4話
男子寮の静の部屋。
昨日は結局、優牙が静の上から退いて何もなかった。
しかし、今日はベッドの端に腰掛けた優牙との距離は10センチもない。
優牙のシャンプーの香りが静の鼻腔をくすぐる。
「真砂先輩……」
低く抑えられた声が耳元に届き、静の肩が跳ねた。
「っ」
咄嗟に息を飲み、身構える。
無表情なはずの優牙の瞳が至近距離で見つめ返してくる。
(……待って。これ、また押し倒される流れじゃないか……!?)
頭の中で警報が鳴り響く。
ここ数日、静は優牙との“次のステップ”に進むために予習を重ねてきた。
恋愛小説やネットの知識をかき集め、恋愛初心者なりにイメージトレーニングをしてきたのだ。
先輩としてリードするために。
だが、目の前の光景はどうだ。
小柄で可愛い系、静と身長差が九センチあるはずの優牙がどこか迫力のある雰囲気を纏ってじわじわと間合いを詰めてきている。
普段は口数が少なくポーカーフェイスな彼だが、サッカー部で鍛え上げられた体幹は伊達ではない。
ふとした瞬間に覗かせるアスリートとしての力強さが静を無意識に気圧していた。
(僕が先輩なのに……そっちが水瀬くんで……あれ? やっぱりこのまま僕が下になる予感しかしないんだけど!?)
「あの、水瀬くん……?」
声を震わせないよう必死に平静を装いながら、静は少しだけ横にずれた。
だが、優牙は静の返事を待たずに、さらに距離を詰めて来る。
静の膝と優牙の膝がかすかに触れ合った。
「先輩、今日……バイト、疲れましたか?」
「え? いや、今日はバイトなかったから疲れてないよ」
「それでも休んでください」
そう言って、優牙がすっと手を伸ばしてきた。
静は心臓が口から飛び出そうになるのを耐えながら、目を固く閉じた。
押し倒されるか引き寄せられる。
先輩としてのプライドと、優牙のギャップに対するトキメキが静の中で激しく乱闘していた。
(まあ……水瀬くんになら、別にこのまま流されても良いかもしれない……いや、ダメだ! ここは僕がリードするって決めたんだろ……!?)
葛藤の中、静の肩に優牙の手がポンと置かれた。
……ポン。
あまりにも軽やかな感触に、静はそっと片目を開けた。
「……水瀬くん?」
静が恐る恐る目を開けると、優牙は真剣な眼差しで静の肩をゆっくりと揉み解していた。
「肩、かたくなってる。普段のバイトと……その、俺が急に来たから緊張してますか……?」
「……え」
「俺、先輩と話すときはいっぱい喋ってるつもりなんだけど……うまく伝わってないみたいで。疲れてるなら、無理させたくない」
無表情に見える彼の眉根が、ほんの少しだけ悲しそうに下がっていた。
自分では感情豊かにペラペラと喋っているつもりの優牙。
けれど、他人から見れば何の変化もない優牙を、静は理解できるようになってきた。
迫りくる後輩の男らしさに呑まれかけていた静だったが、優牙の素朴で不器用な優しさに触れ、すっと肩の力が抜けていく。
(ああ、もう……本当に可愛いな)
静の中で豊かにへの愛おしさがこみ上げた。
身構えていた自分が急におかしくなり、静はくすりと小さく笑った。
そして、肩に置かれた優牙の手に、自分の手をそっと重ねる。
「……ううん。本当に疲れてないよ。でも、ちょっと緊張してるかな」
「……やっぱり。俺のせい?」
「ううん。僕が……かっこつけようとしてただけ」
静は優牙の手を包み込むようにギュッと握り締めた。
今度は静の方から、優牙の顔を覗き込む。
「水瀬くん」
「はい」
「僕さ……先輩だし、ちゃんと君をリードしたいんだよ」
照れくささに顔が熱くなるのを自覚しながらも、静はまっすぐに優牙の目を見た。
優牙の瞳が少し揺れたのが分かった。
「だから……水瀬くんが僕のペースに巻き込まれるくらい、もっと頼ってほしい」
静が微笑みながら優牙の肩を引き寄せると、バランスを崩した優牙が静の胸元へと傾いた。
すかさずその体を優しく抱きとめる。
「……っ、先輩」
「ね? 僕の方が、ちょっとだけ背が高いでしょ」
耳元で囁くと、優牙の耳たぶがみるみるうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。
言葉数は少なくても、全身で照れているのが手に取るように伝わってくる。
(よし……一歩前進、かな)
不器用で、恋愛初心者の静と優牙。
まだまだ静にとっての理想のリードには遠いかもしれないが、静は確かな手応えを感じながら、腕の中の優牙を愛おしく抱き締め直すのだった。
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