第20話:冬の年代記
蒼い光球が幽鬼のように先を行った。天井から落ちる雫だけが拍子を刻む果てのない臓腑だった。時間の感覚はとうにすり減っていた。
ドレイクが足を止めた。
「……なんだこりゃ」
全員の視線が一点に縫い止められた。光球が近づくと闇が剥がれた。
崩れた壁の隙間に折れた旗竿が突き刺さっていた。布はあらかた朽ち、残った切れ端が苔と蜘蛛の巣の下で凝り固まっていた。
紋章だけは鮮明だった。樹の根が白薔薇を抱いたまま、咆哮する黄金の獅子をきつく絡め取っている。
ドレイクがドノヴァンを振り返った。
「爺さん、こりゃ王家の紋章じゃねえか。なんでこんな通路にあるんだ?」
重い溜息が聞こえた。自然とすべての目がドノヴァンへ向かった。
ドノヴァンはしばし瞼を閉じた。再び開いたとき表情は石像のようにこわばっていた。声は干からびていた。
「傷痕というものは……どうあっても残るものですな」
独り言めいた返答にドレイクが眉をひそめた。ドノヴァンはようやく低く付け加えた。
「……獅子騎士団のものです」
「獅子騎士団?」
視線が一斉にアッシュへ注がれた。アッシュは壁を見据えたまま、何の答えも返さなかった。
ドノヴァンは壁面を撫で下ろした。やがて口を開いた。最初の一言は説明ではなく問いだった。
「……王国の紋章に刻まれた樹の根がなぜ、白薔薇を抱いたまま獅子を包んでいるかご存知ですか」
誰も答えなかった。答えを求めた問いではなかったからだ。
「王家の力は聖女の神聖さに根を下ろして初めて完成する。それが建国の誓いでございます。騎士たちはその誓いを守る大地でございました」
「しかしあの日、根は……自らを否定し大地を掘り返したのです」
ドノヴァンが最初の一歩を踏み出した。過去の行列の、最後尾に。
無言の足音は途絶えた物語の次の一節だった。ドレイクとセレナが後に続き、アッシュの影が動いた。
再び足音が反響した。その上に石棺の蓋を押し開ける声が重なった。
「……十年前の冬からお話しせねばなりますまい」
「あれは王国の歴史に刻まれた傷痕でした」
忘れられた騎士たちの夜。
「あの年の冬、東の城門が閉じる日はありませんでした。マエストロの改革を逃れた避難民が押し寄せたのです。新秩序に刃向かいすべてを奪われた者たちでした」
「私は城壁の上におりました。吹雪の向こうに行列が見えたのです。司祭服を引き裂かれ裸足で歩く老人たち、家紋を削り取った馬車、幼子を胸に抱いて倒れる女たち……すべて大改革を生き延びた哀れな魂でした」
「ええ、秩序の時代でございました。雪で覆って消し去った、そんな完璧な秩序でございます。我がウィンターウッドはその秩序の辺縁からわずかに外れた危うい亡命先でございました」
冷ややかな静寂が降りた。
「王国は二つに裂けておりました。避難民を受け入れるべきだと唱える聖女派と、恭順すべきだと唱える公爵派が戦を繰り広げていたのですから」
「我らが陛下は教団の圧政を逃れたすべての者に門を開いてくださいました。誰よりも民を愛した君主でいらっしゃいましたから」
口元に冷笑がよぎった。
「実に崇高なご決断ではありませんか。夜ごと増える診療所の呻き声と、配給を減らさねばならぬという財務官の嘆きからあえて目をお背けになってまで」
壁から手を離し、再び歩き出す。背後で、無傷だった通路の風景が侵食されていく。
ドレイクの足が何かに引っかかった。土に半ば埋もれた、粗末に削り出したペンダントだった。手のひらの上で土がこぼれ落ちた。
ドノヴァンは目を向けられず顔を背けた。ドレイクは舌打ちをひとつして、ペンダントをポケットにねじ込んだ。
「権威と権力は異なるものです。権威は人の心を従わせますが、権力はただ膝を折らせるだけのもの」
「城門の外の行列を率いてきたのは権威でした。しかし彼らを追ってきたのは権力だったのです」
光球が明滅した。
「一介の枢機卿にすぎなかったイゾルデが反対派を粛清し、己を神の代理人と称して教団と帝国を掌握しました。聖女殿下の権威は形式上のみ対等な地位に格下げされ、実態は……いつ崩れてもおかしくない危うい均衡でした」
言葉を切りアッシュへ視線を移した。
「あのときヴァレンタイン卿も聖女殿下に従いこちらにおられましたね」
ドレイクが顔をしかめ、アッシュを見やった。
「……お前、首突っ込んでねえとこねえのかよ」
アッシュは薬草を取り出し、カリッ、カリッと噛んだ。
「イゾルデは機を逃しませんでした。避難民保護を口実に王国へ圧力をかけ、ついには帝国の皇女とテオドール王太子殿下の政略結婚を強いるに至ったのです」
水溜まりの底に王宮を覆い尽くした絶望が映るかのようだった。
「それは王国への足枷でした。成立したが最後、ウィンターウッドもまた他の王国と同じく帝国の属国へと転落する運命だったのです。陛下は外交で解決できると信じておられましたが……」
顔を上げた。
「どう抗えばよかったと思われますか」
声にひびが入った。
「結局、王妃殿下がご決断なさいました。聖女殿下の権威に王国最後の望みを託すという形で。途方もない賭けでした」
「聖女殿下をお迎えし、マエストロの秩序を否定する教会分離を宣言する、という策でございました。殿下の影響力がどこよりも強かった我が王国ならば、帝国に抗する諸国を糾合できると信じたのです」
「むろん、お心の優しい陛下は反対なさいました」
言葉が途切れた。光球が横顔に陰を落とした。
「大陸全土を戦火に巻き込みかねない危険な道でしたから。しかし王国を守る術はそれひとつしかございませんでした。だから……強行すると決めたのです」
通路には再び水滴の音だけが残った。そのときだった。
闇の奥から破裂音とともに鞭のようなマナの筋が通路を横切って弾けた。先頭に立っていたドレイクが腕を突き出し、一行を制した。
血管のように絡み合っていた供給管の一部が破損し、精製されていないマナが漏れ出していた。断続的に噴き出す火花は、近づくものすべてを焼き尽くす勢いだった。
ドレイクが顎で床に転がる排水溝の蓋を示した。
「あれで塞ぐぞ」
「こいつイカれてんの。あれがただの蒸気に見える?」
セレナが額を押さえた。
「あんな鉄屑じゃ触れる前に溶けるわよ。一時的な暴走かもしれないから大騒ぎしないでちょっと待ちなさいって」
「とりあえずやってみりゃいいだろ。ダメなら待ちゃいい」
「それで爆発でもしたらどうすんのよ!」
ドレイクはぼやきながら足を踏み出した。
「うるせえどけ」
「待てっつってんでしょ! この石頭!」
ため息をつき片手に魔力を集め始めた。刹那、轟音とともにスパークが弾け——嘘のように静まり返った。通路にはばつの悪い空気だけが漂った。
ドレイクは伸ばしていた手を、セレナは魔力を練っていた手を、静かに下ろした。
「……」
「ほら」
ドレイクは口の中で悪態をつき、先頭に立って歩き出した。
いくつかの角を曲がると風景がまた変わった。磨き上げられた壁はもう見当たらず、無骨な岩盤が一行を迎えた。
時間も消せなかった傷痕があらわになっていた。深く刻まれた刀傷、魔法の炸裂で黒く焼けた痕跡、そして——壁のくぼみにめり込んだ獅子騎士団の盾。
ドノヴァンは盾の前で足を止めた。目を背けなかった。ひとつひとつ目に収めた。
「国王陛下はあの計画を止めようとなさいました。アルフォンソ公爵に……すべてを打ち明けてしまわれたのです。公爵は逃しませんでした」
「ここが屠殺場の入り口です。公爵の密告を受けた教団の騎士団が待ち伏せていたのです。退路も、救いもない。完璧な罠でした」
義眼が唸りを上げて切り刻まれた岩壁を舐め回し、セレナは鼻に皺を寄せた。
「私はボルドウィン卿を説得しようとしました。全員を救うことはできない、どうかせめて聖女殿下だけでもお連れして道を切り開いてほしい、と」
眼差しが虚空を探った。十年前のボルドウィンと向き合っているかのようだった。
「しかし彼は断りました。騎士として果たすべき務めを全うする、と」
「結果は凄惨でした。ボルドウィン卿は避難民を守るため盾の壁を築きましたが、帝国の圧倒的な軍勢の前に全員が屠られました。何ひとつ守れなかったのです。王国も、避難民も、聖女殿下さえも」
続けて付け加えた。声は熾火の消えたあとのように静かに沈んでいた。
「聖女殿下は混乱の中で教団に奪還され、ボルドウィン卿の崇高な選択は……王国の未来を灰燼に帰せしめた愚かな玉砕にすぎなかったのです」
ドノヴァンの言葉は湿った床へと沈んだ。物語は終わったが、残響は消えずに重くのしかかった。
そのときドレイクが首を巡らせた。
「ところで王妃は? 爺さんとこの王妃はまだ生きてんだよな? 教団が黙ってほっといたはずねえのに」
ドノヴァンは複雑な面持ちでアッシュを見た。ドレイクは乾いた笑いを漏らした。
「……またお前かよ」
アッシュは肩をすくめた。十年前の悲劇はそうして最後の目撃者の肩の上で散った。
一行は再び歩き出した。どれほど歩いただろう。先頭に立っていたドレイクが足を止めた。もう先へは進めなかった。落石が通路の果てを塞いでいた。
四人は、物語的にも物理的にも、袋小路と向き合った。




