第三章「五色の吹き溜まり」
合同演習から一週間ほど経った、昼休み。
俺はいつもの旧校舎裏庭で、河原から拾った石を壁に投げていた。
殴り合いはしたくない。だから石だ。非魔導の道具だけは許される——石が当たった瞬間、着弾点の魔力回路か、術式の接続を一フレーム遮断する。中庭で指先にやったことと同じことを、八メートル先からやる訓練。当たれば相手の手首が抜ける。外れれば、また拾う。
当たる。外れる。当たる。外れる。リズムは毎回違う。投げ方も角度も、俺の気分次第だ。
「――どけて。ボクはここの、構造を見に来ただけ」
背中から、素っ気ない声が落ちた。怒っているというより、面倒くさそうな声だ。
振り返ると、長めのボブカットの橙色の髪をした少女が仁王立ちしていた。作業用ゴーグルを頭に載せ、橙地に一つ星の徽章。大槌を片肩に担いでいる。制服の袖には、抑制棟に残る微かな油の匂いがついていた——午前の橙の接合部実習を終えた直後だろう。旧校舎の耐震確認——設備管理課の演習で、解体保留中の建物を数人ずつ割り当てられている——が、このあとに控えている、という話は聞いたことがあった。
「……誰」
「ミア・カルネリア。一年。橙」
「知らない」
「知らなくていい。ボクだって、あんたのこと知りに来たわけじゃない」
そう言ってミアは俺の横をすり抜け、旧校舎の外壁に端末を当て始めた。柱の継ぎ目、基礎のひび、雨染みの広がり方。職人の目で、数字より先に「形」を読んでいる。
俺は石を拾い直した。
パン、と軽い音。壁の古い漆喰が欠けた。
ミアの手が止まった。
「……今の、何」
「石」
「当たり前。投げ方がおかしい」
「……練習中」
「何の」
「殴られないための」
ミアは端末を閉じ、欠けた漆喰を見上げた。視線が壁を這う。橙の構造解析が、本人の意志より先に走り出したのが分かる。瞳孔がわずかに細まる。
「河原石の比重と、欠け方の深さが合わない。投げ手の腕力も、着弾角も、全部数値が……」
「解析、成功した?」
「失敗した」
ミアは短く答え、足元に転がった石を拾い上げた。河原のどこにでもある、灰色の小石だ。
端末の画面を覗き込む。一瞬。二瞬。
「……『不明』」
低く呟いた。悔しそうではなく、呆れたように。
「何それ」
「説明不能、って意味。ボクの解析眼で分類できない」
ミアは石を俺の足元に置き直した。大槌の柄を握り直し、一度だけ深く息を吐く。
「あなた、二年の特別支援でしょ。名前くらい聞いたことある。スクラップ・ヤードの」
「クロハ・レイ」
「知ってる。ボクに、あんたと話す理由はない」
そう言いながら、ミアは最後にもう一度壁の欠け目を見た。見るだけで、また解析が走っているのが分かった。
「……帰ったら、あの石だけ調べる。それ以外はボクの仕事じゃない」
大槌を肩に戻し、ミアは裏庭を出ていった。振り返らなかった。
(……変な子だ)
俺は次の石を投げた。当たった。
◆
その二日後、午前。
旧校舎の渡り廊下を、白銀の長髪の女学生が一度だけ立ち止まった。
緑地に一つ星——世界樹の紋章を胸にした、三年生だ。シルヴィア・ヴィリディス。名前は噂で聞いたことがある。緑の最上位。一年下の連中が「先輩」と呼ぶ側の人間で、俺を含めた二年の落ちこぼれとは、通常、視線すら交わさない距離にいるはずだ。
彼女の視線は、中庭ではなく、旧校舎の窓の向こう——裏庭の方角へ向いていた。石が壁に当たる音が、午前の静けさの中で二度だけ続いた。数秒。聖杖の柄を一握りして、再び歩き出す。中央棟へ戻る足取りだった。
俺はその背中を見ていなかった。裏庭で石を投げていたから。音の方は、聞こえていた。
ミアの独白
関係ない。そう決めた。
旧校舎の耐震確認は終わった。報告書に書くのは、漆喰の老朽化と基礎のひび。それだけだ。
午前の実習——接合部の課題、三分切った。それは問題ない。
あの石は——報告書に書けない。
河原の石なのに、欠け方が合わない。ボクの解析眼が『不明』を返した。本当によく分からない。一等の中で、本当に困るのはこういう時だけだ。
クロハ・レイ。二年の特別支援。名前は聞いたことがある。スクラップ・ヤードの。
ボクに、あんたと話す理由はない。決めた。
……でも、ポケットの中の石だけは、放課後まで握ったままだった。
◆
翌日、旧校舎の廊下。
ミアが端末を開いたまま立ち止まっている。ポケットから河原石を取り出し、もう一度解析を走らせていた。
「……やっぱり不明。同じやつ」
俺は通りかかっただけだ。何も言わず、教室の扉に手をかけた。
「あ、待って——二年の特別支援、クロハ・レイ、先輩だよね?」
「……覚えてたか」
「明日、また来る。解析が終わるまで」
「来なくていい」
「来る」
ミアは大槌を肩に戻して、橙の棟の方へ走り去った。振り返らなかった。裏庭の時と同じだった。
◆
ミアが走り去ってから、しばらく経った放課後。
旧校舎の裏庭で石を投げていると、遠くから急ぎ足の音が聞こえてきた。
「——待って! 先輩!」
ミアだった。走るには不向きな大槌を片肩に担いだまま、橙色の髪を乱して中庭の角を曲がってくる。息が少し上がっていた。
「……また来たのか」
「連絡端末が繋がらなかった。急ぎだから直接来た」
「急ぎって、何が」
ミアが立ち止まり、旧校舎の外壁を指差した。
「耐震確認の報告書、昨日出したんだけど——一か所、書き直す必要があって。あんたのいる教室、東の角の柱、やばい」
「やばい、というのは」
「ひびの深さが、昨日測った値と変わってた。一日で進行してる。午後の降雨で水が入ったかもしれない。大事にはならないと思うけど、念のため、今夜の補強を申請した。でも——今すぐ確認したい」
ミアが端末を開き、構造解析を走らせながら外壁に近づいた。東の角の柱の継ぎ目に指を当てて、数秒。眉が寄った。
「……やっぱり。昨日より三ミリ、ひびが進んでる」
「それで、どうなる」
「今の状態でいきなり何かあったら、角の天井が落ちる可能性がある。でも今すぐ崩れるわけじゃない。今夜の補強が入れば問題ない」
「じゃあ問題ないな」
「問題あるのは、今夜の補強が入るまでの間だ」
ミアが大槌の柄を握り直した。
「……補強が間に合わなかった場合の保険として、今、仮止めできる」
「あんたが?」
「一応、構造魔法の実習は一等評価だから」
ミアは外壁の前に立ち、ゴーグルを額から目元に下ろした。大槌を両手で構える。
「どいて」
「分かった」
一歩下がった。
ミアが大槌を柱の根元の一点に向ける。ゆっくりと、息を吐く。
「構造固定——起動」
短い詠唱とともに、大槌の平面から橙の魔力が柱の内部に流れ込んだ。外側からは分かりにくいが、ひびの形が変わる——亀裂の輪郭が細くなり、内側から固まっていく。三秒。五秒。ミアが大槌を引いた。
「仮止め、完了。本補強が入るまでは持つ」
端末で数値を確認してから、ゴーグルを額に戻す。
俺は改めて柱を見た。見た目には何も変わっていない。でも、内側が変わっている。
「……どこで覚えた」
「家。ボクの家、建て直しばっかりしてたから」
ミアが端末を閉じながら、ぼそりと言った。
「大槌は解体に使うもんだと思ってたけど、直すのにも使えると気づいて。それからずっと練習してる」
「へえ」
「別に聞いてほしかったわけじゃない」
「聞こえたから答えたまでだ」
ミアが鼻を鳴らした。大槌を肩に戻して、端末の補強申請画面を更新する。
「今夜、工事の人が来るから、立会人として残らないといけない。遅くなる」
「それは大変だな」
「別に。こういうのが好きだから」
ミアがそう言って、橙の棟の方へ歩き出した。今日は走らなかった。
「——あ、そうだ」
角を曲がりかけて、振り返った。
「あんたの石、解析できた」
「……本当に?」
「断界、ってやつ。分類不能だけど、現象としては記録した。解析終わったから、もう来ない」
「そうか」
「うん。もう来ない」
振り返らずに行った。
翌日、ミアはまた来た。
石の解析とは別の理由で、外壁の補強確認があるから、と言った。その次の日も、確認事項があると言って来た。
俺はそれについて、特に何も言わなかった。
◆
それから三日後。
その三日のあいだ、エリスは毎朝顔を出し、アイリスは窓際、ルシアは午後から居座るようになっていた。旧校舎の特別支援教室は、もう一人用の隠れ場所ではなくなりつつあった。
「先輩、これ使って」
ミア・カルネリアが目の前に小箱を差し出した。
「……何これ」
「先輩が毎日使ってる石つぶて。あの日拾ったやつ、不規則すぎて全部外れるかと思ったんだけど全部当たるんだよ。あの日は『不明』だったのに、もう一度走らせたら今度は『Erase』って出てさ。それで興味が出て来た。で、お近づきの印に。これは希少鉱石から削り出した、精度を上げた特製石つぶてセット」
「……いらない」
「なんで!」
「重い」
「世界最高峰の希少鉱石だよ!」
「だから重い。石はその辺の河原のやつで十分だ」
「ボクの技術への冒涜っ……!」
ミアは悔しそうに頭を抱えた。俺は足元の河原の石を一個拾い上げた。
「でもありがとう。材料は先に言ってもらえれば、もっと軽い希少石を選んだのに」
「それ、作り直してもいい?」
「そこだけは気にしなくていい」
「気になる! ボクは先輩のそれが気になるんだよ! 構造的に説明のつかないものは全部解析する、それがボクの美学!」
そう言いながらミアはずかずかと教室に入ってきて、空いている机を見回した。
「ここ、座っていいか」
「もう座ってるじゃないか」
「確認してる」
今更だ。俺はため息をついた。
スクラップ・ヤードに一等が四名——赤、青、黄、橙——。緑だけがまだ来ていない。あと一人で、色が揃ってしまう
――そういえば、緑の最上位はまだ来ていない、とエリスが言った時
「皆さん、賑やかですね」
廊下から声がした。
静かで、しかし芯の通った声。
白銀の長い髪。尖った耳。澄んだ翠色の瞳がやわらかく細められている。緑地に一つ星の徽章。加えて、世界樹の紋章。聖杖を腰に差したシルヴィア・ヴィリディスは、扉のところで軽く頭を下げた。
「場所をお借りしてもよろしいでしょうか。中央棟は少し騒がしくて」
「いらっしゃい」とソルが言った。
「待って俺が決めることじゃないから」
「構いませんよ」シルヴィアが微笑んだ。「クロハさん、少し頭が凝っていませんか。肩のあたりが固そうです。もしよろしければ」
「大丈夫だ」
「遠慮なさらず」
「本当に大丈夫だ」
「……そうですか」
シルヴィアはそれ以上言わず、窓際の席に優雅に座った。聖杖を立てかけて、懐から薄い本を取り出す。
緑が加わって、色が揃った、と俺は思った。
エリスが窓枠に片肘をつきながら腕を組んでいる。アイリスが俺の隣で本を読んでいる。ルシアが足をぶらぶらさせながら演算端末をいじっている。ミアが小声で「先輩の石の構造的可能性……」と独り言を呟きながらメモを書いている。シルヴィアが窓から差し込む光の中で読書をしている。
スクラップ・ヤードの窓際だけが、異様に華やかだった。
「……なんでみんな、ここにいるんですか」
俺が聞くと、全員が少し黙った。
エリスが最初に口を開いた。
「あなたのせいよ。私はあなたの力が気になって来てる。……ノイズが静かになるのは、おまけだけど」
神様の声。
エリスがそう呼んでいた、頭のなかでうるさく流れてくる何か。本人はおまけと言ったが、額を押さえる回数が減ったのは俺でも気づいていた。
アイリスが続けた。
「私も同じです。ログ上、あなたの半径三メートル以内でノイズ値が下がります。最初は検証のため来ました。今は、それだけです」
ルシアが端末を見せた。
「ボクは数値派。先輩の近くだと演算端末の警告音が減る。偶然じゃない、って分かったから、来てます」
ミアが肩をすくめた。
「ボクは構造確認のつもりだった。……静か、っていうのは後から気づいた。石の方が先に気になった」
シルヴィアが静かに頷いた。
「世界樹の接続ログも、ここだけは穏やかです。エリスさんが『緑の最上位はまだ来ていない』と言ったので……入る勇気が出ました」
じいちゃんの言い方にすれば「ノイズ」だ。神々が世界に流し込む命令——役割や衝動みたいな言葉が、上から流れ込んでくる。受け続けると、自分の意志と区別がつかなくなる。近くにいるだけで弱まる——石つぶての練習の合間、裏庭で何度も言わされていた。
(そうか。ああいうのが、俺のそばで静かになるのか)
「俺は何もしていない」
「それがおかしいのよ」とエリスが言った。
じいちゃんはよく言っていた。「目立つな。俺たちの血は、世界の理に馴染まない。近くにいるだけで、周りのノイズを消してしまう。消えるのは悪いことじゃないが、それに気づいた連中は必ず俺たちを利用しようとする」と。
だから隠れていた。
だから炉麦包を食べて昼寝をしていた。
だけど彼女たちは、俺が何もしなくても勝手に集まってきた。
「はぁ」
「なんで溜息つくの!」エリスが眉を吊り上げた。
「別に。……まあ、静かになるなら、それはそれで構わないですけど」
「構わない?」
「ここが静かであればあるほど、俺が昼寝しやすくなる。結果的に俺の利益になる」
エリスは少し間を置いてから、小さく笑った。
「……相変わらず最悪な動機ね」
「合理的だ」
「合理的ね、確かに」
それきり、教室に静寂が戻った。
シルヴィアが翠の瞳を細めて、微かに笑った。ミアがまた「希少鉱石の軽量化……」と呟いている。ルシアが端末を操作している。
ソルが俺の隣に来て、小声で言った。
「クロハ、なんかここ、学園で一番すごい場所になってないか?」
「なってる。どうしてこうなったんだ」
「知らないけど……俺は嫌じゃないよ。なんか、ここにいるとほっとする」
俺はソルを見た。
魔力の出力は弱いが、人を見る目がある。スクラップ・ヤードのクラスメイトたちは、みんなそういう連中だった。システムに評価されなかったが、それぞれに何かを持っていた。
「そうか」
俺はそう言って、炉麦包を出した。
今日はまだ半分残っていた。
◆
シルヴィアが来た翌日の昼。
教室には珍しく、エリス以外の四人が揃っていた。エリスは午前の実技評価が伸びたとかで、まだ戻っていない。
静かだった。
アイリスが本を読んでいる。ルシアが端末をいじっている。ミアが小声で何かをメモしている。シルヴィアが窓際で、目を閉じたまま聖杖を膝の上に置いていた。
俺は炉麦包を食べながら、珍しくこの静けさを享受していた。
「……シルヴィア先輩」
ルシアが端末から目を上げた。
「さっきから何してるんですか。目を閉じて」
「世界樹のログを確認しています」シルヴィアが静かに答えた。「定期的に接続の状態を確かめないといけないので。支障はありましたか?」
「ないけど……すごく集中してるなって」
「慣れているので。それほど集中はしていません」
シルヴィアが翠色の瞳を開いた。そのまま、ゆっくりと窓の外を見た。
「……外廊下を、誰かが行き来していますね」
「何人?」
「三人。二度、同じ経路で。目的があって動いている足音です」
ミアが顔を上げた。
「それ、ボクも気になってた。さっきから同じ廊下を通ってる。耐震確認の人間じゃない——作業音がしない」
「まあ、廊下を歩くくらいは——」
「旧校舎の外廊下を、昼休みに三人で同じ経路を繰り返す理由は少ないです」アイリスが本を閉じた。「探しているか、機を伺っているか」
俺は炉麦包を袋に戻した。
数秒後、廊下の足音が止まった。扉の前で止まっていた。
「——失礼します」
扉が開いた。
赤の派閥の三等が二人と、見覚えのない橙の徽章の生徒が一人。三人とも、こちらの人数を確認してから、わずかに動きが鈍った。
「……えっと、緑の最上位、シルヴィア・ヴィリディス先輩はここに?」
橙の生徒が言った。声に張りがなかった。
「います」シルヴィアが立ち上がった。「何でしょう」
「その……依頼がありまして。緑の回復術で、一件お願いしたいことが。うちの一年が実習で怪我をしたんですが、中央の医務室が満員で——」
シルヴィアの表情が変わらないまま、翠の瞳だけが三人を順番に見た。
「分かりました。案内してください」
「あ、ありがとうございます。ただ——」橙の生徒が、ちらりと俺の方を見た。「場所が少し離れているので、先輩お一人で来ていただければ」
一瞬、教室の空気が変わった。
「一人で、というのは」シルヴィアが聖杖を手に取りながら、穏やかな声で確認した。「皆さんがついてくると困る理由がありますか」
「いや、そういうわけじゃ——」
「ではついてきても問題はないですね」
三人が顔を見合わせた。シルヴィアはすでに扉の前に立っていた。
「クロハさん、少し出てきます。すぐ戻ります」
「……待ってくれ」
俺は立ち上がった。
「俺も行く。昼寝の場所を変えたい気分なだけだ」
「助かります」シルヴィアが微かに笑った。「でもクロハさん、購買は逆方向ですよ」
「……案内通りに動く気はないのか」
「はい。失礼します」
三人の間をすり抜けるように歩き出す。橙の生徒が慌てて先導した。
結果として、怪我をした一年生はちゃんといた。実習中に術式の暴発で腕に軽いやけどを負っていた。シルヴィアは膝をついて患部を確認し、聖杖を一度だけ当てた。緑の光が静かに広がって、赤みが引いていった。三分もかからなかった。
「大丈夫です。しみることはないですよ」
一年生が安堵した顔をした。
「ありがとうございます、シルヴィア先輩——あの、本当に遠くまで来てもらって、すみません」
「構いません」シルヴィアが立ち上がりながら言った。「呼んでもらえれば、どこでも行きます」
三等の二人は、俺が来た時点で早々に姿を消していた。
俺はその場に残ったシルヴィアを見た。
「——一人で来るように言ったのは?」
「さあ」シルヴィアが聖杖の先で床を軽く叩いた。「怪我人がいたので、理由を詰める必要もなかったです」
「でも俺がいなかったら一人で来たのか」
少しだけ間があった。
「……来たと思います。でも、来てくれて助かりました」
シルヴィアはそれだけ言って、廊下を歩き出した。
「もし炉麦包がご入り用でしたら、購買に寄って帰りましょうか」
「なんで場所を知ってる」
「外を通るたびに、匂いがするので」
俺はしばらく考えてから、隣を歩くことにした。
◆
異変が最初に現れたのは、その日の午後だった。
「ねぇ先輩、演習場の結界データ、さっきから変なんだけど」
ルシアが演算端末の画面を俺に見せてきた。
数字の羅列と、一部が赤くなっているエラーログ。ルシアの「確率演算」は、周囲の魔力の流れを数値化できる。それが今、学園の東棟の演習場の一角で、奇妙な数値を出していた。
「どう変なんですか」
「この一角、色が消えてる。端末でも、目でも——色だけが欠けてく。広がってる」
「演算の誤差では?」
「ないない。ボクの演算に誤差はない。ただし」
ルシアが真顔で続けた。
「なんで消えるのか、理由が分からない。それが一番おかしい」
アイリスが本を閉じた。
「私も感じています。午後の授業の途中から、東側の空間の流れが微妙にずれている。まるで何かが、空間の結合を少しずつ削いでいるように」
シルヴィアが翠眼を細めた。
「世界樹の接続ログを確認したのですが、東棟の一画だけデータが歯抜けになっています。本来ならありえない」
ミアが構造解析を走らせていたが、首を傾げた。
「ボクの解析でも読めない。構造的に存在しているはずなのに、データが戻ってこない」
エリスだけが表情を変えなかった。だが腕の組み方が少し変わっていた。
「……何かいる。バカにできない何かが」
「そうだね」ルシアが端末の数値を見つめた。「でもこれ、ヤバいのは、さっきより数値が小さくなってること。どんどん広がってる」
「広がってる、って」
「ゆっくりだけど、消えてる範囲が大きくなってる」
沈黙が落ちた。
「……先生に報告した方がいいのでは」とソルが言った。
俺も同じだった。
しかし問題は。
「今、東棟に向かった学生が七名います」とシルヴィアが言った。「魔獣抑制学の実習後、片付けに残った三等の班が。私の世界樹ログで位置は確認できますが、通信が返ってこない」
「……連絡が取れない?」
「はい。五分前から」
全員が俺を見た。
「なんで俺を見るんですか」
「あなた、小石で三等のバリアを貫通できるじゃない」とエリスが言った。
「あれは特殊な状況で――」
「行こう」
「行かなくていいです。先生に報告すれば――」
「先生に報告する前に七人が閉じ込められてる。分かってる?」
俺は炉麦包の残りを見た。
まだ食べ終わっていない。
「……はぁ」
袋に丁寧に折り返してポケットに突っ込んだ。
「行けばいいんですかね」
「そう」
「行ったら昼寝できますか」
「できる! たぶん!」
「たぶん、が気になりますが」
俺は立ち上がった。
窓の外、東棟の方向。
空気の質が、少し違う気がした。色がない。光があるのに、どこか薄い。まるで、この世界の解像度が一部だけ落ちているような。
「……ルシア、確認ですが、今の俺の次の行動の予測は?」
「エラー。先輩はやっぱり予測できない。でも」
ルシアが琥珀色の瞳でまっすぐ俺を見た。
「ボクの演算では、先輩がいるとあのエラーゾーンが消える確率が、世界で一番高い」
「その確率は?」
「計算できない。でも一番高い。それだけは分かる」
「……合理的じゃないですね、それ」
「合理的じゃなくていいこともある」
俺は少し考えて、頷いた。
「行ってくる」
「一緒に行く!」とエリスが大剣の柄に手をかけた。
「私も」とアイリスが細剣を取った。
「ボクも!」とルシアが二丁拳銃を抜いた。
「ボクも行く」とミアが大槌を担いだ。
「お供します」とシルヴィアが聖杖を手に取った。
ソルが後ろから声をかけた。
「クロハ、気をつけてな」
「君はここにいた方がいい」
「…………やっぱり巻き込まれてるじゃないか、お前」
苦笑まじりの声だった。
俺は答える代わりに、廊下に向かった。
スクラップ・ヤードの薄暗い廊下を、六人が走る。足音が重なる。
東棟の方角、今はまだ見えない場所で、世界の何かがほんの少しだけ、欠け始めていた。
シルヴィアの独白
ずっと、旧校舎の前を通り過ぎるだけだった。
あそこに人がいることは知っていた。毎回同じ場所に、同じように静かにいる。それが気になっていた。でも声をかけると何かが変わる気がして、踏み出せなかった。渡り廊下の角で立ち止まるのは、もう何日も続いていた。
今日、エリスさんの言葉を聞いて、入ってみた。
「そういえば、緑の最上位はまだ来ていない」——その声が、ドアの外まで聞こえた。それが合図になった。
クロハさんは、私が話しかけても急かさない。
肩の力を抜いてほしいと言われた時も、無理に触れようとしなかった。待ってくれる人が、ここにはいた。
頭の奥の、いつもより大きい声——「守れ」「動け」と囁くもの——が、あの教室にいる間、少しだけ遠かった。
誰かにそうしてもらったのが、いつぶりか思い出せない。
……また来よう。
ミアの独白
関係ない、と三回思った。
裏庭で会った日。石つぶてを渡した日。東棟に行くと言った日。
三回とも、嘘だった。
最初は構造確認だけのはずだった。河原石なのに欠け方が合わない。解析眼が『不明』を返した。説明不能は、ボクが一番嫌う言葉だ。
だから希少石のセットを作った。技術の問題なら、技術で潰す。それだけの話。
……なのに、渡したあとも消えなかった。
教室の隅で一等が四人。あそこだけ、頭の中の「壊せ」という衝動が、珍しく静かだった。神様の声、みたいなノイズが薄い、って先輩たちが言ってた。ボクも、分かった気がする。
関係ない、とまた思った。
「ボクも行く」って、口が先に動いた。
……まあいい。構造が欠けているなら、見に行く。それだけだ。
この世界の生徒は武器携帯が基本です(物騒)




