第-4話:やさぐれロートルの夜
最悪の夜だった。
競馬も競艇もかすりもせず、財布の中身は綺麗に消し飛んだ。残ったのは、胸の奥のドロドロとした焦燥感と、酒でも飲まなきゃやってられないという、ひどく醜い依存心だけ。
俺は重い足取りで、場末の路地裏にある行きつけのバーのドアを蹴るようにして開けた。
深夜「マスター、すまん。いつもの。……あ、支払いはツケで頼む」
マスター「おいおい、冗談だろ深夜。お前、もう前のツケが限界まで溜まってんだよ。これ以上は一滴も出せないね。帰ってくれ」
深夜「ちぇっ。ケチ臭いこと言うなよ……」
にべもなく断られ、俺はカウンターの端の席で盛大にため息をついた。
イライラが収まらず、ポケットからクシャクシャになったタバコを一本引っ張り出して咥える。だが、ライターを探してもポケットは空っぽだった。
深夜「……あー、火もない。ついてない時はとことんついてないな」
チッと舌打ちをして、俺は立ち上がると、バーの古ぼけたコンクリートの壁に向き直った。
ライターがないなら、作ればいい。
俺は咥えたタバコの先端を壁に押し当てると――現役時代の超人的な踏み込みの技術(の、ほんの微々たる応用)を使い、凄まじい速度とスナップでタバコを壁に『シュッ』と擦り付けた。
――キィィンッ!
肉眼では捉えられないほどの超高速摩擦。コンクリートの壁とタバコの葉が擦れ合い、マッチを擦ったかのようにバチッと火花が散って、タバコの先にしっかりと火が灯る。
深夜「ふぅ……。やっぱり、ちょっと吸うだけでも落ち着くな」
紫煙を吐き出しながら一息つく。だが、ふと壁を見ると、俺が摩擦を起こした場所が小さく赤く燻って、煙を上げ始めていた。
深夜「おっと、危ない危ない。火事になったら寝覚めが悪いからな」
俺は空いている左手のひらをその燻る壁にペタッと押し当て、力任せに『蓋』をした。常人なら大火傷する熱さのはずだが、元最前線組の皮膚は伊達じゃない。じゅう、と微かな音を立てて、酸素を遮断された火種は一瞬で鎮火した。
自分の超人っぷりに気付くこともなく、タバコを燻らせていると、バーの奥のボックス席からガシャーン!! と激しいガラスの割れる音が響いた。
「あぁん!? テメェ、どこに酒こぼしてんだよ!」
「うるせぇ! 文句あんのかコラァ!」
ガラの悪い酔っ払いの男二人が、胸ぐらを掴み合って今にも殴り合いを始めようとしている。周りの客は怯えて引き気味だ。
深夜「……あれ? バーで揉め事か」
俺は咥えタバコのまま、じっとその光景を眺めた。
財布は空っぽ、酒は飲ませてもらえない、腕は一本ない。ストレスは最高潮だ。
深夜「……うん。気晴らしに、ちょっと殴れるかな」
我ながら最低の発想だが、荒みきったロートルの脳に名案が浮かんだ。
俺はのそのそと二人の間に割って入り、いかにも良識ある大人といった風な、穏やかな声を出す。
深夜「お互い酔ってるんだ、店に迷惑をかけちゃいけないよ。な? ほら、ケンカなら表の路地裏でやろう。俺が仲裁してやるからさ」
「あぁ!? なんだお前は!」
「引っ込んでろおっさん!」
深夜「まあまあ、そう言わずに。ちょっとこっちへおいで」
俺は二人の首根っこを左右から(片腕なので、一人は脇に抱え込み、一人は左手で掴んで)強引に掴むと、そのまま店の裏口から暗い路地裏へと引きずり込んだ。
――ガシャアァン! バキキッ!!
深夜「ちょっと静かにしてくれよ」
「ぶふっ!?」
「がはっ……!」
路地裏に入った瞬間、俺は仲裁のフリをかなぐり捨てた。
掴んでいた二人を壁に叩きつけ、ブランクで鈍っているはずの拳と蹴りを容赦なく叩き込む。相手が何をされたか理解する前に、一瞬でコンクリートの床に沈めてやった。
深夜「……ふぅ。あー、スッキリした。やっぱり身体を動かすのはいいな」
路地裏に転がる、ピクリとも動かなくなった二人を見下ろしながら、俺はタバコの灰を落とした。いいストレス発散になった。
満足して、俺はバーの店内へと戻った。
深夜「マスター、店内の平和は守ったぞ。これで一杯くらいツケで――」
マスター「深夜。お前、うちの壁にタバコ擦り付けて焦がしただろ。おまけに裏で客をボコボコにしやがって……カメラで全部丸見えなんだよ!」
深夜「え?」
マスター「もうお前は出禁だ! 二度と来るな!!」
深夜「えっ? 出禁? ……困ったなぁ。ここ、家から近くて便利だったのに……」
肩を落とし、俺は夜の街へと追い出された。
酒も飲めず、行きつけの店も失い、いよいよ俺のやさぐれ生活は限界を迎えつつあった。この最悪な引きこもり生活のどん底に、あの『葬式のお知らせ』が届くのは、もう少しだけ先の話である。




