第17話:泥棒たちのタンゴ
ドレイクは整備工の作業着姿で、飛空艇バスティオンの通路をぶらついていた。すれ違う職員の疑いを避けるため、異常のないパイプを、コツ、コツコツ、コツ、と叩いてみたり、深刻な顔で制御盤を開けては見当違いの配線を抜き差ししてみたりした。
すべて芝居だった。合間に本命である監視回路の欠陥を執拗に洗い出していた。
一方、厨房は別種の地獄だった。アッシュの前にはアイロンのかかった制服が置かれていた。
「何をグズグズしてやがる!」
料理長のこめかみに青筋が浮いた。視線が上から下へと走った。
「そのナリで皿一枚まともに拭けんのか? だいたい、こんなのをどこのどいつが連れてきやがった!」
アッシュの顎に指を突きつけて吠えた。
「もたもたしてたらすぐ叩き出すぞ、気ぃ引き締めろ!」
言い返す代わりに制服に袖を通した。そのとき、扉が勢いよく開いた。
「VIPラウンジのカナッペはまだか! 閣下がお待ちだぞ!」
「は、はい! ただいま出るところでございます!」
料理長はすぐさまアッシュに歩み寄り、滑稽なほど高く積み上げられたカナッペの盆を押し付けた。
「お前が出ろ。今すぐだ!」
盆がぐらりと揺れた。バランスを保つことだけに意識を注ぎ、サービス通路へ向かった。そこでぶらついていたドレイクと鉢合わせた。
目顔で問われ、眉をひそめて応えたがドレイクはお構いなしだった。
「ブツは見つけた。あとはあの女さえ出し抜きゃ……」
「おい、小僧!」
厨房の扉が再び開き、料理長の怒声が飛んだ。
「サボってんじゃねえぞ!」
追い立てられるまま宴会場へ続く巨大な両開きの扉の前に立った。厨房の扉が閉まると喧騒は微かな残響へと変わった。
束の間の静けさ。
扉が内側へ滑るように開き、光と音楽の世界を吐き出した。
* * *
大宴会場は華やかさに満ちていた。
天井には魔法で紡がれた星々が散らばり、中央のシャンデリアがホール全体を白く焦がしていた。
弦楽四重奏が奏でるタンゴの旋律、人々の浮かれた笑い声、ありとあらゆる香水が混じり合い、空気を濃密に満たした。
アッシュはホールを横切った。商人の一団をすり抜けると会話の欠片が飛んできて突き刺さった。
「税のせいで運送費が倍に跳ね上がったんだ。イゾルデは俺たちを干上がらせる気だぞ」
「しっ! 声が大きい! 死にたいのか?」
視線は自然と標的のアルフォンソ公爵を捉えた。公爵は数人の貴族に囲まれワインを傾けていた。
傍らではデュボア子爵が傲慢な面構えで絶え間なく追従を並べ立てた。公爵の顔には色濃い倦怠が滲んでいた。
盆を持ち直しかけたとき、視線がホールの対岸で止まった。炎のように赤いドレス。ワイングラスを手にしていたが、見ている先は同じだった。
その眼差しが子爵から離れ、危なっかしく飲み物を運ぶウェイターへ向かった。そしてまた、子爵へ戻った。
アッシュには分かった。間もなく芝居の幕が上がることを。
やがて女が動いた。一歩、二歩。ウェイターと子爵の間隙を縫う精密な足取り。
計算された衝突とともに盆が大きく傾いた。赤ワインが子爵の靴とドレスの胸元にそのままぶちまけられた。
「も、申し訳ございません」
ウェイターは蒼白になって深々と頭を下げた。デュボア子爵の顔が怒りにゆがんだ。
「この虫ケラがァ!」
ウェイターの胸倉へ手が伸びた刹那——視界を奪ったのは、困惑の表情で見つめる女だった。
そこでようやく目に入った。
ワインが赤いドレスの上を伝い落ち、血の雫を残した。濡れた絹がなまめかしく光り、肌の起伏を無防備にさらけ出した。染みは視線をあらがいがたく谷間へ引き寄せていた。
おずおずとドレスの胸元を軽くかき合わせた。唇の隙間から細い息が漏れた。
デュボア子爵の手が宙で止まった。怒りは消え、間の抜けた欲望が顔をのぞかせていた。
アルフォンソ公爵の口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「よせ、デュボア。たかが靴のことで宴を台無しにするつもりかね」
デュボアは公爵の一蹴と女の無関心という壁に挟まれ、唇をわずかに動かすだけだった。
「レディ、さぞ驚かれたことでしょう。代わりにお詫びいたしますよ」
女が公爵を見上げた。青ざめた顔と、揺れる紅い瞳が庇護欲をかき立てた。
「失礼ですが、どちら様で……?」
公爵が傲慢な気配を隠そうともせず答えた。
「この飛空艇の主ですよ」
目を見開いた女は畏敬を滲ませた声でつぶやいた。
「もしかして……ウィンターウッドのアルフォンソ公爵殿下でいらっしゃいますか?」
公爵は鷹揚にうなずいた。
「まあ……」
女の顔が、憧れの英雄と対面した少女のようにほころんだ。うつむき、台無しになったドレスを見下ろした。声には切なげな響きが宿っていた。
「あら……困りましたわ。このままでは公爵様のパーティーにふさわしくないお客になってしまいますわね」
計算された誘惑だった。公爵は喜んでその手に乗った。
「レディがお許しくださるなら、私の部屋にドレスを元に戻す手立てがあるのですが」
一歩歩み寄り耳元にだけ届くような声で囁いた。
「もう少し……深いお話でもいたしませんか」
「光栄ですわ」
公爵は笑って腕を差し出した。女はその腕を取り、身をひるがえした。
ほんの幕間。口元に浮かんでいた無邪気な微笑みが嘲りに変わり、消えた。
アッシュは空のグラスを下げ、静かにその場を離れた。
* * *
部屋の主は寝台の上に滑稽な姿勢で倒れていた。口元には涎の跡、顔には間抜けな笑みが張りついていた。
セレナは一瞥すると興味を失い、部屋の中央の巨大な金庫へ向かった。指先から立ちのぼった魔力の糸がダイヤルに染み込み、保安機構を解きほぐしていった。
ついに扉が開いた。だが目に映ったのは暗紅色のベルベットの上に横たわる空虚だけ。金庫はもぬけの殻だった。
「これを探してんのか?」
闇の奥から太い声が響いた。セレナが振り返ると、陰の濃くたまった一角にふたりの男が立っていた。
大柄な男はドレイクだった。掌の上で指輪が光をはじいていた。傍らの窓辺にもたれていたアッシュが低く付け足した。
「ベタな色仕掛け」
セレナに驚いた素振りはなかった。ゆっくりと金庫の扉を閉め、向き直った。
「悪い? 適材適所ってやつよ」
ドレイクが鼻をほじった。
「俺の知ったこっちゃねえがな。だがありゃ仮にも公爵だぞ? 背負いきれんのか?」
「背負う? 何を?」
気絶した公爵を顎で示した。
「どうせアタシの顔も覚えちゃいないわよ」
視線がドレイクからアッシュへ移った。
「へえ……そっちが灰色の狐ってわけ?」
「知ってるのか」
「当たり前でしょ。教団の大騎士サマじゃない。そんなに偉いお方が、なんでドレイクなんかとつるんでんの? 教団のお給料、よっぽど渋いわけ?」
アッシュが薬草を取り出し、口に放り込んだ。苦い香りが舌先にまとわりついた。
「とにかく、アタシのモノさっさと返しなさいよ」
「お前のモンだぁ?」
ドレイクが鼻で笑った。
「なんでそれがお前のモンなんだよ」
セレナはゆっくりと一歩前に出た。靴音ひとつで軽口の空気が消え失せ、静寂が降りた。
「ちょっと、ドレイク。いい加減にしなさいよ。イラついてきたんだから」
微笑みが蒸発した。紅い瞳の奥底ではぐれた獣が一瞬よぎった。
「アタシは一度つかんだ獲物を逃がしたことなんてないの」
その言葉を最後に、軽く指をはじいた。指先から魔力の糸が伸びるやドレイクの掌の上が空になった。指輪が消えていた。
いつの間にか窓枠に片足を掛けたセレナがウインクした。指の間で指輪が月光を受けてきらめいていた。
「アタシは行くわ。アンタたちは公爵殿下とゆっくり遊んでなさい」
闇の中へ燕のように身を躍らせた。
ドレイクは掌を見下ろしていた。
「あんな速さでズラかるなんてわかるかよ」
アッシュが小さく首を振った瞬間、寝台の公爵が呻き声を漏らし、身じろぎした。
ドレイクの顔から余裕が消えた。
「な、なんだてめえらは……! け、警備! 警備ぃッ!」
「くそったれ! あのクソアマが!」
公爵の怒号とともに廊下の向こうから警報と慌ただしい足音が響き始めた。




