第五章「白と、消えたはずの色の話」
第五章「白と、消えたはずの色の話」
翌朝、食堂での夕食が五分どころか三十分以上になっていたことは、一生口にしないことにした。
中央棟の一階、南翼棟の突き当たり。食堂は広かった。旧校舎の購買を百倍にしたような規模で、丸天井の大広間に長テーブルが並んでいる。入り口の銘板には「統合学院・中央食堂」とある。魔力器官を持たない一般市民はここに来ない——三等以上の適応者だけの空間だ。夕方の時間帯には各管理区の生徒が混在していて、コードの色が空中に混ざり合う。赤と青と黄と緑と橙と白。テーブルを挟んで隣の人間の顔が見えるのに、誰も互いに話しかけない。学園の縮図だ、と思った。騒がしいのに、孤立している。
炉麦包の購買より食堂の定食の方が美味しかったという事実は、俺が一生認めないことにする。
「昨日はありがとうございました」
廊下を歩いていると、シルヴィアが隣に来た。翠の瞳が朝の光に柔らかく輝いている。
「俺は何もしていないです」
「そう仰るとは思っていました。でも、あなたが指示を出してくれなければ、七人の学生を救えませんでした」
「みんなが動いたからです」
「……あなたは、ご自分のことを過小評価されますね」
「適切に評価しているつもりです」
シルヴィアがかすかに微笑んだ。
「そうですか。では私の評価をお伝えしても?」
「どうぞ」
「あなたは、世界の中心にいると思います」
「遠慮しますね、そういう立場は」
「残念ですが、望む望まないに関わらず、というのが私の見立てです」
そう言ってシルヴィアは食堂の方向へ歩いていった。
俺は彼女の背中を見送りながら、嫌な予感がした。
(なんか、こういう言い方をする人のそばにいると、本当に面倒なことになるんだよな)
◆
「東棟の演習場でバグが発生した」という情報は、学園内に思った以上の速度で広まった。
一等の学生たちが対処したこと、けが人が出なかったこと、そして原因は「解明中」であること。その三点が公式発表として出た。
俺の名前は一切出なかった。
それでいい。
問題は、学園の上層部が「バグ」の発生原因を調査し始めたということで、各棟の担当教官が生徒たちに事情聴取を始めていた。
スクラップ・ヤードには誰も来なかった。
当然だ。五等の落ちこぼれが情報を持っているはずがない。
俺にとっては平和だ。
「……先生来ないね」とソルが言った。
「来ない方がいい」
「俺たちが昨日そこにいたのに、調べないの変じゃないか?」
「変じゃない。俺たちは関係ないことになってる」
「クロハは関係あるじゃないか」
「俺は石が当たっただけです」
ソルは溜息をついた。
「……まあ、お前がそう言うなら」
「ソル、一つ聞いていいか」
「なに?」
「魔力のノイズ、今朝、感じたか」
ソルは少し黙った。
「……頭の中に何かが流れ込んでくる感じ、ってこと? ある。昨日より少し強かった気がする」
「それ、普段もあるか」
「ある。でも……みんなそういうもんだと思ってた。魔力器官が活動してる証拠って言われてたし」
「そうか」
俺は少し考えた。
じいちゃんが「ノイズ」と呼んでいたあれだ。魔力器官を使えば使うほど、頭のなかに何かが溜まっていく——学園は「成長」と言うけど、ソルも同じ感覚を持っている。たぶん同じ種類の話で、俺のそばにいると、そのログの雑音が弱まる。
スクラップ・ヤードのクラスメイトたちが、なんとなく「ここが居心地いい」と感じているのは、意識ではなく、魔力器官の反応かもしれない。
(俺が知らないうちに、周りの何かを薄めている)
副作用みたいなものだ。
だから一等の連中も引き寄せられてくる。彼女たちの方がうるさい分、俺のそばで静かになる感覚がはっきりする。
問題は、俺が意識して何かをしているわけではないことだ。
無意識の「断界」が、周囲のコードを薄めている——そういう類いの話だ。
◆
昼休みのあと。午後の授業が終わり、旧校舎はだいぶ静かになっていた。
「クロハさん」
声がした。
教室の後方の席で術式書を読んでいたアイリスが顔を上げた。
「廊下に誰かいます」
「先生ですか」
「違います。特待生の徽章。……白の方です」
俺は振り返った。
廊下のガラス窓。
白い。昨日、教室に来た人影——今日は一人で来る約束の時間だった。
肩までの白銀の髪。白を基調とした特別仕様の制服。廊下の斜めの光に埋もれると、人かどうか分かりにくい。だが、胸元の白い特等徽章だけははっきり見えた。
「……失礼します」
静かなノックの後、アルバ・ブランシェが扉を開けた。
教室の全員が一瞬で固まった。
ソルが「え」と言って立ち上がりかけた。他のクラスメイトたちも、椅子を引く音が止まった。
アルバは教室の入口に立って、俺を見た。
「約束の時間です。昨日は皆さんがいたので、今日は二人きりで」
「廊下だ」
「はい。廊下で」
俺は手に持っていた購買の炉麦包を見た。
午後三時前。次の授業までまだ時間がある。
「……五分でよければ」
「十分いただけますか」
「では七分半」
アルバが少し間を置いた。
「……七分半、了解しました」
◆
旧校舎の外廊下は、今の時間帯は人が来ない。
アルバは俺の向かいに立って、何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
七分半のうち、一分が経った。
「……」
アルバが口を開いた。
「昨日の演習場の件、見ていました。北棟の三階です。遠かったでしょう、と言いたいのでしょうが——私の目は少し良いので、十分見えました」
「……」
俺は彼女を見た。
灰白色の瞳に、感情の揺らぎがほとんどない。
「昨日、遠隔で漂白を試みたのも、私です。効きませんでした。だから、今日、近くで確認に来ました」
「あの教室で、もう一度言わなくていいのか」
「皆さんの前では、『消せない』以上のことは言えませんでした。二人きりなら、言えます」
「エラーです」
「測定するための区分そのものが、存在しない。当てはめる場所がないから、表示のしようがない——それだけです」アルバが一拍置いた。「古い記録に、その状態を指す呼び名が残っていました。断界、と。昨日、皆さんの前では、ここまでは言いませんでした」
「……詳しいな」
「私は世界樹のシステムログに一部アクセスできます。その中に、あなたに関する記述が、ありません」
「そういう人は他にも」
「いない」アルバが言い切った。「エラーの記録は多数あります。出力が低すぎる人、器官が機能不全の人。しかし、属性カテゴリそのものが登録されていないという状態は、あなた以外に存在しない」
俺は炉麦包を持ったまま、少し考えた。
「それで?」
「昔、同じ属性を持つ一族がいたという記録が、ログの最深部に、一行だけあります」
「……」
「ただし、それ以上のデータがありません。記録が一行存在するのに、内容が空白です。まるで、データが削除されたのではなく、書き換えられて消えたように」
「それが?」
「あなたはその一族の子孫ですか」
俺はしばらく沈黙した。
七分半のうち、三分が経過した。
「……じいちゃんから、少し聞いた話がある」
「教えていただけますか」
「俺にも詳しいことは分からない。ただ、じいちゃんは言っていた。『俺たちは消されたことになっている。だから隠れていろ』と」
アルバが少し目を細めた。
感情の変化ではない。何かを処理しているような、わずかな動作だった。
「消された、と」
「そう聞いている」
「……誰に消されたか、お聞きになりましたか」
「聞いていない。じいちゃんは最後まで教えてくれなかった」
アルバが黙った。
長い沈黙の後、彼女は言った。
「私の能力は、上書きです」アルバが言った。「現実に書き込まれている情報を、書き直す。壊れたものも、消えたものも、書き直せば元の形に戻せます。——昨日も、これを使いました。原因を、あなたを、上書きで塗りつぶせないか。試しました。効きませんでしたが」
「知ってる」
「それを使い続けると、私自身の情報も薄くなります」
「知ってる」
アルバが少し目を細めた。
今度は、感情に近い動作だったかもしれない。
「あなた、私について知っているんですか」
「有名な方なので。特待生がどういう能力を持つか、学園内では」
「……そうですか」
「ああ」
またしばらく沈黙が続いた。
七分半のうち、五分が経過した。
「一つだけ、確認させてください」アルバが言った。
「どうぞ」
「昨日、あなたが演習場で使った能力は、漂白とは逆の動きをしています。情報の存在そのものを拒絶していた」
「……そう見えましたか」
「そう見えました。私が上書きする側なら、あなたは――」
「断界です。接続を切るだけ。」
「……上書きとは、違う」
「違う」
アルバが俺を見た。
その灰白色の瞳に、微かな揺らぎが生まれた気がした。
「……あなたの一族について、まだ分からないことが多すぎます」
「知ってる」
「それを理解して、ここにいるんですか」
「分からない。俺はただ、昼寝ができる場所を探して、この学園に来た」
「……」
「でも、面倒なことに巻き込まれてるのは自覚しています」
アルバはしばらく俺を見てから、初めて目を逸らした。
「私は中立です。誰の派閥にも組しない」
「知ってる」
「ただ」
少し間があった。
「あなたのことだけは、中立のままでいられないかもしれません」
「なぜだ」
「あなたのそばにいると、漂白が止まる気がします」
俺は少し黙った。
「漂白が、止まる」
「私が能力を使うたびに、自分の感情のログが薄くなります。ずっとそうでした。でもあなたがいると、その進行が止まる。それはなぜか」
「……俺の近くにいると、コードのノイズが薄まるからでは?」
「それは聞いています。でも」
アルバが俺を見た。
「私の漂白はノイズではありません。これは私の能力の代償です。ノイズが薄まることとは別の話のはずです。それでも止まる」
「……それは、俺には分かりません」
「私にも分かりません。だから確認に来ました」
七分半のうち、ちょうど七分半が経過した。
俺は炉麦包を見た。まだ袋も開けていない。
「もう少し話しますか」
アルバが少し間を置いた。
「……いいんですか」
「俺の判断で言ってます」
「七分半を過ぎますが」
「目安です」
アルバはそれを聞いて、また少し沈黙した。
それから、ほんのわずかに、目が細くなった。
笑ったのかもしれない。
表情が動きすぎないせいで、確信が持てなかった。
「では」と彼女は言った。「もう少しだけ」
「ああ」
俺は炉麦包の袋を開けた。
半分食べてから、残りをアルバに差し出した。
「要りますか」
「……炉麦包、ですか」
「今朝の購買の最後の一個です」
アルバがそれを見た。しばらく見た後、ゆっくりと受け取った。
「初めて食べます」
「どうぞ」
二人で廊下で炉麦包を食べた。
特に何かが解決したわけではない。
ただ、学園の朝は静かで、遠くで生徒たちが移動する音がして、白い光が廊下に差し込んでいた。
「……美味しいですね」とアルバが言った。
「でしょう」
「不思議な味です。予測していた通りの味ではなかった」
「何を予測してたんですか」
「もっと単純な味かと」
「炉麦包を馬鹿にしてはいけません」
「馬鹿にしていません。予測を超えていた、という意味です」
「……そうですか」
アルバはもう一口食べた。
俺もそれを見ながら、残りを食べた。
次の時限の鐘が鳴った。
「行く」
「はい。ありがとうございました」
「また来てもいいですか」
「七分半なら」
アルバが少し間を置いた。
「……次は十分で交渉します」
「八分だ」
「九分」
「八分半」
「……了解」
アルバは廊下を戻っていった。
白い後ろ姿が、廊下の先で光に溶けるように消えた。
俺は空になった袋を丁寧に折りたたんだ。
じいちゃんのことを、少しだけ思い出した。
「上書きされた側の俺たちと、上書きした側は、どこかで繋がってるんだ」とじいちゃんは言っていた。「それが何を意味するか、お前が生きているうちに分かるかもしれない」
分かり始めているかもしれない。
(分かりたくはないが)
校庭の鐘が遠くで鳴った。
俺は教室に向かった。
◆
翌日の午後、廊下。
アルバはちょうど八分半前に現れた。秒単位で正確だった。俺はそれを特に言わなかった。
「では、始めます」
「どうぞ」
「まず、現在の私のログの状態を確認します。クロハさん、少し近づいてもいいですか」
「どのくらい」
「一メートル以内」
一歩近づいた。アルバが端末を開き、数値を確認する。しばらく黙っていた。
「……下がっています。近づくほど」
「それは分かった。で、俺の属性がログに存在しない理由は」
アルバが端末から目を上げた。
「正直に言います。分かりません」
「……来た意味は」
「分からない理由の方は、分かりました」
俺はしばらくそれを考えた。
「つまり?」
「学園のシステムは、コードを七種類に分類します。当てはまらないものは、消えたことにされる。でも、本当に消えているわけではありません」アルバが端末の画面を俺に向けた。「これが昨日のログです」
画面には、空白があった。数値の列の中に、完全に何もない一行。
「ここにあなたの痕跡があるはずです。でも記録されていない。記録を読む側の問題です。あなた自身に問題があるわけではない」
「それは俺には分かっていたことだが」
「……そうですね。失礼しました」
珍しく、アルバが少し止まった。
「もう一つあります。記録されないせいで、学園のシステムがあなたを何度も再スキャンしている。気づかないやり方で、その都度、小さな負荷がかかっています」
俺は少し考えた。
「消えるのか、それは」
「私が、書き換えられます」アルバが端末を操作しながら言った。「ただ、目立つ書き換え方をすると、別のところに気づかれます。今日は、気づかれない方でやります」
アルバの指が静かに動いた。画面に何かが走る。数秒後に止まった。
「完了です。今後、再スキャンは発生しません。負荷もなくなります」
「……何でそれを、俺のために使う」
アルバが端末を閉じた。そのまま、少しだけ間を置いた。
「昨日、炉麦包の匂いを初めて嗅ぎました。記録に残したいと思いました。旧校舎の匂いも、こちらに来て初めて知りました。隔離室にはない匂いです」
「それと俺の話に何の関係が」
「ここに来ると、私のログのノイズが減ります。それだけで十分でした」
淡々とした声だった。感情の輪郭が見えない。ただ、事実だけを言っている。
「——明日も来るのか」
「確認事項があれば、来ます。今日の処置の経過観察が必要なので、数日は来ます」
「経過観察が終わったら?」
「……終わってから考えます」
アルバは一礼して、廊下を歩き出した。足音がしなかった。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
「クロハさん」
「なんだ」
「炉麦包の、正式な入手先を教えてもらえますか。購買の棚の、どのあたりにありますか」
「旧校舎側の購買の、右端の棚。下から二段目」
「……記録しました」
それだけ言って、消えた。
白が去った廊下は、また静かになった。
俺は壁に背を預けて、空を見た。
八分半、ちょうどだった。
アルバの能力が分かりにくくてすいません
白の役目はどうしようもない場合の緊急停止装置の役割です(最終兵器)




