第8話 『不動』の黒歴史
スタート村の南にある城壁が崩れたのは、100パーセント人間が起こした人為的ミスだった。
頭の中の酸素が足りていない火属性の魔法使いが、城壁の隙間に挟まった弱いガーゴイルを倒すために、あろうことか最高ランクの『爆裂炎陣』を使ったのだ。
確かにガーゴイルは塵と化したが、それと同時に15メートルもの城壁が吹き飛んで消えた。
ローウェンとリネアは、散らばった石の片付けと、激怒する警備兵達への平謝りに、丸1日を無駄にした。
夕方。
体も心もボロボロになったローウェンは、まるで幽霊のように重い足取りで、村の酒場「断剣」に入った。
隅の木のテーブルに座り、大きな冷えたエールを注文して、壊れそうな腰の痛みをアルコールで誤魔化そうとする。
一方、向かいに座るリネアは、全く疲れていない様子で、楽しそうに羽ペンを持ち、ノートに何か化学薬の調合の計算を書いていた。
「よお! 事後処理班の2人じゃないか!」
やたらと元気のいい声が、ローウェンの短い平和を壊した。
頬に四角いガーゼを貼ったトゴルトが、遠慮なくローウェンの隣の椅子を引き、豪快に腰を下ろした。
このA級冒険者は、この前ワンパンで吹き飛ばされた事なんて全く気にしていないらしく、すごく気安く酒場のマスターに手を挙げて酒を頼んだ。
リネアはノートから顔を上げて彼を見て、同じように気安く話しかけた。
「おや、特権階級。顔の腫れはマシになったみたいね」
「ははっ、このくらいの傷、俺様にはかすり傷にもならねえよ!」
トゴルトは笑い、そのまま酒を煽った。
リネアは羽ペンをくるくると回し、何かを思い出したように、グリーンの目でトゴルトを見た。
「そういえば、この前の大会の時、あんたこいつの事を『不動』のローウェンって呼んでたわよね。あれ、どういう意味? この顔面麻痺、昔は凄かったの?」
それを聞いた途端、ローウェンが飲んだばかりのエールが、喉にすごい勢いで引っかかった。
「ゲホッ、ゴホッ!」
ローウェンは咳き込みながら、トゴルトの肩を掴もうと手を伸ばした。
「おい……黙れ、トゴルト。こいつにそんな話を……」
「隠す事なんてねえだろう!」
トゴルトはローウェンの手をヒョイと避け、バンッとテーブルを叩いた。その声は大きくて、隣のテーブルの客まで振り返るほどだった。
「これはA級冒険者の間じゃ、知らない奴はいないほどの伝説だぜ! エルフのお嬢ちゃん、よく聞けよ。あれは俺様達がまだ、すごく若かった頃の話だ……」
トゴルトの目が遠くを見つめる。酒場で英雄の歌を歌う吟遊詩人のように。
「あの時、俺達のパーティーは高難度のダンジョンに潜ってたんだ。そこで間抜けなシーフが罠を踏んで、気が付いた時には、ドアもないでっかい空洞に飛ばされていたんだ」
「周りは真っ暗。そしてすぐに、暗闇の中に無数の赤い目が光った。完全武装したエリートのゴブリンが100匹以上、さらに身長5メートルを超えるでっかいトロールが3匹もいて、俺達を完全に囲んでいた」
酒場の中の空気が、トゴルトの話に引き込まれていく。
うるさかった冒険者達もだんだん静かになり、何人かは酒のジョッキを持ったまま、コッソリと椅子を引いて彼らのテーブルの側へ集まってきた。
「魔法使いの魔力はもうゼロで、神官はビビって杖も落とす始末。チームの全員が絶望して、もう死ぬと思ったその時……」
トゴルトは、頭が痛そうに眉間を揉みまくっているローウェンをビシッと指差した。
「こいつが、剣を抜いて、たった一人でチームの一番前に出たんだ」
リネアは目をキラキラさせた。「それで?」
トゴルトはコホンと咳払いをし、椅子から立ち上がると、剣で地面に線を引くような大げさなアクションをした。
そして、あの頃の若くて熱いローウェンの、血を吐くような叫び声を真似した。
『よく聞け! 全員、俺の後ろに下がれ!』
トゴルトは大声で叫んだ。
『俺の手に剣がある限り、てめえら雑魚共には、この線を一歩たりとも越えさせはしない! 懸かって来い!!』
「ブゥッ——!!」
隣のテーブルのドワーフが酒を思い切り吹き出し、お腹を抱えて顔を真っ赤にして笑いを堪えた。
ローウェンはすでに両手で顔を覆い、頭をテーブルの下に隠してしまいたい気分だった。
「あれはものすごい死闘だった!」
トゴルトはローウェンの絶望的な気分になんて全く気付かず、どんどん熱く語る。
「丸々30分だぜ! ゴブリンが波のように押し寄せ、トロールの武器が地面を砕く! でもローウェンは、本当にあの誓いを守り切ったんだ!
あの絶望的な攻撃の中で、あいつは俺様達を守るために、なんと半歩も下がらなかった! あの『線』を越えた化け物は、本当に1匹もいなかったんだ!」
トゴルトは大きく酒を飲み、この物語の最高のラストを飾った。
「俺様達が我に返った時には、あいつがたった一人で……その百匹以上の魔物の群れを、文字通り『全滅』させていたのさ! 『不動』のローウェンの伝説は、あのバトルから始まったんだ!」
「おおおーっ!!」
周りに集まった客達から、すごい歓声と口笛が沸き上がった。
「なるほどね……『この線を一歩たりとも越えさせない』かぁ……」
リネアはすごく楽しそうに頷き、超レアで笑える合成素材でも見るような目で、ローウェンを上から下までジロジロと見た。
「あんたって、昔は地面に線を引くような熱血バカだったの? 全く見えないわね」
大きな騒ぎと拍手の中で、ローウェンは両手で顔を覆ったまま、耳の先まで真っ赤になっていた。
もし人を一瞬で消せる魔法があるなら、彼は迷いなく自分にそれを使うだろう。
生きるか死ぬかのギリギリで出たあの若気の至りのセリフを、ただ平和に生きたい今の自分の前で、あんなに華やかに再現されるなんて……。
魔王軍と戦うより酷い、完全な「社会的な死」だった。
「ハッ! もちろんそれだけじゃないぜ!」
酒場の反応がこれほど良く、リネアという最高の聞き手もいる事で、トゴルトの喋りたい欲求は完全に爆発した。
「南の砂漠での話もあるんだ! でっかい地竜に追いかけられた時なんて、もっと凄かった! ローウェンはなんと、あの竜に向かって大声で——」
ドンッ!
酒のジョッキがテーブルに叩きつけられる音が、トゴルトの熱いスピーチを無理矢理止めた。
「おや? なんて叫んだの?」リネアがワクワクして聞いた。
「あいつは大声で……んぐっ!」
トゴルトが口を開いた瞬間、ローウェンの左手が雷のようなスピードで伸び、その冒険者の顎をガシッと掴んだ。
そのまま、ローウェンの右手は腰のポーチから灰色の粉を一掴み取り出す。
それはスライムの掃除に使った残りの、「超強力消臭パウダー」だった。
ローウェンは表情一つ変えず、何の遠慮もなく、そのツンとする匂いの粉を全て、トゴルトの大きく開いた口の中に押し込んだ。
そして素早く顎を閉じさせ、ダメ押しでその口を手のひらでポンと叩いた。
「ゲホッ! うぅ……オエェェェッ!」
トゴルトは白目を剥いてテーブルの上に倒れ込み、口からキツいミントと石灰の匂いがする白い泡を狂ったように吹き出した。
まるで塩をかけられたナメクジのように、苦しそうにピクピクと痙攣している。
周りで見ていた客達は一瞬で静かになり、黙って酒のジョッキを持ち、コソコソと自分の席に戻っていった。
「うるさい。黙れ」
ローウェンは手についた粉をパンパンと払い、再びエールを飲んだ。まるでうるさい蝿を叩き落としただけのような顔だ。
極めて事務的に「物理的な制裁」を下した彼からは、「今は絶対に話しかけるな」という凄まじいオーラが放たれていた。
リネアが白い泡を吹くトゴルトを見下ろし、この泡を少し集めて研究しようかと考えていた時だった。
ローウェンの胸のポケットにあるギルドの通信用の石が、突然眩しい赤い光を放ち、けたたましい警告音を鳴らした。
仕方なく通信に出た。
「ローウェン! 夕飯なんか食べてる場合じゃないぞ! 今すぐ相棒を連れて、村の外の『黒岩の迷宮』の入り口へ向かえ! 大トラブルだ!」
石から、ギルドマスターのバルガスの、焦燥に駆られた怒声が響いた。
「また何があった?」ローウェンは平坦な声で返した。「もしどこかのレンガが割れたとかなら、明日の朝にしろ」
「レンガじゃない! ゴブリンだ! 100匹以上のゴブリンの群れだ!」バルガスの声が震えている。「今日の午後、『エリートオーガの討伐』クエストを受けた大馬鹿者のパーティーがいたんだ。あいつら、何をやらかしたと思う!? 時間と武器をケチるために、姿を隠すアイテムを使って周りの魔物を全部無視しやがった!」
「一番奥までコッソリ入って、ボスのエリートオーガ5匹だけを暗殺して、耳だけ切って魔法で逃げ帰ってきやがったんだよ!」
それを聞いて、ローウェンの顔が完全に暗くなった。
「バカ共め……」ローウェンは歯を食いしばった。
黒岩のダンジョンの生態系は、上のランクの魔物が下の魔物を力で押さえつける事でバランスを保っている。
今、一番上にいるボスがいなくなった事で、オーガの餌や奴隷にされていた一番下のゴブリン達が、完全にコントロールを失ってしまったのだ。
「その通りだ! 今、迷宮の中から100匹以上の狂ったゴブリンが溢れ出して、近くの農場を襲おうとしている! 早く行って食い止めてくれ! 他のチームも向かわせたが、お前らが一番近いから一番早く着くはずだ!」
通信が切れた。
ローウェンはテーブルにある、まだ半分残ったエールを見て、この夜で3回目となる深いため息をついた。
「行くぞ。仕事だ」
ローウェンは立ち上がり、片手剣を腰に下げた。
「何百匹ものゴブリン? しかもコントロールを失って狂ってる状態?」
リネアは夕飯の邪魔をされた文句を言うどころか、目をキラキラと輝かせた。
彼女は素早くベルトの裏から、怪しい赤と青の液体が入ったガラス瓶を数本取り出し、ぞっとするような笑みを浮かべた。
「ちょうどいいわ! 調合した薬の連鎖反応をテストする大型の『被検体』が足りなかったのよ。その緑の小さい子達、本当に気が利くわね」
「俺も……俺様も連れていけ……」
テーブルの上から、弱いけどものすごく強い意志のある声が聞こえた。
さっきまで白い泡を吹いていたトゴルトが、どこから出たパワーなのか、フラフラしながらも立ち上がった。
彼は口の周りの泡を適当に拭い、謎の闘志を瞳に燃やして、ローウェンをじっと睨みつけた。
「この前の大会では……俺様の油断だった」
トゴルトは腰の細い剣を引き抜き、足がフラフラでもカッコいいポーズを決めた。
「今度こそ、A級冒険者の本当の力を見せてやる! ローウェン、どっちが多くゴブリンを殺せるか勝負だ!」
ローウェンはゴミでも見るような目で彼を見た。
「いらない。邪魔だ」
だがトゴルトはローウェンの言葉を完全に無視し、「これぞ運命の戦い!」などと叫びながら、フラフラとした足取りでついてきた。




