第22話:黒き王と白き騎士
廊下の絨毯が音をのみ込み、水面を歩くような錯覚がつきまとった。
片側の壁に沿って並ぶ細い窓の向こうから月明かりがにじんでいた。石壁に触れて染みを残し、遠近感がゆがんでいた。数歩先の仲間が遠く見えるかと思えば、廊下の突き当たりの扉は手が届きそうなほど近かった。距離が嘘をつく空間だった。
扉の前に立ったときドレイクが言った。
「俺はパスだ。ひとりで十分だろ。爺さんと商談があんでな」
返事を待たずドノヴァンの肩に腕を回した。小柄な老貴族が巨大な機械につかまれた人形に見えた。
「俺たちゃ別口で話そうぜ」
ドノヴァンは困惑した笑みをこぼすばかりで逃れようとはしなかった。ドレイクは老貴族を引きずるようにして廊下の先へ消えていった。こうしてアッシュだけが残された。
侍従が近づき、取っ手をつかんで扉を押し開けた。
背後の景色がかき消えた。世界はひとつの部屋に縮む。
* * *
応接間だけが季節をたがえていた。暖炉では薪がピリッとした香りをくゆらせてはぜており、熱気がワインの香りと絡み合い、空気を濃く満たした。炎のすぐ手前、指しかけのチェス盤が置かれていた。
壁面の高い位置から先王ロベールの肖像画が見下ろしている。繁栄を導きながらやがてすべてを失った王。
アッシュが足を踏み入れたとき、部屋の主は窓辺に立ち、背を向けていた。
気配を感じたか、ゆっくりと振り返った。黒い髪、白く滑らかな肌。善良そうな面差しは噂よりも母親に似ていた。
王太子、テオドールだった。
丁重に手を差し出した。旧友を迎える喜びがにじんでいた。
「お待ちしておりました、ヴァレンタイン卿」
傷ひとつない、柔らかそうな手。だがアッシュは立ったまま見下ろすだけだった。
テオドールは微笑みを崩さず手を引っ込めた。
「立ち話もなんですから。どうぞお好きな席へ」
アッシュを暖炉の前のソファへ案内し、自分は向かいに腰を下ろした。ふたりの間で炎が揺らめいていた。
「ようやくお目にかかれました。いまだに実感が湧きません。僕にとってあなたは、伝説そのものだったんです」
声は舞台に上がった役者のような熱を帯びていた。
「幼い頃、乳母が聞かせてくれるあなたの物語が大好きでした。母上を救い出したあの夜のことも。いつか僕もあんな騎士になると言っては木の棒を手に駆け回り、よく叱られたものです。それがこうしてふたりきりで向かい合っているなんて」
目を輝かせたかと思うと舌を出して付け足した。
「母上がお知りになれば、さぞ拗ねられるでしょうね。あなたをこっそりお連れして独り占めしてしまったのですから」
「遅ればせながら母上を助けてくださったことに深く感謝いたします」
真摯な声だった。アッシュは答えなかった。テオドールが軽く咳払いをし、ワインを注ぎ始めた。赤い液体が杯を満たす。
「面白い偶然ですが、このワインは僕と同い年なんです。僕が生まれた年に造られたものでして」
アッシュをまっすぐに見据えた。眼差しが鋭く光っていた。
「その年には奇跡があったそうです。陽光と雨が一度も時をたがえなかったのだとか。だからでしょうか。このワインを口にすると……どこか僕と同じ匂いを感じるのです」
「用件を言え」
テオドールは意に介さずワイングラスをアッシュの前に置いた。
「ドノヴァン卿との連絡が途絶えたとき、心臓が止まるかと思いました。けれどあなたと共にいると聞いて安堵しました。人というのは現金なものでして。心配が消えた途端、好奇心が湧いてくるのです」
眼差しに熱が走った。
「教団最強の騎士、いえ……大陸最高の騎士をこの目で見てみたかった」
「はたして——本物でした」
アッシュは杯を押し返し鼻で笑った。
「公爵の兵はお前の民じゃなかったのか」
テオドールの微笑みに陰が差した。傍らのチェス盤へ目を落とし、散らばった駒の中から白のルークをひとつ指ではじいた。コツンと音を立てて床へ落ちた。
「さあ。あの者たちが一瞬でも僕を王太子と思ったことがあるでしょうか」
答えの代わりに再びアッシュを見た。炎が顔の半分を闇に沈めた。
「そんな目で見ないでください。憎むのに道理など要りません。……僕はただむなしく死にたくないだけです」
杯を取り、一口飲んだ。
「単刀直入に申し上げます。力をお貸しください。イゾルデから聖女殿下を解放したいのです。あなたもまた……あの方の自由をお望みではありませんか」
アッシュはテオドールから目を離した。片方の口角が吊り上がった。
テオドールは独白のように語り始めた。忘れられた騎士たちの夜から後の日々を。生き延びるために息を殺さねばならなかった夜々のことをつぶやいた。最後かもしれない一瞬一瞬への絶望が声の底に沈殿していた。
「僕の命は借り物でした。朝が来れば——返さなければならない」
言い終え、しばし目を閉じた。薪の崩れる音がした。
「ですが皮肉なことに、道のない場所にも道は生まれるものですね」
ワイングラスを持ち上げアッシュの目の前にかざした。赤い液体の向こうでアッシュの顔がゆがんだ。
「僕をもっとも執拗に脅かしていた公爵派の貴族が、狩場で落馬して死にました。僕の血統を問題にしていた枢機卿は異教の儀式を行った罪で火刑に。その余波で僕に敵対していた勢力が瓦解し始めたのです。ただの偶然に見えますか、ヴァレンタイン卿」
「偶然だろ」
テオドールはアッシュの言葉を味わいながらワイングラスを回した。いつしか微笑みは底知れぬものへと変わっていた。
「ええ、そうかもしれませんね」
顔を上げた。瞳の奥で炎が妖しく光っていた。
「ですが僕はこう信じることにしました。まだ僕の番が来ていないだけだと。『お前が歩むべき道はまだ、終わってはいない』のだと」
悪魔の囁きのようだった。
「だから僕は止まれません。道に迷った者だけが本当の道を見つけられる」
「あなたと僕のように」
目を見た瞬間アッシュの脳裏に記憶がよみがえった。
十年前のあの夜。親も子も——灯蛾のような瞳は嫌というほど似通っていた。
立ち上がった。
「お前が何企んでようが俺の知ったことじゃない」
踵を返し、扉へ向かった。
「お待ちを!」
背中に届いた声は切迫していた。足を止めたが振り返りはしなかった。
「危うく忘れるところでした」
何事もなかったかのように穏やかな声音に戻っていた。
「このままお発ちになっては僕が困ります。母上がぜひあなたにお会いしたいと仰せですから。王城はここからそう遠くありませんので、ご一緒に参りましょう。あなたをお帰ししたと知れたら大目玉をくらいます」
アッシュは取っ手をつかんだ。扉が開き、廊下の冷たい空気が流れ込んだ。姿が完全に消えてから、ようやく扉は閉じた。
応接間は再び静寂に沈んだ。テオドールはアッシュの去った扉をしばらく見つめ、チェス盤へ視線を移した。黒と白の駒が乱雑に散らばっていた。
白のナイトを手に取ると深くソファに身を沈めた。頭を後ろに預け、気だるい目で掌の駒を見上げた。暖炉の灯りが滑らかな曲面をねっとりと艶めかせている。
口元に淡い笑みが浮かんだ。宝物を見つけた蒐集家の法悦だった。
やがて身を起こした。そして黒のキングの傍らに白のナイトをまっすぐ立てる。
初めからそこが定位置であったかのように。




