第2話:基準値のオーバーラン
一千万という軍資金。それは、苗字を持たないただの市民である深夜にとって、一生かかっても拝めないはずの額だった。
だが、その大金は今、裏山の洞穴の中で着々と「資材」へと姿を変えている。
「コラ! そこ! 石を積む角度が甘い! 冒険者がつまづいて怪我……はしてもいいが、壁が崩れたらこっちの修理費がかさむんだよ!」
「クゥーン……(シュン)」
深夜の怒鳴り声に、コボルトたちが震えながら石を積み直す。その横では、魔王が連れてきたノーム(土妖精)たちが、注文したばかりのアルミや銀の粉末を魔法の触媒として土に混ぜ、壁に美しい光沢を与えていた。
深夜は一千万の払戻金を握りしめ、すぐに昔の伝手を通じて「ダンジョン管理用部材」を爆買いした。土砂崩れ防止の魔法杭、換気用の魔動扇風機、そして何より高価な「安全転送回路」の基板。
「……ふぅ。これでなんとか『泥の穴』から『施設』にはなったか」
深夜は左手だけで額の汗を拭い、一息ついた。
彼にはわかっている。今の「ナハト」がどれほど異常な強さなのか。トトカルチョに明け暮れた二年間、彼は世界中のパーティの勝率と戦績をデータとして追い続けてきた。昨夜の戦いを見れば一目瞭然だ。
(真昼も宵闇も、もはや世界のトップ一パーセント……。あんな逸般的な連中がゴールデンタイムで中継されてるんだ。今の若い連中は、あれを『プロの標準』だと思って目指してくるんだろうな。……恐ろしい時代だよ)
深夜は、かつて自分がいた場所がどれほど遠いところへ行ったのかを、誰よりも正確に測っていた。だからこそ、これから作るダンジョンは、今の「異常にレベルの上がったプロ」たちが来ても、少しは歯ごたえを感じる程度には厳しくしなければならない……と、完全に思考が「接待(殺意)」の方向へズレ始めていた。
だが、隣でテレビを熱心に見つめていた魔王は、さらにその斜め上を行っていた。
「……パートナーよ。改めて見返したが……素晴らしいな。今の時代の若者は、皆これほどまでに洗練された動きをするのか。我の時代と比較しても、基礎体力が三倍は違うぞ」
魔王が感心したように、骨の指で画面の中の「ナハト」を指差す。深夜は嫌な予感がして、盃を置いた。
「……待て、旦那。大きな勘違いをしてないか?」
「勘違い? 何のだ。貴殿は言ったであろう、あやつらが今の『プロ』だと。つまり、この動きが現代の一般的な冒険者の基準なのだろう? ならば、我も応えねばなるまい! ヌルい仕掛けでは、現代の人類に対する侮辱だ!」
「いや、違うんだ旦那! あいつらは例外中の……」
「これより第二次召喚工事を開始する! パートナー、安心せよ! 貴殿の言う『情け無用』の精神、我もしっかりと受け取ったぞ! 来い! 蝿の王・ベルゼブブ! 真祖吸血鬼・カーミラ!」
魔王が突如として立ち上がり、右手を高く掲げた。
洞穴の空気が一気に凍りつき、床に描かれた魔法陣から、国が滅ぶレベルの禍々しいプレッシャーが噴き出す。
「ギギッ!?(やばい! 逃げろ!)」
ノームたちが慌てて物陰に隠れ、コボルトたちは一斉に深夜の股ぐらに顔を突っ込んだ。
「止めろぉぉぉ!! 召喚を止めろ!!」
深夜は残された左手で、魔王の背負う漆黒のマントを全力で引っ張った。
「何を止めるのだパートナー! 蝿の王がいれば、全域に死の病とデバフを撒き散らせるし、真祖がいれば侵入者を効率よく眷属に……」
「一千万なんて一晩で溶けるわ!! あんな連中を維持する食費と魔素を、どこから出すんだよ! それに、あんなの放し飼いにしてみろ、村の役場どころか国軍が飛んでくるぞ!」
深夜の必死の形相に、魔王は「おっと……」と手を下ろした。
「……ダメなのか? 現代の『一般的』な冒険者には、これくらいが相応しいと思ったのだが」
「あいつらは『一般的』じゃなくて『逸般的』なんだよ! 旦那、いいか。まずはもっと……こう、誰にでも勝機があるような、ゴブリンとか、その辺からだ!」
「ふむ……人類とは、これほどまでに格差の激しい種だったか。……難しいものだな、経営というのは」
魔王は少し残念そうに召喚術を解いた。
だが、その内心では『深夜の言う「一般的」は、おそらく謙遜が含まれている。もっと隠し玉を用意せねば、今の若者には失礼にあたるな』と、さらに物騒なトラップのアイデアを練り始めていた。
深夜は安堵の溜息をつきながら、ノームが削った石壁を見上げた。
(よし。まずは『プロなら冷や汗をかく』レベルの、健全なダンジョンから始めよう)
彼が「健全」だと思っている基準は、すでに世間一般の「絶望」と同義であった。
【各話オマケ:ナハトの冒険録 ―足跡なき聖地―】
都から遥か北方。かつて深夜が「ここはいい鍛錬場だ」と呟いたと言われる、最高難易度指定ダンジョン『凍てつく廃都』。
ナハトの面々は、襲いくる氷竜の群れをゴミのように蹴散らしながら、最深部の祭壇に立っていた。
「……ここにも、いないのか」
宵闇が、血のついた双剣を雪に突き刺す。その瞳には、隠しきれない焦燥と絶望が滲んでいた。
「深夜くんなら、絶対ここにいると思ったのに。……深夜くんが教えてくれた、あの効率的な立ち回り……。それを極めた人なら、絶対にこういう『未踏の地』にいるはずなのに」
真昼は、深夜がかつて「ここは景色がいいんだ」と言っていた場所で、膝をついた。
今の自分たちは、深夜の教えを忠実に守り、世界最強にまで登り詰めた。だが、その強さを持ってしても、彼のウワサの「う」の字も見つけることができない。
曙「……おいどん、怖いとですよ。深夜の旦那は、もう冒険者を辞めてしまったんじゃなかろうか」
「そんなわけない!!」
真昼の悲鳴に近い叫びが、氷の洞窟に響く。
「あの人が、剣を置くはずがない……。私たちは、まだあの人の背中に、一ミリも届いていないんだから……!」
彼らは知らない。
自分たちが「あの方ならここにいるはずだ」と信じて挑んでいるSSS級ダンジョンの数々を、深夜が「あんな危ないところ、二度と行きたくねえ」と本気で忌避していることを。
そして、深夜が今、裏山の泥穴でコボルトと酒を飲みながら、「最近のプロは化け物だな。俺みたいな雑魚は、一生ここで穴を掘ってるのがお似合いだ」と、本気で自嘲していることを。
最強の追跡者たちと、最弱を自認する管理人の距離は、皮肉にも強くなるほどに遠ざかっていく。




