第四章「プチュン、および定時退勤の難しさ」
——その数十分前。
東棟の演習場。午後の魔獣抑制学——三等向け隔週実習——が終わった直後だった。
可搬型の抑制檻が三つ、壁際に並んでいる。担当教官がログを閉じながら言った。
「採点は終わり。残りは片付けと端末の再キャリブレーション。檻は二人ずつ外していい。順番厳守。抑制符が外れる前に結界を確認」
七人はうなずいた。一号から三号まで、甲虫型の教習個体は抑制符のまま動かなかった——変質度は低い個体だ。魔獣はコードを持たない。牙と本能だけ——三等向けの隔週実習では、それを前提に手順を刻む。
四号の檻だけ、端末の貼り替え中に抑制符の端が一センチほど剥がれた。
「あ——」
甲虫型が一歩だけ前に出た。甲殻の継ぎ目が、抑制符の端と擦れてかすかな音を立てた。
班長が後退し、術式を構えた。教官が先に踏み込んだ。
「止まれ。殺すな——」
緑の生徒が蔦縛、赤の生徒が床への細い熱帯——三等の定番連携だ。獣が滑り、倒れた。教官が抑制符を再固定し、結界が強化された。
「三十秒。採点対象外、事後記録のみ」
七人は青ざめたまま、四号檻を慎重に運び出した。演習場の中央付近——端末の設置位置——を通過した。
「……今の、床の数値、見えた?」
「端末、まだ更新してない」
「気のせいだろ。片付け続けて」
可搬檻の撤去が終わり、七人は測定端末のログを確認していた。
「……あ、端末の表示が——」
「なに?」
「色だけ、欠けてる」
一人が床の中央に近づいた。
「触らない方が——」
遅かった。
床の一画が、光を失った。七人の足元で、色だけが消えていく。
「な、何——」
空間が歪んだ。七人の視界が、演習場の壁ではなく、同じ空間の「内側」を見始めた。
影が、滲むように現れた。
最初は指先ほど。次に人型。魔力を吸い取りながら、輪郭だけ大きくなる。
「退避! 後ろへ——」
班長が叫んだ。しかし影が一歩、床の境界を越えた。触れた者の魔力が吸われ、足が動かなくなる。
「通信が——」
「通らない! この空間、外と繋がって——」
最後に見えたのは、影が七人を囲むように閉じていく、演習場の床だった。
——三十分後。
東棟の演習場は、静かだった。
静かすぎた。
演習後の片付けをしていたはずの七人の学生がいない。床に術式書が一冊落ちている。演習場の壁際、設置されていたはずの魔力測定端末が一台、ただの石板のように立っていた。画面が真っ暗だ。電源が落ちているのではなく――データが消えているように見えた。
「いないね」
ルシアが言った。
「でも、熱反応はある。七人分」
「どこに?」
「あそこ」
ルシアが指差した先。演習場の中央から少し外れたところ、床石の一画が、微かに光が違って見えた。光がある。光があるのに、見ていると目がずれる感じがする。
「……空間の歪みですね」アイリスが静かに言った。「私の侵食でも読めない。侵食しようとしても、この歪みだけ反応がない。空間ではなく、空間の定義が消えているような」
「意味わかる?」とルシアが俺に聞いた。
「なんとなく」
エリスが大剣を構えた。
「とにかく、あの中に閉じ込められてるなら助け出す。何かがいるなら倒す。それだけ」
「簡単に言いますね」
「物事はシンプルに考えた方が上手くいく」
「同意はしないけど」
ミアが大槌の先端で床を軽く叩いた。
「ボクの構造解析、あの歪みの外縁部だけは読める。境界線は存在してる。でも中が読めない。外から外壁を破れるかも」
「破ったら中の人が危なくない?」
「外壁だけ。慎重にやる」
シルヴィアが聖杖を掲げた。
「世界樹との接続は薄いですが、回復の準備はできています。負傷があれば対応します」
「よし」エリスが一歩踏み出した。
そのとき。
歪みが動いた。
演習場の中央、光が消えた場所から、何かが滲み出すように現れた。
色がない。形が定まらない。魔力の密度だけが高く、空間の定義を押しつぶしながら移動している。ルシアの演算端末が鋭い警告音を出した。
「……色がない」
エリスが大剣に赤の魔力を込めた。
「関係ない。燃やせば消える」
「待って、この手の存在は――」
エリスが踏み込んだ。
「――紅炎、起動」
短い。二語だけの省略詠唱。
エリスの足元に赤い魔法陣が瞬時に展開した。大きくはない——省略詠唱に対応した小さく単純な陣だ。それでも鮮烈な緋色に発光し、一瞬で消えた。代わりに大剣が燃え上がる。赤のコードが周囲の空気を歪ませるほどの熱量。真正面から、影のような存在に叩き込む。
炎が触れた。
触れた瞬間、炎が消えた。
爆発も衝撃もない。ただ消えた。エリスの大剣が触れた場所から、赤い魔力だけが吸い取られるように消滅した。
「な――」
エリスの顔が変わった。動揺ではない。
魔力が消えた場所から伝わってくるものが、問題だった。
「頭が……うるさい」
彼女の目が、一瞬だけ充血した。
「エリス!」ルシアが叫んだ。
コードを消費させられた瞬間、神のノイズが流れ込む隙ができる。それが分かった。あの影に魔力を吸われると、脳内のフィルターが剥げる。
アイリスが細剣を構えた。
「侵蝕波、展開」
声は低く、静かだった。発声すると同時に細剣の周囲に青白い魔法陣が輪のように広がり、水面の波紋のような紋様を描いて消えた。空間が歪む。細剣の軌跡に沿って侵食の波が走る。しかし影に触れた瞬間、同じように消えた。
「私も」アイリスの呼吸が乱れた。「頭の中に何かが流れ込んでくる……」
シルヴィアが聖杖で回復の光を送ろうとした。世界樹の接続ログからエネルギーを引き込もうとした。
影が一歩動いた。
それだけで、世界樹との接続が細くなった。
「接続が……減衰しています」シルヴィアの顔が初めて曇った。「あれは、魔力の帯域そのものを圧縮している。このままでは」
ミアが大槌を振り下ろした。物理的な衝撃を叩き込もうとした。
影は揺れた。
初めて、揺れた。
だが、その反動でミアの魔力器官が一瞬圧迫され、彼女がよろめいた。
「くそ、物理は効くけど術式が吸われる……」
全員が後退した。
影はゆっくりと動いていた。七人の学生が閉じ込められている空間に向かってではなく、俺たちに向かって。
「……」
俺はポケットの炉麦包を確認した。
まだある。
足元を見た。
演習場の床石の一角に、小さな破片が一つ。ミアの大槌が床を叩いた衝撃で飛んだ欠片だ。
拾い上げる。
「クロハ、何してんの!?」エリスが叫んだ。
「少し待ってろ」
影を見た。
色がない。
……俺に似ている、とも思った。
色を持つ者の魔力を使えば使うほど、向こうに有利になる。
「クロハ」アイリスが冷静に言った。「私たちの魔力は通じない。でも、あなたの……」
「分かってる」
俺は石の欠片を持ったまま、影に近づいた。
「ちょっと! 危ない!」とルシアが言った。
「大丈夫です。色が付かない」
「何が大丈夫なの、意味わかんない!」
「俺も、だから・・・」
影との距離が縮まった。
近くで見ると、形はもっと不定形だった。輪郭があるような、ないような。ただ密度だけが高い。何かが凝縮したような。
指先で石の欠片に触れた。
いつものように。
俺の「断界」を、一フレームだけ乗せた。
「……ピシッ」
弾いた。
石の欠片が影に触れた。
触れた瞬間、影の一部が震えた。
それだけじゃなかった。触れた場所が、一点だけ、ガラスのひびのように割れ目が入った。
「……え?」ルシアの声がした。「今の、効いてる」
効いている。
ただし、割れ目は塞がっていく。再生が速い。
次の石を拾おうとした瞬間。
影が、動いた。
今までと違う動き方だった。全体がゆっくり広がるのではなく、一部が鋭く伸びた。俺に向かって、まっすぐ。
(認識した、か)
石を弾いて傷をつける存在を、排除しようとしている。
腕のような形になった影が、俺の胴体を掴もうとした。
「クロハ!」エリスが叫んだ。
逃げる時間はなかった。
俺は右拳を握った。
石なし。手のひらではなく、拳に。
魔力を纏わせる。そこに、断界を瞬間的に乗せる。
影の腕が俺の腹に触れようとした瞬間、右の拳を真正面から叩き込んだ。
拒絶拳。鈍い衝撃。
影の腕が、砕けた。
触れた場所から、砂を崩すように、形が失われていく。腕全体が霧散するのに、三秒もかからなかった。
「……え」
ルシアの声がした。
「今、拳で殴った」
「そうだ」
「素手で殴った」
「そうだ」
「影を」
「そうだ」
「……何で今まで言わなかったの」
「石で十分だったので」
静寂が一秒あった。
「「「なんで!!」」」
三人の声が重なった。
「石の方が近づかなくていいから楽なんだ」
「それだけの理由で!?」
「それだけの理由で」
「もう一回」
俺はもう一度、足元の石を拾った。
今度は少し、強く。
「断界」を二フレーム乗せて弾く。
また割れ目が入る。また塞がる。
「速い」
タイミングの問題だ。割れ目が完全に閉じる前に、もう一度。それを繰り返して広げていく。しかし俺一人では速度が足りない。
「ミア」
「なに!」
「物理が効く、と言いましたよね」
「大槌の衝撃は通るけど魔力が吸われる」
「魔力を使わないで叩けるか」
「えっと……できなくはない。かなりパワーが落ちるけど」
「十分だ。俺が割れ目を作ったタイミングで、魔力なしで叩いてくれ」
「分かった!」
「アイリス」
「なんですか」
「割れ目が入った瞬間だけ、侵食を流して欲しい。ほんの一瞬でいい」
アイリスが少し考えた。
「……タイミングが合えば」
「合わせる」
エリスが大剣を持ったまま言った。
「私は?」
「応援」
「なんで!」
「赤は吸われやすいので」
「くっ……」
「シルヴィア先輩、閉じ込められた七人の位置がわかる?」
「はい。影が動くたびに確認してます」
「影の気が散った瞬間に、そちらに向かって」
「……分かりました」
ルシアが演算端末を構えた。
「先輩の石が当たるタイミング、ボクが計測して合図する」
「それができれば非常に助かる」
「任せて。先輩の行動は予測できないけど、石が当たった結果は計測できる。次の行動のベストタイミングは出せる」
「頼む」
影がまた動いた。
近い。
「今!」
ルシアが叫んだ。
石を弾く。割れ目が入る。
「今!」ミアが魔力なしで大槌を叩き込む。割れ目が広がる。
「今!」アイリスが細剣を差し込んだ。「侵蝕、穿て——エロード」
侵蝕穿。一瞬だけ青が割れ目に流れ込み、縁が鈍くなる。ミアの大槌が続く。
影が揺れた。
大きく。
「もう一回!」
同じことを三回繰り返した。
四回目で、影の中心部に、拳大の穴が空いた。
その直前、アイリスが細剣を地面に刺した。
「広げ、侵蝕——スペース・アシミレート」
空間同化。影の周囲数メートルに青の湿りが広がり、再生の速度が一段落ちた。減退した隙に、穴が開いた。
穴の向こうに、閉じ込められた七人の姿が見えた。気を失っているが、生きている。
「シルヴィア先輩!」
「はい!」
シルヴィアが穴に向けて聖杖を掲げる。世界樹の接続が瞬時に差し込まれ、七人を穴の外へと引き寄せる。
影が激しく揺れた。
穴を塞ごうとしている。
「まずい、塞がる!」とルシアが叫んだ。
七人のうち四人が出た。三人がまだ中にいる。
影が収縮し始めた。穴の縁が閉じていく。
「クロハ!」エリスが叫んだ。
俺は考えた。
石つぶてでは速度が足りない。
穴全体を、一度に広げる必要がある。
(……しゃあないな)
俺は右手を前に出した。
石つぶての「局所」じゃなくて。
手のひらから、そのまま直接。
「断界」を、もう少しだけ広げて。
影の表面全体に、一秒だけ「黒の力」を触れさせる。
手のひらが黒く滲んだ。
石の欠片を介さずに濃く、空間に触れると、世界の密度がわずかに下がる。俺がいる場所の物理法則が、わずかに薄くなる。それは良くない。
一秒だけ。
「―――」
言葉はなかった。
ただ手のひらが触れた瞬間、影の表面全体に亀裂が走った。
網の目のように広がる黒いひびが、影を分断する。
穴が広がる。残り三人が出る。
シルヴィアが全員を引き寄せた。
影が音もなく、ばらばらになった。
霧散した。
まるで最初からそこになかったように。ただ一つ残ったのは、静寂と、薄い電子音のような余韻。
「プチュン……」
ルシアが小声で言った。
「今、何かが、消えた」
「消えましたね」
「何が起きたの?」
「俺にも正確には分からない」
嘘だ。分かっている。
俺が「断界」を直接触れさせた瞬間、あの影が消えた。
悪用はできない。世界の法則が薄くなるから。局所に留めないといけない。
じいちゃんが言っていた。「俺たちの力は、消す道具じゃない。触れずに断れ。小さく使え。大きく使えば、繋いでいるものまで切れる」
「大丈夫か」とシルヴィアが俺の手を確認した。
「大丈夫だ」
「手が少し冷たいですが」
「少し負荷がかかったけど、大丈夫だ」
エリスが俺の前に立った。
表情が、少し、いつもと違った。
「……あなた、今」
「石が当たっただけ。たまたま急所に入った」
「それは最初から通じない」
「でも先生にはそう報告する」
エリスは黙った。
しばらく俺を見てから、溜息をついた。
「……とりあえず、七人は助かった」
「そうだな」
「あなたのおかげで」
「みんながいなければできなかった」
「それは……そうね」
アイリスが静かに俺の隣に来た。
「あなたが言った通りでした。連携すれば対処できました」
「連携の部分はみんなの判断だ」
「指示を出したのはあなたです」
「面倒くさかったので早く終わらせたかっただけだ」
「…………」
ミアが大槌を担ぎ直しながら言った。
「ボクの解析でも読めなかったのに、先輩だけが有効打を与えた。あれ、どういう仕組み?」
「俺にもよく分からない」
「じゃあ今度解析させて」
「やめて」
「なんで!」
「面倒くさいから」
「もう理由全部それじゃないか!」
ルシアが笑いながら端末を確認した。
「演算ログ残した。あの影が消えた瞬間の波形、興味深い。先輩の石と、大槌と、侵食の組み合わせ、もっと詳しく解析したい」
「ルシアもやめて」
「えー!」
シルヴィアが七人の学生に治癒を施しながら、俺の方を見た。
「……クロハさん」
「なんだ」
「ありがとう」
「炉麦包を食べ終わりたかっただけだ」
翠の瞳が、やわらかく細められた。
「それが理由でも、助かりました」
俺はポケットの炉麦包を取り出した。
半分、残っていた。
冷めていた。
「……帰っていいか」
「駄目!」エリスが叫んだ。「報告と事後処理と、先生への説明と――」
「全部任せる」
「なんで私が!」
「俺は五等だから。こういうのは一等の皆にお任せするのが筋だろ」
「それは……」エリスが言葉に詰まった。
「帰る。炉麦包、温め直したい」
「待って! 少しくらい付き合いなさいよ、今日くらいは」
俺は振り返った。
エリスが、珍しく、怒っているのか照れているのか分からない顔をしていた。
「今日くらいは、一緒に夕食でも食べましょう、と言いたかったわけ。スクラップ・ヤードの購買は閉まる時間が早いでしょ。たまには中央棟の食堂に行きなさいよ」
「……いらない」
「なんで!」
「面倒くさいから」
「あなたが今日ひとりで帰ったら、私が納得いかないから!」
「俺が帰りたいかどうかでは?」
「あなたのことより私の気持ちの問題!」
「……ずいぶん正直ですね」
エリスの顔が赤くなった。
「うるさい! とにかく、今日は食堂! それだけ!」
全員が俺を見た。
ルシアが「先輩の次の行動予測できないけど、一番面白い方向には行くと思う」と小声で言った。
俺はため息をついた。
「……炉麦包は持ち込めるか」
「持ち込めない!」
「じゃあ帰る」
「食堂に炉麦包より美味しいものがあるでしょ普通に!」
「炉麦包より美味しいものがあるかどうか、今の俺には判断できません」
「行ってみれば分かる!」
……まあ。
行ってみれば分かる、は一応の論拠だ。
「五分だけ」
「いくらでも!」
「五分だ。五分以上いたら帰る」
「分かった、分かったから!」
ソルに報告するために廊下に出ながら、俺は演習場の壁を一度振り返った。
影が消えた場所。
今は何もない。
ただ、床石に、細いひびが一本だけ残っていた。
俺が「断界」を直接触れさせた場所の跡だ。次の日には補修されるだろう。
(……一回こっきりにしたいんだが)
そうはいかない気がした。
だって世界は広くて、バグはたくさんある。そしてじいちゃんに言われた通り隠れていても、いつか誰かが見つけてくる。
「クロハ」
アイリスが隣に来た。
「さっきのあれ、本当に何も分からないんですか」
「さっきも言いましたが」
「嘘をつくのが下手ですね」
「そんなことないです」
「……」
アイリスは少し黙って、前を向いた。
「私は侵食する側なので、侵食されない存在に会うのは初めてです。怖いとは思わなかった」
「それは?」
「ただ、理解したいと思いました」
「なぜ」
「あなたがここにいることで、私の頭の中が静かになるから。その理由を、私自身の言葉で理解したい」
俺は少し歩いてから、答えた。
「分かったら教えてください。俺も自分のことがよく分かっていないので」
アイリスはそれを聞いて、わずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。表情の変化が小さすぎて分からなかった。
夕暮れが廊下の窓から差し込んでいた。
橙色の光が、五人の影を長く伸ばしていた。
俺はポケットの炉麦包を確認した。
食堂で何かを食べながら、でも五分で帰る。
それが今日の目標だった。




