第六章「ノイズと消去と、ちょっとした接触」
魔力器官を使えば使うほど、頭のなかがうるさくなる——それを学園は「成長」と呼んでいる。じいちゃんも「ノイズ」と呼んでいた。使えば使うほど、コードとの同調が深まり、より大きな力が使えるようになる。それは事実だ。しかし同時に、頭のなかに流れ込む雑音の量も増える。
一等の学生たちは、それを当たり前だと思っている。
「頭が少しうるさい」のは「一等になった証拠」だと思っている。
二日前の演習場の一件で、エリスは大量の赤のコードを使った。
そのコストが、今になって出ていた。
「……うるさい」
スクラップ・ヤードの教室。エリスが額に手を当てて、珍しく机に肘をついていた。いつも背筋が伸びている彼女にしては、随分とくたびれた姿勢だ。
「どうした」
「頭の中がうるさいのよ。なんか、ずっと『動け』って言ってくる気がして」
「それはいつも?」
「……いつも、じゃないわ。朝、静寂室に行っても今日は弱かった。昨日あたりから特に強い」
「闘争の形を制す、って唱えるんだけど、効きが悪いのよ」
「演習場の件の後から?」
エリスが少し黙った。
「……多分」
俺は自分の机を見た。
演習場の一件のあと、エリスの頭のなかには「動け」と叫ぶノイズが残っている。ログに溜まったノイズが、リセットされずに溜まって、赤の「闘争」の衝動として表に出始めているのかもしれない。
「少し目を閉じてくれないか」
「え?」
「目を閉じてくれ」
エリスが訝しげに俺を見てから、目を閉じた。
俺は手を伸ばして、エリスの額に指先を軽く当てた。
「……なにしてんの」
「ちょっと待ってくれ」
「待つけど……」
指先から、ほんの少しだけ「断界」を流す。
局所に。ピンポイントに。
エリスの脳内のコードのログの、表面を薄く撫でるだけ。
蓄積した「闘争」の命令——「動け」——が、指先の黒に触れた瞬間、静かに薄まった。
完全には消せない。それをやるとエリスの器官を傷つける。
ただ、表層の一番うるさい部分だけ、少し静かにする。
「……あ」
エリスが息を吐いた。
「なんか……」
「どうだ」
「……静かになった。頭の中が」
「良かった」
「何をしたの」
「うるさい部分を少し削った」
「削った?」
「コードのログの表面だけ。根本的な解決じゃない。また溜まる」
エリスがゆっくり目を開けた。
指先が額から離れる瞬間、エリスの顔が一瞬だけ、素の表情になった気がした。戦乙女でもなく、一等でもなく、ただの十六歳の女の子の顔が。
「……ありがとう」
小さな声だった。
「別に」
「なんで言ってくれなかったの。こういうことができるって」
「言ったら毎日来るじゃないか」
「来るわ当たり前じゃない」
「それが嫌だったから」
エリスがじっと俺を見た。それから、少し目を細めて言った。
「来てもいいでしょ、別に。もうここに毎日来てるし」
「……まあ、それは」
「次からはすぐやって。頭がうるさいとき」
「七分かかる」
「七分も待てない! すぐやって!」
「分かった、三分にする」
「……まあ、三分なら」
エリスが椅子に深く座り直した。いつもの背筋の良い姿勢に戻っている。
「……顔色が良くなりましたね」シルヴィアが翠の瞳を細めた。「何をされたんですか?」
「少し」俺は言葉を選んだ。「コードの表面を薄めました」
「コードを……」シルヴィアが少し考えた。「それは、私の世界樹の回復とは仕組みが全然違いますね。私は欠けた部分を補いますが、あなたは」
「溜まった不要なものを削ります」
「……なるほど。それは私にも?」
「できる。必要があれば」
シルヴィアが微笑んだ。その微笑みに、いつもより少しだけ、人間的な何かが混じっていた気がした。
「お願いできますか。今日は世界樹の接続が特に賑やかで」
「後でいいか。一人ずつじゃないと、俺が疲れるから」
「もちろんです。優しいですね」
「優しくない。俺がダウンすると困るから」
「それが優しさだと思いますが」
「……」
俺は何も言えなかった。
アイリスが静かに本を閉じて言った。
「私も。後で」
「分かった」
ルシアが手を上げた。
「ボクも! 頭の演算が最近少しノイジーで。カウンター命令が混じってくる感じで」
「後で」
「先輩、大変じゃない? 全員分」
「時間があれば。ただし今日の昼寝は諦めてもらう」
「昼寝の話が出てきた」
ミアが控えめに手を上げた。
「ボクも……昨日あたりから、解析眼が過剰に起動するというか。止められない感じで」
「分かった、後で」
「ありがとう」
俺は額に手を当てた。
五人分。
それに加えて、昨日アルバの件もある。
「……思ったより仕事が増えた」
「五等の仕事じゃないわね」エリスがどこか嬉しそうに言った。
「俺の仕事じゃないのに俺がやってますね確かに」
「でもやってくれる」
「面倒くさいけど、やらないと後で面倒が増えるので」
エリスが、一瞬だけ笑った。
「相変わらず最悪な動機」
「合理的だ」
「合理的ね」
◆
問題が起きたのは、その日の午後、もう一つの形でだった。
スクラップ・ヤードのクラスに、学園の上層部から教官が来た。
教官は中年の男で、腕に学園事務局の徽章をつけていた。三等の魔力を持つ人物で、いつも威圧感を使って生徒たちを制御するタイプに見えた。
「先日の演習場の件で、確認がある」
俺はすぐに「面倒くさい」と思った。
「スクラップ・ヤードの生徒が先日の時間帯に東棟に立ち入ったことが記録されている。説明しろ」
「閉じ込められた学生を助けに行った」
「お前たちが? 助けた?」
「一等の方々と合流して対処した」
教官が眉を吊り上げた。
「一等と? お前たちが?」
「ああ」
「…………」
教官は教室の中を見回した。ソルをはじめとするクラスメイトたちが、俺を見た。
「詳しく説明しろ。一等のどの学生と、どういう経緯で」
「エリス・ヴェルミリオン様、アイリス・ラピス様、ルシア・アンバー様、シルヴィア・ヴィリディス様、ミア・カルネリア様と合流し、七人の学生を救出しました。バグの正体については私には分かりません。詳細は一等の方々が把握していると思います」
教官が黙った。
一等の名前が五人分、五等の落ちこぼれの口から淀みなく出てきたことが、処理しきれないようだった。
「……お前、名前は?」
「クロハ・レイ。五等。スクラップ・ヤード所属、無所属です」
「魔力出力は?」
「エラーです」
「エラーの生徒が、一等五名と行動して、バグを倒したと?」
「倒したのは一等の皆さんです。俺はその辺の石が当たっただけです」
教官の目が細くなった。
「……面白い言い方をするな」
「事実を言ってます」
教官は少し考えてから、俺を見た。
「その一等の学生たちから、先日の件について話を聞いているが、全員が口を揃えて『詳細は報告書に記載する』と言ってまとまった内容を出さない。ただ一点、全員が言及していたことがある」
「何でしょう」
「今後もスクラップ・ヤードの連中と合同演習の機会を増やしてほしい、と全員が言っていた。理由は、連携の可能性があるから。……五等の落ちこぼれと一等の精鋭が連携する可能性があるとは、どういう意味だと思う?」
「俺には分かりません」
「……」
教官はしばらく俺を見た。
何かを判断しようとしているようだった。
「お前、自分が普通だと思っているか?」
「普通だと思っています。五等のエラー品です」
「……そうか」
教官は帰った。
ソルが「すごいなクロハ」と言った。
「何が?」
「全部、嘘をつかずに丸く収めた」
「嘘はついていない」
「石が当たっただけ、ってのは?」
「……当たったのは事実だ」
「どういう軌道で当たったかは言ってないよな」
「聞かれなかった」
ソルは苦笑した。
「嘘をつかずに嘘をつくのが上手いな、お前」
「ありがとう」
「誉めてない」
◆
夕方。午後の授業が終わり、演習で閾値が上がった五人の補完を終えたころ、中央庭のベンチに一人で座っていた。
珍しく静かだった。
五人分の「削る」作業は、確かに消耗した。一人ひとりのログの表層に触れ、不要なノイズをピンポイントで薄める。それを繰り返すと、俺の断界の出力が少し下がる。
回復は早い。だが、確かに疲れる。
「クロハさん」
後ろから声がした。
アルバだった。昨日の廊下と同じように、ほとんど音を立てずに近づいてきた。
「……どうした」
「様子を見に来ました」
「俺の?」
「はい。遠くから魔力ログを観測していると、午後に出力の変動が大きかったので」
「……遠くから、観測できるのか」
「特待生の観測権限があります。詳細は読めません。エネルギーの動きだけ、です」
「なるほど」
アルバが俺の隣に立った。
「座ってもいいですか」
「どうぞ」
アルバが静かに隣に座った。夕暮れの光の中で、白銀の髪が橙に染まっていた。
「五人分、処理したんですか」
「まあな」
「疲れましたか」
「少し」
「……今日、廊下で炉麦包を半分いただきました」
「覚えてる」
「お返しができればと思い、次は何か持ってきます」
「いらない。別に」
「持ってきます」
「……好きにしろ。ありがとう」
二人でしばらく、夕暮れを見た。
「クロハさん」
「なんだ」
「私の感情のログは、今日、昨日より少し残っています」
「それはいい」
「あなたのそばにいると漂白が止まる——本当だったようです」
「そうか」
「不思議です」
「俺もだ」
アルバが俺を見た。灰白色の瞳に、夕日が反射していた。
「クロハさんは、なぜ助けるんですか」
「誰を?」
「先日の七人も、今日の五人も。あなたには義務も理由もないはず」
「面倒だから、早く終わらせたかっただけだ」
「……それが本当の理由ですか」
俺は少し間を置いた。
「半分は本当だ。あとの半分は」
「あとの半分は?」
「面倒だと思いながらも、放っておくと後で後悔するって分かってるから、やってる」
アルバが黙った。
長い沈黙の後、彼女は言った。
「……それを、感情と言います」
「そうか」
「あなたは感情で動いているのに、感情という言葉を使わない」
「使う必要を感じない」
「……なるほど」
アルバが前を向いた。
「私は、感情を使う必要を感じる前に、漂白されてしまうのかもしれません」
「それ、止めたいのか」
「……今日は、止まっています」
「なら、いい」
俺は空のパンの袋を見た。今日の分はもう食べた。
「明日も八分半でいいなら」
アルバが少し間を置いた。
「……九分、交渉します」
「八分四十五秒」
「……わかりました」
夕暮れが深くなっていった。
遠くで、エリスが「クロハ、いないの!?」と叫んでいた。
俺はその声を聞いて、ため息をついた。
「帰る」
「はい」
「また明日」
「ああ」
アルバが少し、目を細めた。
今度こそ、笑っていた気がした。




