できず大股で踏み込んだ。
摩擦音がした。足元へ小さな物体が転がってくる。見下ろした瞬間、影が這い出し、脚を絡め取った。間の抜けた呻きとともに巨体がひっくり返った。
「ぐはっ……!」
「何やってんのよ、陰気くさい。来たなら来たって言えばいいじゃない」
剣を抜きかけた手が止まった。気配に殺意はなかった。鞘に戻し、ランプのスイッチを上げた。カチリ、という音とともに黄色い灯りが船室を満たした。
床ではドレイクが大の字に伸び、テーブルにはひとりの女が腰かけていた。炎のような髪、紅い瞳。
セレナだった。
テーブルに足を投げ出し、アッシュの欠けたマグカップで何かを飲んでいた。
アッシュに向かってカップを軽く掲げてみせた。
「言ったでしょ。また会おうって」
平然とカップを空け、ぷはっと息をついた。
「てめえがなんでここに!」
床から身を起こしながら吠えた。顔は屈辱と怒りで真っ赤に染まっていた。
「今度はとうとう泥棒に転職したってか!」
セレナはテーブルから飛び降り、アッシュの前に歩み寄った。そして船内をぐるりと見回した。
「稼いだ金どこに使ってんの? まぁ、アタシには関係ないけどさ……」
アッシュの視線が匕首のように突き刺さった。セレナが口角を上げた。
「アッシュ。アタシたち、組もう」
「何ぬかしてやがる!」
ドレイクが怒鳴り散らしたが、紅い瞳はアッシュだけを見据えていた。
「アタシと組めば桁違いの金が動くわよ。最強の騎士と最高の魔法使い。これ以上の組み合わせある?」
「最高だと? 笑わせんな! 誰がてめえなんかと組むかよ! さっさと俺の船から失せな!!」
また無視された。
アッシュはゆっくりとテーブルへ歩み寄り、自分のマグカップを見下ろした。凍りついた空気の中で、セレナの笑みにひびが入る。
「見たでしょアンタも。アタシが使えるって。絶対役に立つから」
アッシュは黙っていた。船室の空気が重く淀んだ。
セレナが長く息を吐いた。瞳に刹那の揺らぎがよぎり、手にしたカップをテーブルに置いた。小さな音が静寂の隙間に染みた。
「正直に言うわ。アタシには、あなたが要るの」
ドレイクの荒い息が止まった。船室には魔力回路の低いうなりだけが響いている。アッシュがゆるりと目を上げ、セレナの顔を捉えた。
焦りを隠した仮面。その上をさまよった。髪筋ほどの亀裂からのぞく疲労の痕をたどり、眼窩の奥の素顔と向き合った。
あの目。奪われた何かを取り戻すために魂すら投げ出す者の目。
詮ないが、壊すには忍びない。
いつもこういう目だけは見ぬふりができなかった。
薬草の葉を一枚取り出し、口に放り込んだ。カリッとかむと、苦い香りが舌先をしびれさせた。アッシュは肩をすくめ身を翻して自室へ消えた。呆けたような静寂が降りた。
やがてセレナの明るい笑い声が弾けた。
「ほらね! 話が分かると思った」
荷物袋をテーブルに放り上げ、荷解きを始めた。
「な、何やってんだ!」
「話ついたじゃない」
「ついてねえよ! 俺は賛成した覚えはねえぞ。さっさと出てけ!」
セレナは答える代わりに冷却庫へ歩み寄り、扉を開けた。一番上の棚から正体不明の肉片を取り出し、匂いを嗅いだ。
「なにこれ、腐ってんじゃないの?」
うんざりした顔で肉の塊を乱暴に押し戻すと、白くてどろりとした何かが入った小瓶を代わりに突っ込んだ。
「あ、それとこれ毎朝飲むやつだから触んないで」
完全に自分の家のように船室を見渡した。棚の上を指でさっと撫で、付いた埃をドレイクに突きつけて言った。
「アンタ、掃除くらいして暮らしなさいよ。豚小屋じゃないんだから」
こめかみに青筋が浮き上がった。ついに、押さえ込んでいた怒りが爆発した。
「今すぐ出てけっつってんだろ!!」
調理場のほうからはのんきに湯の沸く音が聞こえ始めていた。ロシナンテ号が朝を迎えようとしていた。




