第二章「確率と炉麦包二個分
エリスに目をつけられてから二週間。
内訳はこうだ。最初の三日はエリスだけ。四日目にアイリス。一週目の終わり、木曜にルシアが端末で俺を捕まえ、金曜に中庭へ来た。二週目に入る頃には、もう「客が来る」のが日常になっていた。
スクラップ・ヤードに、客が来るようになった。
毎朝、エリスが怒鳴り込んでくる。一日一回、形式的な勧誘をして、断られて、「また来る」と言って帰る。断られても来る理由——本人は「条件が通るまで」としか言わないが、額を押さえる回数だけは、最初の週より増えている気がした。帰り際に毎回こちらを振り返るのだが、俺はいつも炉麦包を食べているか目を閉じているかのどちらかなので、特に何もない。
毎昼、アイリスが隣に座って本を読む。会話はほとんどない。ただいる。それだけだ。帰る時も「失礼しました」と一言だけ言って去る。
クラスメイトのソルは「クロハ、なんか毎日すごいことになってるけど大丈夫か?」と心配そうな顔をしている。
大丈夫じゃない。
全然、昼寝できていない。
「せめて中庭だけは聖域にしておきたいんだが」
俺が炉麦包を食べながら呟くと、隣に座ったアイリスが本から顔を上げた。
「エリスは正面から来ます。私は静かにいます。何が問題ですか」
「どちらも問題だ」
「……そうですか」
本に視線を戻す。
その隣でエリスが「またあんたも来てんのよ泥棒猫」と言い、アイリスが「あなたに言われる筋合いはない」と冷たく返す。毎日の光景になりつつあった。二人は互いに意識しているくせに協力するのも嫌そうで、中庭のベンチを挟んで絶妙な距離感を保っている。俺の炉麦包がちょうど二人の視線が交差する場所にある。最悪の位置だ。
俺は空を見上げた。
雲が白く、ゆっくりと流れていた。
本当に、どこで間違えたんだろう。
◆
その週の木曜、放課後。
旧校舎の渡り廊下の角で、黄色い徽章の一年生が端末を開いていた。ヘッドホン型の演算補助具をずらし、画面に赤文字が点滅している。
「……また、エラー?」
低い声だった。本人の独り言だと思った。通り過ぎようとして、端末の表示だけ目に入った。
`ERROR: 確率計算不能(Erase)`
対象名の欄に、俺の名前があった。
「……」
一年生が顔を上げ、こちらと目が合った。蜂蜜色のツインテール。琥珀色の瞳が一瞬、大きく見開かれた。
「あ、先輩! 今の見ました? ボクの演算、先輩だけ当たらなくて——」
「見てない」
「見ましたよね! ログに残ってます!」
「残すな」
「消しません! 明日、中庭で確認させて! ちょっとだけ!」
「来るな」
「来ます!」
端末のログに、`ルシア・アンバー`と名前が出ていた。一年生。二年の俺を「先輩」と呼ぶのは、学籍上そうだからだ。
一年生は端末を閉じて、中央棟の方へ走り去った。
(……また、面倒な子が)
◆
翌日の昼休み。
「あの、失礼しまーす!」
明るい声がした。
新しい声だ。赤でも青でもない。弾むような、屈託のない声。気持ちいいくらい何も深く考えていなさそうな声のトーンで、それがなぜか嫌な感じがしない。
俺は視線を入口に向けた。
蜂蜜色の、ふわっとした髪をツインテールにまとめた女子が、渡り廊下の手前で軽く手を挙げていた。首に大きなヘッドホン型の何かをかけている。端末だろうか。琥珀色の瞳がパチパチと輝いていて、そのキラキラした視線が俺を捉えて動かない。制服のシャツのボタンが一個開いていて、黄地に一つ星の徽章がのぞいている。一年生だ。
ルシア・アンバー。昨日、端末ログで名前は分かっている。黄の確率演算——よくわからないが、そういう話だけ。
「なんで来たんですか」
「昨日、端末で確認したでしょ。ボクの演算で予測できない人がいるって——今日、ちゃんと会いに来た!」
「帰ってください」
「えー? なんで?」
「面倒くさいから」
ルシアはむくれた顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「ボクね、このヘッドホン型の演算端末で、このエリアにいる人全員の次の行動を予測できるんだけど」
「へぇ」
「先輩だけ、予測したら『エラー:確率計算不能(Erase)』って出るんだよね」
「それが?」
「それが。だって、全員予測できるのに先輩だけ予測できないって、おかしくない? どんな行動も確率で動いてる。でも先輩は確率じゃ動いてない。じゃあ何で動いてるの?」
俺は炉麦包を一口食べた。
「炉麦包が買えるかどうかで動いてる」
「……嘘でしょ?」
「本当だ」
ルシアはしばらく黙って、俺を見た。それから笑い出した。
「先輩、面白い!」
「面白くない」
「ちょっとだけここにいていい? 邪魔しないから」
「邪魔してます、既に」
「ちょっとだけ!」
「はぁ」
俺は断るのが面倒くさくなって黙った。
ルシアは隣に転がり込んで、ヘッドホンをずらしながらスマートフォン型の端末を取り出した。何かを熱心に操作している。
「先輩が炉麦包を食べ終わる時間、予測してみたんだけど――全然当たんない。三秒後に食べると思ったら五秒後に食べるし、立ち上がると思ったら座ってるし」
「別にそれは……普通の行動では?」
「普通じゃない! ボクの演算って、基本的に誰でも当たるの。でも先輩だけ、まるで確率の波の外にいるみたいで」
俺は空のパンの袋を丁寧に折りたたんだ。
「あ、立ち上がった。次はゴミ箱に捨てに行く、予測は三歩で着く、三歩のうちに確認するタイミングは――」
「ああ」
ゴミ箱に捨ててベンチに戻った。
「……三秒で戻った。なんで? 七秒はかかると思ったのに」
「ゴミ箱が近かったから」
「近いのは知ってる! でもそれなら七秒が適切な――」
「六歩じゃなくて四歩で行けたんで」
「…………」
ルシアはしばらく沈黙した。
「先輩、歩幅が変動する?」
「そのときの気分で変わる」
「気分で歩幅が変わる人間を演算に組み込んでない」
「演算の問題では?」
「先輩の問題!」
中庭の入口で、遅れて金色の髪が現れた。
「また新しいのよ! ここ、私が先に見つけた場所なんだけど!」
エリスが腕を組んで仁王立ちする。アイリスは——ルシアが来る前から——いつものように隣で本を読んでいた。今日はエリスだけ遅刻だったらしい。
「そういうことよ。私もあいつの行動が全然読めなくて腹が立ってるんだから」
「エリスさんもですか?」
「一緒にするな! 私は戦術的な話をしてる!」
アイリスが静かに本をめくった。
「私も、侵食の軌跡を予測できない。彼はどこにも隙がない」
「隙はあります。昼寝してる時は無防備です」
「……それで大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない。だから誰にも見つからない場所で寝てる」
三人が同時に黙った。
絵として見ると不思議だ。学園の誰もが一目置く一等の面々が、スクラップ・ヤードの旧校舎の中庭で、炉麦包を食べている俺を取り囲んでいる。
俺は次の炉麦包を購買に買いに行こうかどうか考えた。カウンターの向こうは棚が一列だけで、菓子パンと炉麦包が並んでいる。中央棟の食堂まで行くより、ここから二往復の方が早い——理論上は。あと三十分で昼休みが終わる。一個じゃ少し足りない。しかし中断して購買に行くと、また新しい何かが起きる可能性がある。今日の昼休みはもう十分何かが起きた。
(やっぱり全然、昼寝できないな)
◆
ルシアが来てから二日目の昼。
「先輩、演算結果が出ました」
ルシアが端末を俺の目の前に突き出した。画面には数値の羅列が並んでいる。昨日より赤い文字が増えていた。
「……見ても分からんが」
「先輩が東の渡り廊下を通る確率、今日の午後で六十二パーセントだったんだけど」
「そうか」
「通らなかったでしょ」
「寄り道した」
「何に?」
「北の渡り廊下の窓から、空が良く見えたんで」
ルシアが端末を下ろして、真顔になった。
「……空が良く見えたから寄り道したの?」
「炉麦包食べながら歩くのにちょうど良かった」
「そういう変数、演算に入ってない」
「入れれば解決するのでは」
「入れようとしたけど、先輩の場合は『そのとき気分が良ければ寄り道する』と『気分が良くても寄り道しない場合もある』が同時に成立するの。矛盾してる」
「矛盾じゃない。そのときになってみないと分からないだけだ」
ルシアは深く息を吐いて、ベンチの隣に腰を下ろした。端末をまた操作し始める。
「……それ、ずっとやってて当たるようになるのか」
「先輩以外なら当たります」
ルシアが端末の画面を見ながら呟いた。表情は軽いが、目が真剣だった。
「黄の確率演算って、要は『次に何が起きるか』を数字にする力なんだけど——それが役に立つのは、誰かを守るときなんですよ。来る攻撃を事前に知ってれば、一歩引けばいい。逃げるタイミングを見極められれば、誰も傷つかなくて済む」
「……それで、俺だけ予測できないのが問題なのか」
「先輩が危ない目に遭うとき、ボクだけ対応できないじゃないですか」
俺は炉麦包の残りを一口かじった。
守られる想定で話されるのは、少し妙な感じがした。
「先輩は絡まれそうで絡まれないし、絡まれても何もしてないのに終わらせるから、なんか予測できなくても今のところ問題ないんだけど——でも演算できないって気持ち悪くって」
「気持ち悪いだけか」
「……それだけじゃないです」
ルシアが端末から目を上げた。琥珀色の瞳が、一瞬だけ真面目な色をした。
「当たらない演算は、間違ってる演算です。ボクの演算が間違ってるなら、直したい。先輩が『確率の外にいる』のか、ボクが『先輩に対応した演算をできていない』だけなのか——どっちかを確かめたい。それだけ」
「……なんで俺に言う」
「当事者に言うのが一番早いから」
俺は空を見た。
雲が、ゆっくりと流れていた。
その午後、演習場の外周廊下で、三等の数人が一年生の後輩を取り囲んでいる場面に出くわした。ルシアが隣にいた。
「——先輩、六秒後に左の一人が動きます。確率九十一パーセント」
小声だった。俺の耳だけに届くような、正確な音量で。
「……ほう」
「先輩が右に半歩動くだけで、動線がずれてそのまま解散します。あの人たち、目撃者が増えると動けなくなるタイプです。演算済みです」
俺は右に半歩動いた。
ルシアの言った通り、六秒後に左の一人が動きかけて——こちらに気づいて止まった。数秒の沈黙の後、三等の一団が「別にいいわ」と言いながら散っていった。後輩が小さく頭を下げて逃げていく。
「……当たったな」
「当たりました」ルシアが端末に結果を記録しながら言った。「今の人たちは演算通りでした。先輩だけが誤差です」
「それで、先輩だけ演算できない理由は分かったのか」
「まだです」
「じゃあ、明日も来るのか」
「来ます」
ルシアが端末を閉じ、ヘッドホンを直しながら振り返った。満足そうな顔だった。
「でも今日、一個だけ分かったこと、あります」
「何が」
「先輩は面倒くさそうにしてるけど、困ってる人を見て動かなかったことは、ボクが観測してる限り一回もないです。今日のも、たまたま通りかかったにしては早すぎました」
俺は炉麦包の袋を持ち直した。
「……それは演算の外の話だ」
「です。だから面白いんです」
ルシアは手を振りながら中央棟の方へ走っていった。
ヘッドホンが揺れていた。
◆
ルシアが来てから三日後、学園で「年次合同演習評価」の告知が出た。掲示板には正式名称の「ノード・ゼロ」が小さく添えられていた。
一等から三等の生徒が参加する、年に一度の実力測定だ。個人戦と対抗戦を組み合わせた形式で、成績によって次年度の等級が見直されることもある。学園内外への示しという意味もあるので、本番は来賓を招いた公開評価になる。
特別支援課程は参加対象外だ。当然だ。むしろ観客席に連れて行かれて「この子たちに刺激を与えましょう」という名目で、エリートたちの実技を見せられる羽目になるのだが、それはそれで悪くない。席に座ってうとうとできる。
問題は、前日に起きた。
「クロハ」
教室を出ようとした俺の後ろ首を、誰かが掴んだ。
振り返ると、エリスが仁王立ちしていた。後ろにアイリスとルシアもいる。
「なんだ」
「明日の合同演習、来賓席には各国の学園関係者も来る。私たち最上位グループも公式の場に出る。で、あなたも……まあ、スクラップ・ヤードの観客席に座るんでしょうけど」
「そうだな」
「そこで目撃されるのが許せない」
「何をですか」
「その有様が! 一人で直しに来いと言われても、こっちだって恥ずかしいのよ。だから連れてきた」
アイリスが静かに付け加えた。
「私も、同じ理由です。……エリスさんに引きずられてきましたが」
「ボクも! 演算部だけど美容部にも顔出してて!」ルシアが両手を挙げた。「髪のセット、ちょっとやらせて!」
「やらなくていい」
「えー!」
「髪セットしたら明日またヨレヨレに戻す手間が増える」
俺は自分を見下ろした。制服はヨレヨレだ。ネクタイが斜めになっている。前髪が眉にかかっている。
「どこかおかしいですか」
「全部!」と三人がほぼ同時に言った。
「戻さなければいいじゃない!」
結局、俺は押し切られた。
俺は石のように立ったまま、三方向から同時に作業を受けた。
エリスがネクタイを掴んで引っ張り、適切な長さと角度に締め直す。手つきが慣れている。軍人のように正確だ。アイリスが俺の肩と背中に手をかけて、制服の縫い目を丁寧に伸ばす。水が平らな面に広がるような、静かで無駄のない動作だ。ルシアが「先輩ちょっと目を閉じてて」と言いながら前髪を指で持ち上げ、ヘッドホンをずらして額を確認してから、何かスプレーのようなものを一瞬だけかけてかき上げてセットする。
「よし」
ルシアが一歩引いて、俺の顔を見た。
沈黙が落ちた。
「……え?」
ルシアの演算端末が何かを検知したような音を出した。
「な、なによ……急に」エリスが視線を逸らした。
アイリスは本を持ったまま固まっていた。
「……」
「何か?」
「いや」
エリスが咳払いをした。
「別に何でもない。ただ……制服はちゃんとした方がいい、それだけ」
「はぁ」
ルシアが小声でソルに言った。
「なんで先輩、あんな感じなのに普段あんな感じなの?」
「俺も最初そう思った」ソルがやはり小声で答えた。
「これが本来の顔ですよ。あんな感じが本来です」
俺は鏡を見た。
確かに、ちょっと違う顔をしていた。前髪が上がると目の輪郭がはっきりして、眠たげな黒い瞳が思ったより鋭く見える。
「……めんどくさい」
「どこが!」
「維持するのが。明日また崩れたら再セットしてもらうしかないじゃないか」
「…………それは」エリスが少し考えた。「私が毎朝やってあげる」
「来なくていい」
「来る」
「はぁ」
◆
合同演習当日。
練武場は来賓席ごと満員だった。正門の六本のアーチ——赤、青、黄、緑、橙、白——の向こう、来賓用の石畳が円形の演武台まで続いている。午前の光の中、赤と青と黄の励起魔力が空気を揺らしていた。コードが環境の魔力を染め上げる、あの揺らめきだ。
スクラップ・ヤードの観客席は端の方だ。日差しが当たり、座席の背もたれが古い。ソルが術式書を膝に載せて、小声で解説してくれた。
「個人戦だけだ。一等は全員出場、二等は選抜、三等は各派閥から代表三名。……俺たちは見物です」
「それでいい」
「……本当にそれでいいんですか」
「寝られる席があれば十分です」
「寝ないでください、来賓がいます」
個人戦の最初の組み合わせが発表された。
エリス・ヴェルミリオン 対 黄の二等代表、レオン・ストラトス。
レオンは雷を纏った剣士で、二等の中でも「動くと見えない」と噂されるタイプだ。開幕前、ルシアが端末を構えて小声で言った。
「レオン先輩対エリスさんの組み合わせ、演算ではエリスさんの勝率が六割二」
「残り四割は?」
「大剣の軌道が予測外になる瞬間。赤は確率より先に動く、って」
「……分かってるわ」エリスが大剣を構えた。
合図の鐘。
レオンが消えた。いや、動いた。電撃の身体強化で演武台の端から端まで一呼吸で横切る。細剣ではなく、雷を込めた短刀がエリスの喉元を狙う。
エリスは動かなかった。
大剣を横に振るだけだった。炎の帯が弧を描き、レオンの進路全体を焼き払う。雷は地面を這って逸れた。短刀は炎の壁に触れた瞬間、術式の接続が乱れ、レオンが一歩よろめく。
「紅炎、穿て——ペネトレート」
二語に続けて、足元の魔法陣が一瞬だけ緋色に光って消えた。大剣が燃え上がる——紅蓮穿。エリスが踏み込んだ。一点に赤魔力を集中した貫通斬。大剣がレオンの短刀と胸当てを同時に叩く。雷の残光が散って、レオンが演武台の外縁まで滑った。
(二語で発動か。速いな)
「勝者、エリス・ヴェルミリオン」
来賓席から拍手。カルディナの関係者が立ち上がった。
エリスは大剣を収め、赤い頬で息を整えた。一瞬だけ、目が宙を泳いだ。
「次、三組目」ソルが言った。「アイリスさん、対、緑の二等代表」
青と緑の戦いは、派手さより静けさだった。アイリスは細剣一振りで相手の足元の魔力密度を読み、空間の「湿り」を変えて相手の詠唱を遅らせる。緑の代表は回復と拘束で粘る。三度目、アイリスが細剣を盾の継ぎ目に刺した。
「侵蝕、穿て——エロード」
侵蝕穿。一点に青が刺さり、盾の内側に湿った層が被さる。術式の出力が減退し、層が剥がれたように崩れた。
「……青、怖いな」とソルが呟いた。
「怖くない。読みやすい」
「読みやすい?」
「水のように動く。動いた場所に隙がある」
ソルが俺を見た。「……クロハ、今の、戦闘の話?」
「観察の話だ」
個人戦が終わった。来賓席の拍手が、だんだん静かになる。
午後は三等代表の模擬戦。演武台に上がるのは、各派閥の代表だけだ。
鐘が一つ鳴った。
演武台の中央に、赤と青の三等代表が向き合っている。来賓席の説明員が模擬戦の採点基準——致死禁止、三分以内、術式防御の有効判定——を読み上げてから、審判が手を上げた。
「開始」
赤の側が先に動いた。剣を構え、喉の奥から詠唱を零す。
「紅炎を我が刃に宿し、闘争の形をここに——起動」
正規詠唱だ。午前のエリスと比べれば長い。足元に炎の魔法陣が広がり、六角形の紋様が描かれてから、じわっと消えていく。一呼吸分、演武台の空気が熱を帯びた。
剣先から炎の帯が伸びる。青の代表が両手を開き、水膜を展開して受け止めた。蒸気が走り、演武台の端まで白い靄が漂う。来賓席が小さくどよめいた。
「相性、悪いな」
ソルが小声で言った。
「わかる」
「赤が攻め続けると、周囲の魔力が熱で偏ります。青は水で均す——消耗戦の型です。三等の模擬戦は、だいたいこう始まります」
赤が一歩踏み込む。水膜が揺れ、青が後退する。青も詠唱に入った。
「静水、障壁を——起動」
足元の陣は赤より小さい。青みの紋様が水面のように広がり、炎の帯が一瞬途切れた。
赤が再び詠唱を続ける。青は距離を保ち、水膜を厚くする。演武台の端では、次の組み合わせを待つ黄の代表が端末を構えている——別区画の予選だ。今の模擬戦には関係ない。
「右の青、詠唱が遅れてる。左の赤、足元の魔力密度が上がりすぎ」
ソルが小声で言った。
「見てます」
「このまま消耗すると、青の方が先に足が止まります。……来た」
赤が踏み込んだ。炎の帯を横に振り、水膜の端を削る。青が後退しながら障壁を張り直すが、一拍遅れた。赤の剣先が青の肩当てに触れた——深くは入っていない。模擬刃だ。
審判が手を上げた。
「有効! 制圧、赤の三等代表——二分十八秒」
来賓席から拍手。赤と青が距離を取り、礼を交わした。派手さはない。型どおりの勝敗だ。
「……堅いな」
「三等の模擬戦ですから。来賓が見てますから、派手にやります、と言いますが、実際はこういう型が多いです」
俺は頷いた。午前の個人戦の方が、ずっと速かった。模擬戦はあと数組続いた。型どおりの対人戦ばかり——堅実な勝敗の連続だった。
夕方、解散の鐘。
エリスが観客席の後ろに来た。アイリスとルシアも。
「帰るわよ」
「俺はここから近い」
「一緒に帰る」
「なぜですか」
「……別に。今日、近くにいた方が静かだから」
ルシアが端末を見て、何かを記録していた。
ただ、スクラップ・ヤードの観客席の後ろで、「クロハのとこにいた一等の子が三人いた」という噂が学園中に広まった。それについて俺は何も言えることがなかった。
事実だったから。




