第7話 平和な朝
魔王軍の影がちらついたあのパニックだらけのランクアップ大会から、まる1週間が過ぎた。
この7日間、スタート村ギルドの『事後処理班』は、これまでで一番の地獄を見ていた。
ローウェンが来る前に山のようにたまっていた仕事の「尻拭い」に始まり、周りのお店からのクレーム処理、そして、パニックに巻き込まれた冒険者達からの、ケガの補償や装備の弁償を求める書類の山だ。
頭がおかしくなりそうな仕事の量だったが、それらは全て、ローウェンがたった一人で片付けた。
では、相棒のリネアは?
あの夜、『無垢月光草』を手に入れたエルフの血を引く実験マニアは、ローウェンがいる2階の執務室の窓の真下にある、ギルド裏の古い倉庫を勝手に実験室に変え、中から鍵をかけて引きこもってしまったのだ。
仕事が一番キツかった頃、ローウェンは書類の山を抱えて一度だけそのドアを叩いた事がある。
だが、中からガラスが割れる音と共に、「ジャマしないで!!」という怒声が返ってきただけだった。
次の日には倉庫の周りに魔力のバリアまで張られ、ローウェンが魔力を込めた短い剣で切ろうとしても、バリアが自動で跳ね返してくる始末だ。
その日から、ローウェンは相棒をアテにするのを完全にやめた。
「ふぅ……これでようやく全部終わりか」
その日、スタート村に静かな朝がやって来た。
ローウェンは自分の机に座り、最後のハンコを押した書類をトレイに投げ込むと、満足そうに大きく背伸びをした。
面倒なリクエストもない。魔王軍の企みもない。山のような書類もない。
ただ、久しぶりの完璧な平和があるだけだ。
ローウェンは淹れたてのブラックコーヒーを手に取り、リラックスできる苦い香りを深く吸い込んだ。
目を閉じ、カップをゆっくりと口元へ運ぶ。
自由と平和の証である、この最初の一口を味わおうとした——まさにその瞬間だ。
ドゴォォォン——!!!
コーヒーが口に触れるギリギリの所で、ギルドの後ろから耳が痛くなるような大爆発の音が響いた。
ローウェンのカップの中の黒い液体が大きく揺れ、机にこぼれそうになる。
次の瞬間、甘ったるく異様な悪臭のする緑色の煙が、まるで生き物のように倉庫の窓からもくもくと噴き出してきた。
激しい化学の音に混じって、倉庫の重たい木のドアが「メキメキッ」と嫌な音を立ててきしむ。ドアの真ん中が外に向かって膨らみ始め、中から巨大な怪物が飛び出してきそうな勢いだ。
バリアのおかげで、煙は外には漏れていなかった。
ローウェンは表情を変えずに目を開けた。
今にも壊れそうな木のドアを見つめ、そして手にある、まだ一口も飲んでいないコーヒーに視線を落とす。
「……」
ローウェンはとりあえずコーヒーを一口だけ流し込み、カップを静かに机に戻した。
そして、魂が全部抜けていくような、とても長いため息をついた。
彼はいつものように壁から片手剣を取り、重い足取りで実験室へと向かった。
バンッ!
実験室の中の魔力がコントロールを失い、バリアはついに中からのプレッシャーに耐えきれず、ガラスのように砕け散った。
ローウェンはドアをノックするどころか、大きく歪んだ木のドアを遠慮なく蹴り飛ばした。
だが、目の前に広がっていたのは、ビーカーやガラスの破片が散らばる廃墟などではなかった。
それは、気味が悪いくらいに命が溢れる「眩しい緑色のジャングル」だった。
『無垢月光草』のとてつもなくピュアな魔力が、リネアの怪しい薬と混ざり合い、ありえないほど元気になるパニックを引き起こしたらしい。
倉庫にただのテスト用として置いてあった普通の鉢植えが、鋭いトゲと光る葉っぱを持つ凶暴なツタの怪物に変わり、この狭い部屋をほとんど埋め尽くしていた。
そして、このジャングルのド真ん中で、ローウェンは事件の犯人を見つけた。
リネアは顔をススで真っ黒にし、綺麗な銀色の髪もチリチリに焦げていた。
何本もの太いツタにぐるぐると巻かれ、まるで虫のサナギのように空中で逆吊りになっている。
最悪の状況にもかかわらず、彼女の両手は、透明な液体が入ったガラスの瓶をしっかりと守っていた。
ドアを蹴破って入ってきたローウェンを見ても、リネアは助けを呼ぶどころか、目をキラキラさせて大声で叫んだ。
「ローウェン! 成功よ! 月光草の魔力は本当に完璧! 最初のミックスは大成功だわ! ただ、このクスリの副作用が少しだけ……元気よすぎるみたい!」
リネアの「元気すぎる」という言葉を証明するように、倉庫を埋め尽くすツタがローウェンの気配に気がついた。
トゲだらけの太いツタが十数本、獲物を追い詰めた飢えた猛獣のように、ドアにいる彼に向かって一気に襲いかかってきた。
このバカバカしいピンチを前にして、ローウェンはため息さえも省いた。
キンッ。
片手剣を抜く音が、冷たく響く。
嵐のように襲ってくる怪物植物を前に、ローウェンは一歩も下がらず、派手な剣の光もない。無駄な動きもない。
ただ手首のわずかな動きと、完璧な計算だけで、片手剣は空中で隙のない銀色の光の網に変わった。
シュッ! シュシュッ!
剣を振るたびに、ツタの一番もろい関節の部分が綺麗に切り裂かれる。
ものすごく頑丈に見える植物の怪物が、ローウェンの剣の前では、まるで草刈り機にかけられたようにバラバラになっていく。
飛び散る緑色のジュースやちぎれた葉っぱは、彼の服の裾にすら1滴もかすらなかった。
たった10秒。
攻撃的なツタは全て切り刻まれ、床に散らばるゴミになった。
最後にローウェンは、リネアを逆吊りにしていた一番太いツタをスパッと切り落とした。
「きゃっ!」
支えを失ったリネアは、そのまま床に向かって無様に落下した。
「どさっ」と鈍い音がして、彼女は床に激しく身体を打ちつけたが、その腕の中にあるガラス瓶だけは、自分の命よりも大切な宝物であるかのように死守していた。
ローウェンは剣についた緑のジュースを振り払い、ゆっくりと剣を腰に収めた。
まだピクピクと動いている植物のゴミを見下ろし、次に、歴史に残る大発見をしたかのように興奮している相棒を見つめた。
「3分だけ時間をやる。説明しろ」
ローウェンの声は、手にある剣よりも冷たかった。
「この『少し元気すぎる』クスリに、いったい何の使い道があるのかをな」
「もし言えなければ、お前をこの雑草達と一緒にゴミ袋に詰めて、裏の燃やすゴミ箱に放り込む」
「……ただのクスリじゃないわ。これは奇跡の始まりよ!」
リネアはローウェンのヤバい視線を完全に無視し、透明な液体の入った瓶を高く掲げた。
その声は、ノーベル賞の受賞スピーチのように熱かった。
「これは『万能調和剤』のベースになる物質よ! これがあれば、化学と錬金術の歴史は完全に変わるわ!」
ローウェンは表情を変えずに彼女を見つめ、それから床の緑色のゴミと、割れた窓、歪んだドアに視線を向けた。
「お前の奇跡なんてどうでもいい」
ローウェンは指で床のゴミを指した。
「お前は『事後処理班』のメンバーだ。今すぐその仕事をして、お前が作ったこの室内ジャングルを綺麗に尻拭いしろ。ドアを直し、ジュースを拭き取れ。ここが元通りになったら、ゆっくり話を聞いてやる」
「えっ? でもあたし、歴史的な大発見を……」
「今すぐだ」ローウェンは剣の柄に手をかけた。
リーダーのガチの脅しと、自分が悪い事をしたという自覚に負け、リネアはしぶしぶ瓶を置き、隅のホウキと雑巾を手にして、自分が起こしたエコパニックの片付けを始めた。
……
1時間後。
スタート村ギルド。ローウェンの綺麗な机の前。
ローウェンは新しくブラックコーヒーを淹れ直し(最初の1杯はすっかり冷たくなっていた)、それを飲みながら目の前の相棒を見ていた。
リネアは机に両手をつき、その目は相変わらず熱狂の光に満ちている。
「よし」ローウェンはカップを置いた。「話せ。ギルドを壊しかけたその『ベース物質』ってのは、一体何だ?」
「『万能調和剤』の元よ!」
リネアはバンッと立ち上がり、机を強く叩いた。エメラルドグリーンの目には、まるで宗教のような熱い思いが燃えている。
「小さい頃、エルフの森を通る旅の商人から聞いたの。神話時代には、『万能調和剤』と呼ばれる奇跡の液体があったって。属性や相性を全て無視して、クスリを作る時に必要な『別の素材』の代わりを、100パーセント完璧にこなせるのよ!」
ローウェンはその興奮した様子を見ながら、平坦な声で聞いた。
「で、それが何の役に立つんだ?」
「何の役!? あんた、まだ分かんないの!?」
リネアは深く息を吸い込み、まるで原始人を見るような目で言った。
「想像してみて! もし武器に凄まじい破壊力を付与する魔法薬があって、その補助原料が超レアな『暗黒竜の鱗』だとしたら?
でも、万能調和剤があれば、そんな貴重な鱗なんて使わなくても、その辺にある石ころみたいな材料と混ぜるだけで、全く同じ効果の薬が作れるようになるのよ!」
「もっとヤバい話をすれば、どんな傷も治して命を復活させる伝説の『エリクサー』。元は72種類ものめったに見つからない魔物の素材が必要だけど、これがあればどうなると思う? メインの20種類だけを集めれば、残りの52種類は全部、万能調和剤でカバーできるのよ!」
彼女はどんどん興奮し、空中で両手を振り回した。
「これがどういう事か分かる!? レアな魔法の薬を大量に作る事が、夢じゃなくなるのよ! レア素材の限界を超えて、化学の力で魔法の奇跡を起こせるの!」
ローウェンは目を閉じて考え、ようやくこのアイデアの「ヤバさ」を理解した。
もしこんな物が本当に完成したら、各国の魔法アイテムの市場や、冒険者の仕事のシステムが、完全にぶっ壊れてしまう。
「あたしはこの『万能調和剤』を、丸百年も探し続けてきたのよ」
リネアは少しだけ興奮を抑え、机の上のフラスコを愛おしそうに、慎重な手つきで撫でた。
「五十年前、あたしは南方大陸の古代遺跡に潜ったわ。あんな太陽の光も届かない暗闇の中で、呪いから逃げ回りながら、とうに失われた古代語の文献を解読し続けたの。何度も実験して、数えきれないほど失敗して……。そしてようやく、万能調和剤の製法を繋ぎ合わせる事ができたのよ」
彼女は顔を上げ、ローウェンを見て、ものすごく自信ありげな笑みを浮かべた。
「『絶対にピュアな魔力源が必要』っていう壁にぶつかっていたけど、あの月光草のおかげでクリアできた。このベース物質があれば、最終的な完成まで、あと一歩よ!」
ローウェンは、目の前にいる熱狂的なハーフエルフの長い話を黙って聞いていた。
彼女のキラキラした目を見つめ、真理を求めるそのすごい思いと夢を馬鹿にするつもりはない。
だが、ただ平和に生きたいだけの人間としては、目の前のリアルなリスクの方がずっと大問題だった。
「……分かった。確かにそれは、すごい夢だ」
ローウェンは空になったカップを脇に押しやり、指を絡ませて、ものすごく真面目な目でリネアを見た。
「だから、俺から一つだけ、ささやかな提案がある」
「なに? あんたの顔面麻痺を治す薬でも作ってほしいわけ?」
リネアは機嫌よくジョークを飛ばした。
「いや」
ローウェンは、直したばかりの後ろの倉庫のドアを指差した。
「その『歴史を変える大発明』が完成する前に……これ以上、この村を吹き飛ばすのだけはやめてくれ」




