帰ってこられる場所
「そろそろ、失礼します」
エリシアが席を立った。
「宿を借りておりますので。遅くまで、ありがとうございました」
「おう。湖のことで何か耳に入ったら、すぐ知らせる」
バルドの言葉に丁寧に頭を下げて、エリシアはヴァンへ向き直った。
「ヴァンさん。おやすみなさい」
「お、おやすみなさい!」
扉へ向かう白いマントの背中を、ヴァンは思わず呼び止めていた。
「あのっ! また……来てくれますか?」
言ってから、顔が熱くなる。
エリシアは扉に手をかけたまま、少しだけ振り返った。
「……はい。また、伺います」
鐘が静かに鳴って、扉が閉まった。夜の街へ消えていく足音が、遠ざかっていく。
ーーーー
閉店後の片付けは、いつもより静かに進んだ。ヴァンは皿を洗い、バルドは鍋を磨く。水の音と、布の擦れる音だけが厨房に響いていた。
「……バルドさん」
「ん?」
「どうして、冒険者をやめたんですか?」
バルドの手が、一瞬だけ止まった。
「……いろいろあってな」
「いろいろ、ですか」
「長い話になる。今度、飯でも食いながら話してやるよ」
「……はい」
それ以上は聞かなかった。また、水の音だけが続く。
皿を一枚洗い終えたところで、ヴァンは手を止めた。
「バルドさん」
「今度はなんだ」
「僕が、もし冒険者になったら……」
泡だらけの皿を握ったまま、続ける。
「この店は、どうなるんでしょう。仕込みも、皿洗いも、常連の皆さんの相手も、バルドさん一人になっちゃうじゃないですか。六年間、ずっとお世話になってきたのに、何も返せてないのに、僕だけ好きなことをしに行くなんて……勝手ですよね」
バルドは、鍋を磨く手を止めなかった。
「お前、俺を何歳だと思ってんだ? まさか、一人で店も回せねえ、よぼよぼの爺さんに見えるか?」
「そ、そんなことないです!」
「だろ? これでも元ティアⅤだぞ。皿洗いくらい、一人でできらあ」
「それとこれとは違うじゃないですか!」
「はっはっは!」
豪快な笑い声が、厨房に響いた。ヴァンも、つられて笑いかけた。
けれど、バルドはふっと笑いを収めて、鍋へ視線を落とした。
「……まあ、お前みたいに、客の話に聞き入って料理を冷ます奴は、そうそう見つからねえだろうがな」
「うっ……」
「毎朝、裏庭で剣を振り回して、やかましいしな」
「す、すみません……」
「……ちっと、静かになるな」
ぽつりと、声が漏れた。
「え?」
聞き返すと、バルドは、はっとしたように目を逸らした。
「いや。皿が減って、洗い物が楽になるって話だ」
「……ひどいです」
「冗談だ」
バルドは、布で鍋を拭き直した。さっきと、同じところを。
ヴァンは、それを黙って見ていた。
「……あの」
少し迷ってから、口を開く。
「僕が冒険者になっても、ここに帰ってきていいですか?」
バルドは一瞬だけ目を丸くして、呆れたように笑った。
「何言ってんだ、お前」
鍋を棚へ戻して、ヴァンの方へ向き直る。
「お前が冒険者になったって、この店がなくなるわけじゃねぇぞ」
「…………」
「ここは、ここにある。お前がどこへ行こうが、俺は朝になれば鍋を火にかけるし、夜になれば酒を注ぐ。行きたいなら、行ってこい。帰ってきたら、また飯くらい食わせてやる」
いつもと変わらない、少し乱暴な声だった。
ヴァンの喉の奥が、熱くなった。けれど、まだ言わなければならないことが残っていた。
「……もしかしたら」
声が、かすれた。
「もしかしたら、帰ってこられないかもしれません。父さんと母さんみたいに」
言ってしまった。ずっと、口にできなかった言葉だった。
厨房の灯りが、ゆらりと揺れる。
バルドは、すぐには答えなかった。
「……そうだな」
静かな声だった。
「帰ってこられねえことも、ある」
ヴァンの肩が、小さく震えた。バルドはそれを見逃さなかったが、気休めは口にしなかった。
「だから、無茶だけはするな。勝てねえと思ったら、迷わず逃げろ。逃げるのは、恥じゃねえ」
「……はい」
「その上でだ」
バルドは、ヴァンの目をまっすぐに見た。
「冒険に出るのにも勇気がいる。だがな、帰ってくるのにも、勇気がいるんだ」
「帰ってくる……のに?」
「ああ。ぼろぼろになっても、失敗しても、何も見つけられなくても、『ただいま』って、この扉を開ける。それは、簡単なことじゃねえ」
少しだけ、口の端を上げる。
「だが、帰ってきていい場所があるんなら、人は案外、遠くまで行けるもんだ。どんなにすげえ場所を見つけたって、帰ってこなけりゃ、土産話もできねえだろ? お前がどこへ行って、何を見たのか。俺にも、聞かせてくれよ」
「……土産話」
「おう。ただいまって言う勇気だけ、持ってこい。おかえりは、俺が言ってやる」
ヴァンは、何も言えなかった。
六年前の朝、父は「いい子にしてろよ」と言って、母は、いつもと同じように手を振ってくれた。それが最後になるなんて、誰も思っていなかった。だから、怖かった。自分も同じように、帰れなくなるのが。
(でも――)
目の前のこの人は、「帰ってこい」と言ってくれている。出ていくことを止めるのではなく、帰ってくることを待っていてくれる。
「……約束します」
ヴァンは、ゆっくりと頷いた。
「絶対とは、言えません。でも、どんなに怖くても、ちゃんと帰ってこられるようにします」
「それでいい」
バルドは、大きな手で、ヴァンの頭をくしゃりとかき回した。ごつごつした、大きな手だった。出発の朝の父の手とは違う。けれど、なぜか、同じ重さがした。
「……明日」
ヴァンは、袖で目元をこすった。
「明日、もう一度、ギルドに行ってみます。怖いと思います。たぶん、今日と同じように。扉の前で、また止まっちゃうかもしれません」
「だろうな」
バルドは、止めも慰めもしなかった。ただ、ヴァンの言葉の続きを待っていた。
ヴァンは顔を上げた。
「……それでも、行ってみようと思います」
「……そうか」
バルドは、にやりと笑った。
「なら、朝飯はちゃんと食ってから行け。腹が減ってちゃ、扉も開かねえぞ」
「……はい!」
ヴァンも、泣き笑いのような顔で頷いた。
ーーーー
その夜、ヴァンが二階へ上がったあと。
バルドは、一人、厨房に残っていた。灯りを少しだけ落とす。ふと、棚の端に目をやった。小さな木のコップが一つ、置かれている。ヴァンが、十歳のときから使っているものだ。
バルドはそれを手に取って、しばらく眺めていた。それから、布で丁寧に拭いて、元の場所へ戻した。
「……でかくなりやがって」
誰にも聞こえない声が、静かな厨房に溶けていった。




