エピローグ
夜明け前の青い闇が降りていた。
アッシュは、主を失って空になったエリアーナの天幕の中に立っていた。内部は深い静寂に沈んでいる。熱病が去った後の、彼の内面のように。
水差しに挿された野花が枕元で首を垂れ、すっかり枯れ果てていた。卓の上に置かれた繕いかけの巡礼服の、ざらついた生地を指先でなでた。
視線が隅に置かれたひびの入った鏡へ移った。姿をまともに映す代わりに、いくつもの破片へと切り刻んでいた。その向こうに残像が揺らいだ。
仕切り布が静かに持ち上がった。テリオンだった。何の紋もない粗末な旅装をまとっていた。
挨拶は交わされなかった。沈みゆく埃がゆるやかに空間を漂うばかりだった。
重い空気を破ったのはテリオンのほうだった。書類の押さえにされていた小石を見つめ、独り言のように口を開いた。
「姉さんが幼い頃、川辺で変な形の石をひとつ拾ってきたことがあったんです。うずくまった獣に似ていると。毎日抱えて歩いては話しかけていました。私にはどう見ても……ただの……石にしか見えなかったのですが」
言葉を切り、封じ込められた時間を読み取るように小石に指を這わせた。
「ある日その石を遠くに投げ捨てました。でも姉さんは一日中歩き回って結局よく似た別の石を拾ってきました。そしてまた……話しかけるんですよ」
語りの残した沈黙のなか、アッシュはひびの入った竜の涙を差し出した。だがテリオンは首を振った。
「辞退させていただきます。今でも私は……司祭ですから」
アッシュは石を見下ろし、ふたたび懐にしまった。
「教団に戻るのか」
テリオンは無意識に胸元を探った。かつて白薔薇の紋章が留められていた場所。視線が、靴先へ落ちた。
「ひとまず自由都市へ向かうつもりです。聖痕病の患者を診る診療所があると聞いたもので。分かりませんよ。そこで姉さんが拾いきれなかった石のひとつくらいは——私にも拾えるかどうか」
二人は短い目礼で別れを告げ、テリオンは天幕を出た。
アッシュは、ひびの入った鏡の前に立った。懐からつぶれた空き缶を取り出し、棚に置いた。凹凸のある表面にランプの灯が映り込み、ゆがんだ微笑みを描いた。鏡の中、砕け散った姿がその笑みを見つめていた。
瞳には何も宿っていなかった。
ただ亀裂が、消えぬ傷痕として深く、刻まれているだけだった。




