第一章「五等(エラー)と炉麦包
この世界は、神々が作った箱庭だ。
六つの色——赤、青、黄、緑、橙、白——に分類された人間たちが、自分が駒だと知らずに生きている。神々は上から眺めて、今日も管理する。赤が燃え、青が流れ、緑が茂り、黄が弾ける。整然と、計算通りに。
ただ一つだけ、計算に入らないものがあった。
色なし。測定不能。黒い余白——断界。あらゆる力の繋がりを断ち切る能力。神々の管理が届かない、唯一の存在。
神々はそれをエラーと判定した。
理解できないものは、存在しないことにする。
——それが、最大の誤りだった。
そのエラーは今日も旧校舎の端で、炉麦包をかじりながら昼寝をしている。
この世界には魔力がある。人の中に「コード」——魔法の色——が宿るようになって、二百年が経つ。赤なら炎、青なら水。コードの色が使える魔法を決める。コードなしでは魔法使いになれない。国はそれで人間を序列づけ、兵器にする。
俺はその序列の底——五等エラー——に分類された。
―――――― 一年前。入学検査の日。
正門の石造アーチは六本。赤、青、黄、緑、橙、白——きれいに並んでいるが、どこにも黒はない。植え込みの奥に、誰も見向きもしない古い木造の校舎があった。あとで知る。旧校舎だ。
大広間では試験官が決まり文句を読んでいた。魔力を燃料、コードを設計図。詠唱で術式、足元に陣——水晶のあと、実技で陣を見せる段階まであるはずだった。俺は端の席で炉麦包を食べ、半分聞き流した。
窓の外では赤や青の魔力が揺らめいていた。自分の色を誇る受験者ばかりだ。
名前を呼ばれ、水晶に手をかざす。一等から五等まで測る仕組み。測定不能は想定外のはずだ。
試験官が首を傾げ、隣と顔を見合わせ、三人目まで呼ばれた。
「魔力器官の反応は……あるんですが、色が分類できなくて。ルール上、五等に分類させていただきます」
心の底からほっとした。五等。これ以上下はない。完璧だ。
「特別支援課程への配属ですが……嫌じゃないですか?」
「全然。俺は普通じゃないんで」
特別支援課程——書類の上では「能力開発のための支援環境」。実態は旧校舎の端に押し込まれた、人目につかない教室。在籍は十人足らず。教官は週一で顔を出すだけ。「支援」の中身は放置だ。
生徒たちは蔑称をつけた。スクラップ・ヤード。廃材置き場。俺はその呼び名の方が好きだった。正直だから。
初日、裏庭に雑草が伸び、チャイムも届きにくい。翌日から、俺は石つぶての練習を始めた。「触れずに断て」「小さく使え」——じいちゃんに何度も言わされた言葉だけだった。
(……いい場所だ)
◆
――――――入学から一年。学籍上は二年目。
石つぶて、昼寝、炉麦包。派閥にも、誰にも、首を突っ込まなかった。静かな一年だった。
クロハ・レイ、十六。五等エラー。スクラップ・ヤード。徽章は黒地に五つ星——どの管理区の色でもない。俺は気に入っている。
信条は一つ。「目立たず、関わらず、定時退勤」。好きなのは昼寝と炉麦包。目標は、この学園を無事に卒業して、小さな町で静かに暮らすこと。
旧校舎裏の中庭。一階角の購買は六箇所あるうち最小だが、炉麦包がある。甘い匂いが袋から漏れている。中央広場は誰かの励起魔力が肌をかすめてうるさい。ここは人が来ない。止まった噴水と、朽ちかけたベンチが一枚。昼寝にちょうどいい。
「……うまい」
今日も平和だ——そう思った直後だった。
炉麦包を半分まで食べ、袋を膝の上に置いて、俺は目を閉じかけた。
「おい、そこのスクラップ。そんなとこでのんびりしてんじゃねぇよ」
半目を開ける。胸元に三つ星——三等。赤い励起魔力を纏った三人。コードが同時に微励起して、空気がわずかに重くなる。旧校舎の中庭をたむろしている連中だ。把握できた。興味はない。
問題は背後のソル・ヴァン。中央棟三階の図書館——派閥の端を越えた中立地帯——から借りた術式書を何冊か抱えていた。今、それが地面にばらまかれていた。
「スクラップが術式書なんか読んでどうすんの。笑えるんだけど」
三等の一人が言いながら、足で一冊を踏んだ。
ソルは言い返せない。出力の薄い者が三等に逆らえるわけがない。
助けに行くのは面倒だ。揉め事になれば目立つ。離れたい——
「ちょ、それ借り物で、弁償できないから踏まないで……!」ソルが言った。
バシャッ。
踏まれた。
「はぁ」
俺はため息をついた。
なぜ俺の昼寝の時間は、いつもこういうことで邪魔されるのか。
足元を見た。
小指ほどの石ころが一つ、転がっていた。重心の偏りがなく、表面がなめらかで投擲に向いている。
俺はそれをひょいと拾い上げ、三等の男子の手首を確認した。術式書を掴んでいる右手首。魔力回路が通っている部位だ。距離は八メートル。
問題ない。
「……ピシッ」
指で弾いた。
音は小さかった。
結果は、そうでもなかった。
「っ!?」
三等の男子が手首を押さえて飛び退いた。勝手に指先の力が抜けて、術式書がコトリと落ちる。
「な、なんだ!?」
「え、なに今の?!」
俺は炉麦包の袋を持ち直し、目を閉じた。
別に大したことじゃない。手首の魔力回路に、じいちゃんが「黒の力」と呼んだ拒絶——一族の記録では断界——を一フレーム載せただけだ。魔法ではない。痛くもない。力みが途切れる。石は「ただの石」に見えるから距離を稼げる——石つぶては拒絶の延長だ。使いこなす方が難しい。
「……お前、今なんかしたか?」
三等の男が俺の方を向いた。
俺は欠伸をした。目を開けて、三等の男を見た。表情が困惑で固まっている。自分に何が起きたのか、分かっていない顔だ。
「何もしてない。石が偶然当たっただけだろ」
「偶然って距離が――」
「風もあったし」
「風なんか――」
「ない? じゃあ俺の見間違い。あったんだよ、風が」
じっと見てくる三等に、俺は無表情を返した。五等の落ちこぼれが精密な魔力操作をするはずがない。そういう先入観が、彼らに疑いを晴らさせた。揺らめいていた赤みのオーラがだんだん収まっていく。無駄な状況だと判断した、ということだろう。
捨て台詞を残して去っていく三等の背中を見送ってから、ソルが術式書を拾い集めながら俺の方を見た。
「……ありがとな、クロハ」
「何もしてない」
「そうかよ」
笑いを堪えているような声だった。本の傷み具合を確認しながら、丁寧に積み重ねていく。いくつかはページが歪んでいたが、致命的な破損はなさそうだった。
「でも助かった。図書館の奥、術式書の棚——中立地帯だから派閥関係なく使える——で一緒に論文の解釈を読んでる知り合いに借りた本だったから、弁償できなくて困るところだった」
「ソル、また知りもしない上等生に借りてんのか」
「知りもしないってほどじゃない。名前までは聞いてない。術式論文の解釈を一緒に読んでるだけだ。出力が五等だからって理論の話くらい平等だ、って向こうが言うんだ。好意で貸してくれてんだ。解釈が独特で面白くて――」
「へぇ」
そこで俺は会話を打ち切って、炉麦包の残りを食べ始めた。
人間関係は複雑になる前に切り上げるのが吉だ。ソルは人懐っこすぎるが、それは俺の問題ではない。
そう思っていたのに。
石一つで三等の手首を止めた話なら、半日も持たない。旧校舎の渡り廊下の向こうに、赤い気配がまだ残っていた。
「ねえ」
別の声がした。
俺は視線だけを動かした。
旧校舎の渡り廊下の影から、一人の女子が歩いてくるところだった。
金髪。腰まで燃えるような長さの、深紅の瞳。胸元は星が一つ——この学園では最上位の一等。赤みを帯びた励起魔力が中庭の温度を上げている。
エリス・ヴェルミリオン。二年。赤の管理区カルディナからの留学生で、最上位の噂は聞いていた。名前の持ち主が旧校舎に来た時点で、異常事態だ。美しいより先に、「危険だ」と分かった。
俺が日々の生活で気を付けていること、その一つに「そういうトップの連中の目に止まらないこと」というのがある。
つまり今、最悪の事態が起きている。
「……今、何したの?」
静かな声だった。しかし有無を言わさぬ力がある。問うているが、答えを選ばせてくれる余地はない。そういう質問だ。
「何も」
「石一つで三等の術式防御を貫通して、手首の魔力回路を狙い打ちした。距離は八メートルはあった。偶然では絶対にない」
俺は内心で舌打ちした。
目が良い。それだけじゃない。魔力回路が狙われていたことを見抜いているということは、解析能力まである。一等の中でも特別な実力を持つ者だけが持つ、戦場での観察眼だ。厄介な種類の人間と目が合った、と思った。
「風が――」
「風はなかった」
断言。
俺は炉麦包を袋に丁寧に戻した。
「……あなた、あの石に何かを乗せた。私には感知できなかったけど、確かに何かがあった。赤でも青でも黄でも緑でも橙でもない――私が今まで見たことのない何かが」
「エラーですよ。検査でそう出てる」
「エラーが存在しないってことと、測定できないってことは、違う」
…………。
俺は黙った。
鋭すぎる。これだから最上位グループは面倒くさい。
エリスが一瞬、額の生え際に指を当てた。本人は気づいていない素振りだったが、石のあとだけ、中の何かが静まった、という顔をしていた。
「……試したいことがある。私の派閥に——いや、待って。あなたのそばにいると、頭の中のうるさい声が小さくなる。今、確かにそうだった。だから来なさい。あなたのその能力を、私の側で使わせて」
「行かない」
「話を最後まで――」
「行かない」
「っ……なんで!」
「面倒くさいから」
エリスの眉が吊り上がった。赤い瞳に「信じられない」という感情が溢れた。
「お前、今自分が何を断ってるか分かってる? 赤の派閥の最上位グループへの誘いよ? スクラップ・ヤードの五等が――」
「俺はスクラップ・ヤードの居心地が好きなんで」
「…………は?」
「静かだし、授業少ないし、購買近いし。本当に最高ですよ、あそこ」
エリスはしばらく俺を見つめていた。
言葉が出てこないようだった。
俺は炉麦包を再び開封した。
「……名前は?」
「クロハ・レイ」
「覚えた」
「覚えなくていい」
「覚えた」
もう一度言って、彼女は踵を返した。金色の髪が揺れる。赤く励起した魔力が揺らめく。
空気の温度が、じわじわと元に戻っていく。
俺はその背中を見送りながら、炉麦包を一口齧った。
冷めていた。
炒め麦の熱が完全に抜けている。最悪だ。炉麦包は温かいうちに食べなければ意味がない。これは人生の教訓の一つだと、じいちゃんがそう言っていた。
「…………はぁ」
目立ちたくなかったのに。
空は青く晴れていて、何の答えも返さなかった。
ソルがいつの間にかベンチの隣に腰を下ろしていた。
「……エリス・ヴェルミリオン、本気で口説きに来たな」
「口説きじゃない。勧誘だ」
「同じじゃん」
「違う」
「どっちにしても、断ったの?」
「断った」
ソルはしばらく黙った。俺は冷めた炉麦包の残りを噛んだ。
「……お前、すごいな」
「何が」
「何が、じゃないだろ。この学園で一番面倒くさい種類の人間に目をつけられて、平然としてる」
「平然じゃない。非常に困ってる」
「顔に出てない」
「そういう顔だ、俺の」
ソルは小さく笑った。それ以上は何も言わなかった。
それがありがたかった。
◆
翌朝。
俺が旧校舎の特別支援課程の教室に入ると、クラスメイトたちが一様に入口の方を向いていた。
嫌な予感がした。
「…………」
振り返ると、廊下に金色の髪がいた。
「見つけたわ、クロハ・レイ」
エリス・ヴェルミリオンが、腕を組んで仁王立ちしていた。
「……なんの用だ」
「勧誘しに来た。昨日は突然だったから、今日は正式に。条件は――」
「一等の寮は固定席があって自由に動けないですよね?」
「え? 住居の話? 急に」
「俺、昼休みにここの中庭で寝るのが習慣なんだ。それが守られるなら聞く。守られないなら聞かない」
「…………お前、本気で言ってる?」
「本気だ」
エリスは額に手を当てた。
「なんで入学したの、この学園に」
「器官持ちは社会に放置できないからって通知が来て」
「自分の意志は?」
「スクラップ・ヤードが最高の隠れ場所だと気づいた。来て良かったと思ってる」
「意味が分からない……」
呟くような声だった。しかしその赤い瞳に、微かな何かが混じっていることに俺は気づいた。怒りや困惑とは、少し違うもの。
なんだろうと思ったが、考えるのが面倒くさかったので放置した。
「とりあえず今日のところは帰ってくれ。授業始まるんで」
「スクラップ・ヤードに授業があるの?」
「自習だ」
「自習を……するの?」
「昼寝だ」
「……」
エリスは何かを言いかけて、やめた。そしてゆっくりと踵を返した。
「また来る」
「来なくていい」
「来る」
廊下の奥へ消えていく金色の背中を見送りながら、俺は席に着いた。
特別支援課程の教室は質素だ。古い机、欠けた黒板、十人に満たない定員。それでも嫌いじゃない。静かで、誰も試そうとしない。
クラスメイトのソルが、感心したような目で俺を見ていた。
「なぁクロハ、今の赤の最上位グループのエリス様じゃないか? スクラップ・ヤードに来るなんて初めてじゃ――」
「ソル、俺に話しかけると巻き込まれるぞ」
「……自分で言う?」
「覚えといた方がいい。俺の周りはなんか面倒なことになりそうだから、遠ざかっておくべきだ」
「むしろ気になって仕方ないんだが」
「やめとけ」
俺は机に肘をついて、窓の外を見た。
窓の外は裏庭。雑草と風だけ。誰も見ない空間が好きだ。遠くの中央校舎では、赤い魔力がまだ揺れている気がした。
(はぁ……昼寝できないな)
静かな学園生活は、どうやら終わりを告げたらしかった。
◆
それから三日後。
エリスはその間に二回来た。どちらも俺が昼寝中に来て、昼寝中に帰った。勧誘の言葉は派閥の話より、「本当に静かになるのか」「何メートルまで効くのか」の確認ばかりだった。何も解決していない。
三日目の昼、エリスはまた来た。
俺は炉麦包を頬張りながら、いつも通り聞き流すつもりでいた。だが今日は様子が違った。旧校舎の渡り廊下の手前で、エリスの足が止まっていた。
「……どきなさい」
低い声だった。俺は半目を開けて、その先を見た。
赤の徽章をつけた三人——派閥の上級生だ。三等が二人と、二等が一人。進路を塞ぐように並んでいる。
「エリス先輩、いくらなんでもやりすぎですよ。スクラップ風情に毎日構うなんて」
二等の男が腕を組んで言った。声には媚びと苛立ちが半分ずつ混じっていた。
「派閥の品位の問題です。皆も言ってます、最近の先輩はおかしいって」
エリスは何も言わなかった。腕を組んだまま、男たちを見ている。俺は炉麦包の残りを袋にしまった。面倒事の匂いがする。離れた方がいい距離だ。動かなかったが。
「大体、あんな出涸らしの何がいいんですか。五等ですよ。コードすら認識されない欠陥品じゃないですか」
その瞬間、空気が変わった。
俺の肌でも分かるくらい、はっきりと。
エリスの赤い励起魔力が、ぶわりと膨れ上がった。中庭の温度が一気に上がる。三人の表情から余裕が消えた。
「もう一回言ってみて」
エリスの声は、さっきより一段低くなっていた。怒鳴ってはいない。それがかえって質が悪い。
「は、はい?」
「今、何て言った。もう一回」
二等の男が後ずさった。後ろの二人もそれにならう。だがもう遅かった。
エリスは剣を抜かなかった。大剣には触れもしなかった。ただ、纏っていた赤い魔力を一段階だけ引き上げた。それだけで、三人が同時に片膝をついた。
「っ、ぐ……!?」
「これ、なに、押し潰され——」
「重い……!」
ただの威圧だ。技でも術式でもない。出力差だけで、立っていられなくしている。
エリスは三人を見下ろしたまま、表情ひとつ変えなかった。
「派閥の品位? 私が今、誰に興味を持つかに、貴方達の許可がいるとは知らなかったわ」
「せ、先輩、それは……」
「黙ってて」
エリスが一言で切り捨てた。
「今、興味があるものを邪魔された。それだけで十分腹が立ってる」
威圧が消えた。三人がその場にへたり込む。誰も立ち上がれなかった。
エリスは何事もなかったかのように踵を返し、また俺の方へ歩いてきた。
(……出涸らしの何がいい、か)
俺は冷めかけた炉麦包を見下ろした。今のやり取りで、ひとつだけはっきりしたことがある。
エリスは、別に俺を庇ったわけじゃない。
自分が「面白い」と決めたものに、横から口を出されたのが気に入らなかっただけだ。
それはそれで、性質が悪い。
「……何見てんの」
エリスが俺の前で足を止めて、腕を組んだ。さっきまでの圧はもう感じない。
「いや。派閥相手にあれやって平気なのかと思って」
「平気よ。私が一等だもの」
事も無げに言う。本当にそれだけの理由らしかった。
「で、今日の答えは?」
「行かない」
「……しつこいわね、あんたも」
「先に言ったのはそっちだろ」
エリスはふん、と鼻を鳴らして、近くのベンチに勝手に座った。帰る気配がなかった。
俺はもう一口、冷めた炉麦包をかじった。
(厄介な奴に、本格的に目をつけられた)
そう思いながらも、なぜか今日の威圧の仕方を、頭の中で少しだけ反芻していた。
剣も使わず、術式も組まず、出力だけで三人を黙らせる。底が見えない実力だった。
図書館は中立地帯だ。ソルが三等に絡まれた話は、当日のうちに司書端末のログに「旧校舎・中庭・異常介入」と残る。青の一等がそのログを読む習慣がある、と後で聞いた。
俺がいつものベンチで炉麦包を食べていると、影が落ちた。
「ここ、座っていいですか」
違う声だった。赤じゃない。
静かで、どこか体温のない声。雨が降る前の、空気が一度落ち着くような感じ。
黒髪。底に青みのある瞳。表情を読めない——評価でも試行でもなく、観測している目だ。胸元は一つ星。青派閥の一等。二年。
アイリス・ラピス。青の王族筋で、人の多い場所にいない——そういう評判だけは聞いた。
「……どうぞ」
断る理由もなかった。
アイリスは俺の隣に座る前に、一度だけ視線を巡らせた。中庭の隅、噴水の影、渡り廊下の端——どこかを確認したあと、ようやく腰を下ろした。
「失礼しました。図書館の奥、屋上、祈り室、中庭の隅、鐘楼の踊り場。静かな場所は五つ試しました。どこも、頭の中の声が完全には消えませんでした」
「……声?」
「派閥や学園から流れ込む、役割の類いです。エリスさんが最近、あなたの近くにいると小さくなる、と端末ログに書いていました。嘘かどうか、確かめに来ました」
アイリスは俺の隣に座り、懐から一冊の本を取り出した。
「先日、ソルさんが三等に術式書を踏まれたと聞きました。補習用にと思って、予備を一冊持ってきました。あなたにも一冊」
「俺は術式書は――」
「要らないなら枕にしていいですよ」
「……合理的だ」
俺は本を受け取り、枕代わりに膝の上に置いた。非常にちょうどいい厚さだった。
「なんでここに?」
「あなたのそばにいると、頭の中が静かになるから。先ほど、確かめました。嘘ではありませんでした」
「……困るな」
「困らせるつもりはないです」
俺は炉麦包を齧りながら、その答えを考えた。
困らせるつもりはない、けれど困っている。
それはそれとして、アイリスは静かだった。エリスのように何かを主張してくることもなく、ただそこに座って本を読んでいる。俺の中庭の使い方に干渉してこない。一等の中でこういう人間は珍しい。
これをどう処理するのが正解なのか、俺には分からなかった。ただ今この瞬間に限って言えば、不快ではなかった。
「クロハ・レイさん、ですよね」
「そうだけど」
「先日、石一つで三等を追い払ったという話を聞きました」
「石が偶然当たっただけだ」
「……」
アイリスは少し間を置いてから、本を開いた。
「エリス・ヴェルミリオンが最近、あのクラスに来ているそうですね」
「そうだな」
「なぜ断るんですか。赤への加入を」
「面倒くさいから」
「…………」
アイリスはそれ以上聞かなかった。本のページをめくりながら、静かに座っている。
その沈黙は、不思議と不快ではなかった。
エリスの赤とは違う。アイリスの青は、何かを侵食してくるというより、ただそこに在るという感じがした。
(まあいいか)
別に追い払う理由もない。
俺は炉麦包を食べながら、術式書を枕代わりに目を閉じた。
「……クロハさん」
「なんだ」
「あなたのことが、少し、気になります」
「なぜ」
「私が今まで侵食できなかったものが、この世界にいるなんて、思ってもみなかったから」
目を閉じたまま、俺は黙った。
侵食できない、とはどういう意味かを、深く考えた方がいいのかもしれない。
だが今は、炉麦包の方が大事だった。
「……ゆっくりしていってください」
「ああ」
(というか、もう十分ゆっくりしているように見えるが。)
遠くで、赤が「どこにいるのよクロハ・レイ!」と叫んでいた。
俺は目を閉じたまま、平和とは何かを考えた。
(全然、昼寝できないじゃないか)
けれど不思議と、静かだった。
青い魔力が、俺のそばでひっそりと揺れていた。
みなさま初めまして!
謎の食べ物が出てきますがこの世界では焼きそばパンのことをそう呼びます(多分)




