1-5
――生理的な嫌悪から咄嗟に目を背けた途端、周囲の音が消えた。
気付くと私の身体は職場のデスクの前にあった。パソコンのモニターには、作りかけのプレゼン資料が映されている。
『あ、神薙センパイ! おはようございます! 今日は早いんですね!』
快活な声が、左手から届けられた。
見ると、そこにはマイがいた。
ショートカットでボーイッシュな感じの、でもオシャレには非常に気を遣っている、少し落ち着きのない可愛い後輩だ。
彼女とはまだ夜を共にしていないけれど、もう少しでそうなりそうな段階にまでは至っていた。
そこに同じく後輩のランが割って入ってきて……そう、それで彼女も私に気がある事が分かったのだ。
ランは最初、キーボードもろくに扱えないような感じで、どうして此処に入職出来たのか疑問なくらいに何もできない子だったけれど、見る見るうちにここで必要なノウハウを得ていって、一年ちょっとでプロジェクトを任せられる立場にまで上り詰めた。
驚くくらいに飲み込みが早く、だけど謙虚であり、総じて淑やかな振舞いも、ちょっと身体が弱そうなところも魅力的で、私はすぐに彼女の方を選ぶことにした。
そんな彼女は結婚をしていたが子供がおらず、夫婦関係は完全に冷めきっている様子だった。浮気もされていたようだ。きっと、そのあてつけもあったんだと思う。
身体の相性が良かったのも相まって、私達は頻繁に一緒に過ごすようになった。
私にとって彼女はまさに都合のいい子で、享楽に溺れるにはうってつけの相手だったのだ。
だから、気付かなかった。
相手の事なんて、私は何も見ていなかった。
……いや、それは昔からか。
昔からずっと、私はアカリ以外ちゃんと見た事がなかった。或いは、そのアカリの事だって――
『…………似合っていますか? 私』
自信なさげな彼女の声が、頭の中から響く。
響くと同時に、私の目の前にランは現れた。
場所も変わっていて、此処は初めて彼女とデートをした時に待ち合わせた駅前だった。
「君は何を着たって、誰よりも似合っているよ」
これは、紛れもない本心だ。他の相手にだったらこんな安っぽい言葉、嘘でも口に出来ない。
それくらい、彼女はあらゆる装いに完璧に馴染んだ。化粧一つ衣服一つで、本当に別人に見えるくらいに変われるのだ。いっそ、特別な才能と捉えてもいいくらいに。
「では、行こうか」
私は笑顔を貼り付けて彼女と手をつなぎ、遊園地に足を運ぶ。
そういえば『恥ずかしながら学生時代はこういう場所とは無縁で』と、現実世界の彼女は言っていた気がする。
でも、その時、私は殆ど話を聞き流していて、高校時代に一度だけ行った遊園地での出来事を思い出していた。
その所為で、胸がムカムカして仕方がなかった。
そこに行くまで忘れていたのだ。悟られないように笑顔を貼り付けるので精いっぱいだった。
「私、気付いていたんですよ。あなたが、全然私の事を見ていなかったの」
寂しそうに、隣を歩く彼女が言った。
そうだろうとは思っていたから驚きはなかったけれど、心苦しさは増した。
「そんな顔をしないでください、傷つきはしませんでしたから。傷つく理由がありませんでしたから」
「……どうして?」
私には理解できなかった。
同じ立場なら、私はけして許せないだろうから。けして、許さなかったから。
『――お前さえいなければ、なんの問題もなかったのにっ!』
唐突に響いた怒声が、世界に大きな亀裂を走らせた。
程無くして彼女の掌の温度が消えて、自分の手の感覚も消える。
長い長いトンネルを潜るように、しばらく全てが真っ暗になって――気付けば、私は実家のリビングのソファーに腰かけていた。
視線の先にあるテレビの中に、シズカがいる。
真っ直ぐにこちらを見て、何かを喋っている。
聞こえない。
聞こえない。
聞きたくない。
だから、目を閉じる。
でも暗闇は訪れない。
そこにあったのは、痛みの光景。目を閉じていられないほどの苦しみと、押しつぶされる恐怖だけが、悍ましいほどにリアルだった。
慌てて目を開けると、私は遊園地の中に戻っていた。
……世界が広い。そう感じるのは、私の視点が低くなっていたからだ。シズカやランの姿も消えていた。
『――次は、どれに乗りましょうか?』
代わりに、傍らには父と母がいた。
私はずいぶんと小さな子供に戻っていて、この時まだシズカは生まれていなかった。
父は優しかった。
母はそんな父を誰よりも愛していた。
私は、二人が大好きだった。
だから、これは楽しい思い出だ。
5月12日、私の誕生日にあった家族最後の思い出。
ジェットコースターに乗って泣きべそをかいた母と、その頭を撫でる父の姿をよく覚えている。
あぁ、でも、今思えばそれは、とても、気持ちが悪くて……
父が、死んで、
本当に、
本当に、
気持ち悪く、なった。




