第35話 役割分担
早朝の陽光が、キライナの大埠頭を照らしていた。
「クソッ! 一体なんだってんだ、この気味の悪いスライムは!」
剣士ライトは両手で剣の柄を死に物狂いで握り、のけぞるようにして渾身の力を込めた。だが、彼の自慢の長剣は桟橋を覆う黒いゲルの中にがっちりと食い込み、微動だにしなかった。
「ライト、下がって! 私が焼き払うわ!」
魔術師メジナが杖を掲げ、熱い火球を叩き込んだ。
「ジュウゥゥッ――!」
高温は黒いゲルを溶かすどころか、一瞬にして硬化させ、炭化した黒い塊へと変えてしまった。同時に、ひどく吐き気を催す悪臭が辺りに立ち込めた。
引き潮によって海面に接着されたまま徐々に傾いていく数十隻の巨大商船を見て、周囲の市民や水夫たちから絶望の悲鳴が漏れた。
「終わりだ……全部終わりだ……」
一方、数十メートル離れた安全圏。
トゴルトは石壁に背を預け、遠くの惨状を眺めながら隠す気もなく笑い声を上げた。
「これが噂の英雄様か。昨夜はあんなに威勢が良かったのにな」
「自業自得ね」
リネアは両手を腰に当てた。
「自分たちで引き起こした結果でしょ。ローウェン、私たちはここで高みの見物といきましょうよ。どうせ今は『休暇中』なんだから」
ローウェンは手にしていた手帳をパタンと閉じ、懐へ仕舞い込んだ。そして迷うことなく封鎖線を越え、埠頭へと向かった。
「おいおい、本当に行く気かよ」
トゴルトは舌打ちをしたが、素直にその後を追った。
「退け。無理に引き抜くな、刃が折れるぞ」
ローウェンがライトの背後から歩み寄った。
ライトが猛然と振り返った。
「お前、ここで何をしている! 俺たちが今対処しているのが見えねえのか――」
「リネア」
ローウェンはライトの言葉など全く耳に入っていないかのように、地上の黒いゲルを見たまま口を開いた。
「サンプルの採取だ。市内の錬金工房へ行き、中和剤を量産しろ。必要な分量はお前が計算しろ。資金は一旦ギルドのツケにしておけ。後でギルドから追及されたら、俺が対処する」
「任せて!」
リネアは即座にガラス瓶を取り出して黒い泥を素早く削り取った。
「強アルカリ性の抽出液をベースにすれば……一時間以内に調合してみせるわ!」
彼女は疾風のように市街地へと駆け出していった。
「トゴルト、この三人組を連れてギルドへ行き、ギルドマスターの『デミウス』に会え」
ローウェンは指示を続けた。
「俺の名前を出せ。市内で待機しているすべての冒険者を動員しろと伝えろ。中和剤が完成次第、大量の人手が必要になる」
「ふざけるな! なんでお前の指示に従わなきゃならねえんだ!」
大盾戦士のドゥハンが怒鳴り声を上げた。
ローウェンは横目で彼らを見た。
「このままここに突っ立って、この街の港とお前たちの名声が、一緒に海の底へ沈んでいくのを見届けるのも自由だ」
ローウェンは極めて平坦な声で言った。
「それとも、今すぐ俺の指示通りに動くかだ」
ライトは下唇を血が滲むほど強く噛み締めた。彼はびくともしない自分の長剣と、海面で傾いていく商船を交互に見つめた。
「……行くぞ! ギルドへ向かう!」
彼は剣の柄から勢いよく手を離し、隊員たちを引き連れて猛然と走り出した。
「こいつらも、まだ少しは空気が読めるみたいだな」
トゴルトは顎をさすった。
「なら、俺も一走りしてくるとするか。班長殿、現場は任せたぜ」
騒がしかった三人が去り、埠頭の端に一時の静けさが戻った。
ローウェンは黒いゲルに飲み込まれた桟橋の前に、ただ一人佇んでいた。海面でうねる黒い波を見つめながら、無言のまま立ち尽くしていた。




