はじまりの一歩
翌朝。
ヴァンは、いつもより早く目を覚ました。身支度を済ませ、鞄の中身を確かめる。財布。短剣。そして、冒険者登録申請書。何度も折り畳んだせいで、紙にはくっきりと折り目がついていた。名前も、年齢も、住所も、すべて記入してある。あとは、出すだけだ。
(……よし)
階下へ降りると、厨房にはもう火が入っていた。鍋から湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンの匂いが店いっぱいに広がっている。
「おう、起きたか」
バルドは、背を向けたまま言った。
「顔を洗って、座れ。食ってから行け」
「……はい!」
テーブルには、いつもの煮込みと、厚く切ったパンが並んでいた。手を合わせて、パンをちぎり、煮込みにつけて口へ運ぶ。温かくて、少ししょっぱくて、いつもの味だった。けれど今朝は、一口ずつが、やけに沁みた。
「……なあ、ヴァン」
「はい?」
「鞄は逃げねえぞ」
「えっ?」
「さっきから何回見てんだ」
「そ、そんなに見てました?」
「少なくとも五回はな」
「……数えてたんですか?」
「暇だったからな」
バルドが、にやりと笑う。
「もう……からかわないでくださいよ!」
そう言いながら、ヴァンも笑った。肩の力が、少しだけ抜けた気がした。
ーーーー
「ごちそうさまでした!」
器を空にして、鞄を肩にかけ、裏口へ向かう。扉に手をかけたとき、厨房から声が飛んできた。
「おい、ヴァン!」
「はい?」
振り返ると、何かが飛んできた。
「わっ!」
慌てて両手で受け止める。布に包まれたパンだった。まだ、ほんのり温かい。
「腹が減ったら食え」
「……ありがとうございます」
大切に鞄へしまうと、バルドが続けた。
「それと。帰ってきたら、どうだったか聞かせろよ」
昨夜の言葉が、胸に浮かんだ。ただいまって言う勇気だけ、持ってこい。
ヴァンは、鞄の紐をぎゅっと握った。
「……はい! いってきます!」
「おう。いってこい!」
バルドは、もう鍋の方へ向き直っていた。
扉を開けると、朝の冷たい空気が頬に触れた。一歩、外へ出る。背後で、扉が静かに閉まった。
ーーーー
石畳の道を歩く。パン屋から漂う甘い匂い。鍛冶屋から聞こえる槌の音。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音。見慣れた朝の街は、いつもと何も変わらなかった。
大通りを抜けると、その建物が見えてきた。
冒険者ギルド。
昨日と、同じ扉。
ヴァンは、その前に立った。扉の向こうからは、今日も大勢の声が聞こえてくる。
「おい、北の遺跡の新しい通路、調査隊が入るらしいぞ!」
「本当か!? 俺も参加してえな!」
「やめとけよ。お前、この前の依頼で足くじいただろ!」
笑い声が響いた。
(……北の遺跡)
昨日も聞いた話だ。崩れた壁の奥の階段。その先には、何があるんだろう。
(……見てみたいな)
けれど、次の瞬間。
「そういや、昨日の討伐依頼、三人も怪我したんだってよ」
「結構やられたな。魔物の数が、予想より多かったらしい」
ヴァンの指先が、冷たくなった。
当たり前だ。冒険には、危険がある。どれだけ準備をしても、思いどおりにならないことがある。
(……怖い)
心臓が、どくんと鳴った。昨日と同じだ。いや、昨日より怖いかもしれない。今日は、本当にこの扉を開けるつもりで来たのだから。
鞄から申請書を取り出す。何度も見返した、自分の名前。紙を持つ手が、小さく震えていた。
あと少し、手を伸ばせば届く距離なのに、足が動かない。
(……やっぱり、僕には)
そこまで考えて、ヴァンはぎゅっと目を閉じた。
浮かんできたのは、昨夜のエリシアの言葉だった。
『ヴァンさんが、本当はどうしたいのか。それだけは、忘れないでいてください』
本当は、どうしたいのか。そんなの、ずっと前から決まっている。
(……行きたい)
知らない場所へ。まだ誰も見たことのない景色の、その先へ。そして、いつか、もう一度会いたい人たちがいる。
ゆっくりと目を開け、鞄の中に手を入れた。指先に触れたのは、布に包まれたパン。まだ、少しだけ温かい。
『帰ってきたら、どうだったか聞かせろよ』
バルドの声が、耳の奥に蘇る。
ヴァンは、申請書を鞄にしまった。扉を見つめる。
(……大丈夫)
そう思おうとして、やめた。
(……大丈夫じゃない)
怖さは、何一つ消えていない。きっと、この扉を開けたあとも、消えはしない。
それでも。行きたいという気持ちだけは、昨日までよりも、ずっとはっきりしていた。
あと、一歩。
たった一歩、踏み出せばいい。
ヴァンは、ゆっくりと手を伸ばした。
震える指が、取っ手に触れる。
冷たい。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
息を吸う。
ゆっくりと、吐く。
そして。
(……行こう)
取っ手を握りしめ、ぐっと力を込める。
重い扉が、軋みながらゆっくりと開いていく。
隙間から、朝の光が差し込んだ。大勢の冒険者たちの声が、一気に耳へ飛び込んでくる。
ヴァンは、開いた扉の向こうを見つめた。
何度も、開けることのできなかった扉。
ヴァン・エンデリオンは、その扉を初めて自分の手で開いた。




