第16話:渇望と一万ゴールド
目を開けると、ロシナンテ号の天井だった。
なじんだ魔力回路の低いうなりが骨の髄までしみわたった。船室の空気はいつものように饐えた油の匂いを含んでいた。
上体を起こした。ベッド脇のテーブルには外した首飾りがあった。ひびの入った、色あせた石だった。首にかけるとひやりとした感触が素肌を走り、やがてなじんだ重さに落ち着いた。
天井の魔力管に結んでは落ちる水滴を数えていた。意味はなかった。時間を殺すだけの行為。
ギシリ——
蝶番がきしみ、巨大な影が中へ踏み入った。ドレイクだった。
「まだそうやってんのか、アッシュ」
片手で依頼書を振ってみせた。義眼の歯車が噛み合い、光が明滅した。
「仕事だ。依頼人はドノバンの爺さんだ。アルフォンソ公爵がくすねた指輪を探してくれとよ。報酬は……破格の一万ゴールド」
肩をすくめた。視線は羊皮紙の向こう、黒ずんだ床板に留まっていた。一万ゴールド。インクで記された数字にすぎなかった。
ドレイクの溜息が聞こえた。大きな背中が調理場へ向かった。しばらく座っていたが、のろのろと後を追った。ドレイクが鍋をかき回していた。
「海藻スープだ」
ゴトッ、と投げやりに置かれた器。舌を刺す塩辛さに数口噛むふりをして、手を止めた。
「食う気がしない」
「まったく、死にかけのツラして食わねえってか」
席を立った。腰の袋から薬草の葉を取り出して噛み潰すと苦い香りが口の中に広がった。
再び、テーブルの上の羊皮紙を引き寄せた。
一万ゴールド。
数字の向こうに猪の丸焼きと濃いエールがゆらめいた。葉を吐き出した。
「行こう」
ドレイクがうなずいた。踵を返す背中に、ひどいスープの臭いがまとわりついた。
* * *
「本当に申し訳ございません、ドレイクさん。その件は既に他の方とご契約が成立しておりまして……」
ヴァレリウスの声は震えていた。額の冷や汗が眼鏡の金属フレームを伝って滴り落ちた。
ドレイクが机を殴りつけた。重い振動にも机上の砂時計は微動だにしなかった。
「何だと!?」
ギルドの精算所。アッシュの視線はヴァレリウスの背後の、壁面を埋め尽くす機械装置をたどっていた。ヴァレリウスもその部品だった。糊の利いたスーツを身にまとっていたが、不安に揺れる眼差しがこの部屋の秩序にそぐわなかった。
たじろぎながら眼鏡を直した。目をそらし、慌てて砂時計をひっくり返した。上下が入れ替わり、砂粒が落ち始めるその一瞬にすがりついていた。
「つまり無駄足踏まされたってことか?」
ドレイクがうなった。
「御託はいい! 依頼を横取りした奴が誰か言え」
身をすくめたヴァレリウスが観念して言った。
「その……セレナさんです」
ドレイクの険しい顔が固まった。
「セレナ?……セレナ・マーロウ?」
「はい」
壁に寄りかかったまま薬草を噛んでいたアッシュが、初めて口を開いた。
「なんで?」
ドレイクがしかめっ面で答えた。
「まあ……ちょっと、いや、かなりいけ好かない女なんだよ」
ヴァレリウスがぱっと顔を上げた。
「ええ! おっしゃる通りです。精算日のたびにいらしては、まだかまだかと凄まじい剣幕で……は、はい、で、ですが腕だけは確かな方ですから……はい」
ドレイクが鋭く睨んだ。
「俺の腕がセレナ以下だってのか」
「い、いえいえ! 違います、違います! めっそうもございません!」
手を横に振りながらどうか落ち着いてくださいと言わんばかりの仕草をした。
「……ただ」
声が尻すぼみになった。目がドレイクの肩越しに、アッシュへ泳いだ。表情には、言い出せない困惑と哀願が複雑に入り混じっていた。
「と、とにかく、この依頼は俺たちがやる!」
ドレイクが机から依頼書を乱暴に掴み取った。
「セレナだろうが何だろうが知ったこっちゃねえ。獲ったもん勝ちだ」
* * *
鷲獅子の巣の重い鉄扉を開けると、むっとする熱気と油の匂いがどっと吹きつけた。
工房は二つの世界に分かれている。半分は赤い炉が燃えたぎり、プレス機がうずくまる世界。もう半分はレンズと精密道具が塵一つなく整列した世界。
鋼と鷲獅子。工房は主の姿を体現していた。
「おい!」
熱気の中で鉄槌を振り下ろしていた巨大な人影が動きを止めた。ドレイクに負けぬほど大きく、まくり上げた袖の下から引き締まった筋肉が覗く女だった。
ゴーグルを額に押し上げると、汗で光る仏頂面が現れた。
「なんだ、ドレイク。何しに来たんだい」
「何しにって、お前に仕事を持ってきてやったんだよ」
「仕事だって? エンジン代もまだじゃないか」
レベッカだった。
ドレイクは聞こえないふりをして、そっぽを向いた。レベッカは舌打ちすると、傍らのアッシュへ視線を移した。荒っぽい声がやわらいだ。
「アッシュも来たんだね」
ドレイクがいきなり作業台に古い紙を一枚広げた。
「それより、こいつをさっさと作れ」
設計図を見ていたレベッカの目が細くなった。
「アタシはアンタの何でも屋かい? それに……これウィンターウッド王家の品じゃないか」
「今回受けた依頼だ。王が死んだあと、アルフォンソ公爵がちょろまかしたんだと」
「あの毒蛇がこれで何するつもりだい? そんなことしたって王になれるわけでもないじゃないか」
ドレイクが作業台の縁に腰を下ろし、低く言った。
「知るか。こっちは金さえもらえりゃいいんだ。まったく、さっさとやれ。時間がねえんだ」
「何をそんなに慌ててんだい。払うもん払ってから言いな」
「セレナの奴も同じ依頼を受けやがったんだよ」
「セレナ?……なら、やめときな」
「冗談じゃねえ。このドレイク様が、あの女ごときで手を引くと思うか!」
「そうかい。勝手にすりゃいいさ」
レベッカがふっ、と失笑を漏らした。しばし流れた静寂を破ったのは、ずっと黙っていたアッシュだった。
「複製は」
レベッカはアッシュを少しの間見つめ、首を振った。
「形を写すだけならすぐだよ。刻印を複製するってのは、魂を写し取れって言ってるようなもんでね」
はにかんで付け加えた。
「でもアッシュの頼みなら頑張ってみてもいいんだけどねえ」
「くだらねえこと言ってねえでとっとと作れ。それらしく見えりゃいいんだよ」
レベッカの眉がぴくりと動いた。
「それよりさ、溜まってるツケはいつ払ってくれんだい?」
「うるせえな。今回ので払えばいいだろ」
「はあ……アタシまた騙されてあげなきゃいけないのかね」
うんざりした顔でぼやきながらもゴーグルを直し、作業台の前に立った。引き出しから細工道具を取り出そうとした、そのときだった。
「レベッカ、待て」
レベッカの手が止まった。けげんな視線がアッシュへ向く。




