第18話:埃をかぶったレクイエム
扉が開くと古い紙とインクの匂いが出迎えた。ドレイクは苛立たしげに閲覧室を横切った。
「あのクソジジイ。よりによってこんなとこかよ」
アッシュは天井のフレスコ画をざっと見上げた。聖女が七騎士を祝福する絵は色あせ、金箔が剥がれ落ちて久しかった。
目的地は西別館の最奥。王室年代記の札が下がった区画だった。
ドレイクが周囲を警戒する傍ら、アッシュは紋様にマナを流し込んだ。書架が奥へ退き、一段と濃い匂いが押し寄せた。ここは王室が歴史から抹消した時間を保管するがゆえに〈時の書斎〉と呼ばれていた。名のとおり時が死んで眠る場所だった。
天井まで届く書架は物語を閉じ込めたまま並び、唯一の光源はステンドグラスを透かした陽射しだけだった。その光の筋のなかで、塵が気だるげに舞っている。
ドレイクは堪え性もなく机へ向かった。依頼人、ドノバン・バルアが座っていた。
アッシュは戦史の書架の前に立って一冊を引き抜いた。埃が幾重にも積もった書物とは違い、手擦れで表紙の角が丸くなっていた。
「ボールドウィン卿……王を愛しすぎたがゆえに王国を救えなかった騎士です」
いつの間にか歩み寄っていたドノバンが静かに言った。指先で表紙の獅子の紋章を、ゆっくりとなぞった。
「読む気はない」
「存じております」
ドノバンは穏やかに笑った。
「ボールドウィン卿は最後まで忠義を尽くして逝かれました。誰もが名誉ある騎士とたたえますが、わたくしは愚かな方として記憶しております。王とともに死ぬ道をお選びになっただけですから」
言葉が翳りのなかへ沈んでいった。
「死人の選択に興味はない」
「ですがその愚かさが残された者たちを縛り付けているとしたら?」
ウィンターウッドの地図へ目をやった。
「聖女という旗が再び翻っております。実に美しい光景でございます。しかし果たしてどれほどの者が旗の清らかさを見ているでしょうか」
アッシュの口元に嘲りが浮かんだ。
「で、あんたの望みは何だ」
ドノバンの眼差しから温もりが消えた。
「未来です。この王国の未来。誰かが次の世代の礎を、せめてひとつでも拾い上げねばならないのではありませんか」
沈黙が書斎を満たした。部屋の片隅でティーカップがソーサーに触れる音が響いた。
「……ん? なにこれ美味しい」
書架の隅、調度品の一部にしか見えなかった椅子から、女がひとり姿を現した。
セレナだった。最後の一滴まで口に流し込んでから唇を舐めた。
「これ何の茶葉? 渋みが少ないってことは結構お高いヤツでしょ」
ドレイクは口の端をひん曲げた。
「何しに来やがった。うろちょろしたっておこぼれはねえぞ」
セレナは聞こえた素振りすら見せなかった。代わりにテーブルのティーバッグを束ごとポケットにねじ込んだ。ドレイクが舌打ちした。
「手口が見え透いてんだよ。レプリカをもう一個仕込んどいただけだってのに……」
こめかみを指先でとんとんと叩きながら続けた。
「どっかの間抜けな魔法使いが喜んで食いついてきやがったけどな」
にっと笑い、懐をぽんと叩いた。
「本物はここにあるってのにな」
セレナはティーカップを音もなく置いた。ドレイクの笑みがいっそう濃くなった。自信満々に懐から指輪を取り出してみせた。
「さあ見ろよ。これが……あ?」
掌の上で指輪が砂の城のように崩れ始めた。形を失った粒は床に届く前に蒸発して消える。
セレナは口の端をつり上げた。
「さすが、本物は違うわ」
細い指の間で指輪がくるくると回っていた。鮮やかに光る王家の紋章。
ドレイクの義眼が焦点を失い唸った。
「……嘘だろ」
セレナが指輪を宙にはじき、軽く受け止めた。
「刻印が甘かったからすり替えといたのよ。そんな浅い手に引っかかると思った? このボンクラ」
指輪がはじいた光がドレイクの驚愕した顔とドノバンの興味深げな表情をなめるように過ぎた。そしてアッシュの顔へと落ちた。
ドノバンがうなずいた。机の引き出しから重い革の袋を取り出した。
「セレナさん。こちらお約束の報酬でございます」
セレナは目を光らせてひったくった。だがドレイクが立ちはだかった。
「待て! この女が横から割り込んで全部台無しにしやがったんだぞ!」
ドレイクはなおも言い募ろうとしたが、アッシュの無表情に遮られた。
セレナは肩をすくめ、袋を掌に載せて重さを量った。
「くぅ、ずっしり。お爺さん、次も呼んでくださ——」
その言葉は最後まで続かなかった。本を棚に戻していたアッシュの手が止まった。気だるげだった目元が冷たく細まった。
「ドノバン。……尾けられたか」
ステンドグラスが爆ぜた。色とりどりの硝子の破片が雨のように降り注ぎ、火薬の匂いをはらんだ冷気が書斎を覆った。ルーンで足場を組んだ襲撃者たちが空間を埋めた。装束にはウィンターウッド公爵家の紋章が刻まれていた。
指揮官が面頬を上げた。殺気を帯びた眼がドノバンを捉えた。
「指輪を回収しろ。残りは全員排除だ」
合図と同時に書斎の壁が砕けた。第二陣が雪崩れ込む。天井から魔法使いが重力を無視して降下した。四方から魔力の矢が飛び交い、書架を蜂の巣にした。引き裂かれた古書が雪片のように散った。
「くそっ!」
ドレイクがテーブルをひっくり返した。リボルバーが火を噴くたび敵の胸が弾け飛んだ。終わりのない波だった。
セレナは混乱を武器にした。光をゆがめる幻影をまき散らすと敵は蜃気楼へ剣を振るった。だが重装の盾兵が陣形を組み、押し込んできた。
弾丸ははじかれ、盾に刻まれたルーンが魔法を呑み込んだ。
影の中で残像がひらめいた。陰を縫うように流れていたアッシュだった。盾兵の首と肩の隙間に剣を突き入れ引き抜いた。短い悲鳴とともに巨躯が崩れ落ちたが、空隙は即座に別の盾兵に塞がれた。
「ぐっ……!」
ドノバンがうめいた。流れ矢が肩をかすめていった。迫る暗殺者を剣で貫きながら、現実を見据えた。このままでは全員がじわじわと死んでいくだけだった。
四方を見回していたドノバンの視線が、周囲から浮いた煉瓦の壁で止まった。見据えたまま重い溜息をついた。
「……致し方ありませんな」
壁を指した。
「かつてワイン貯蔵庫として使われていた通路です……まだ塞がれていないことを祈るほかございません! ドレイクさん、道を開けてください!
ドレイクは残りの弾丸を叩き込んで敵を食い止めた。弾倉が空になるや傍らの彫像を引き抜き、投げつけた。
「セレナ何やってんだ! そっちの足止めが利いてねえぞ!」
「うっさい! 自分のことだけやってなさいよ!」
セレナが両手を振るうと、足元から粘つく煙が立ち昇り、兵士の視界を塞いだ。
「ヴァレンタイン卿、後ろを!」
ドノバンの切迫した叫びが響いた。
アッシュは最後に歴史の墓を目に焼きつけた。燃える書物が灰となって舞い散り、硝子の欠片が血のようにひらめいた。
足元に落ちた一冊が目に入った。炎がちょうどなめ始めた絵本。表紙にはすり切れた絵とともに『白薔薇の聖女の誕生』という題が刻まれていた。
その瞬間、兵士がひとり踏みにじって通り過ぎた。アッシュの瞳から、最後に残っていた光さえ消える。
書架の最も高い位置にあった輝光石のランプへ短剣を放った。ランプが砕けてマナが暴走した。閃光とともに書架が崩れ落ち、追撃者の道を塞いだ。
「行くぞ!」
アッシュの声とともに四人は狭い通路へ飛び込んだ。背後から指揮官の怒号が木霊のように追いすがった。




