第34話 英雄の凱旋
東部自由貿易国、『キライナ』。
国名と同じ名を持つその巨大な港町は、東部の貿易ネットワークを担う心臓部だ。
馬車が大きな城門を抜けると、ぱっと視界が開けた。雲一つない青空の下、なだらかな丘陵に沿って街が広がっている。白い壁の建物が立ち並び、屋根の鮮やかなブルーが、遠くで波打つ海岸線と溶け合っていた。
足元には白い石畳がどこまでも続き、ほんのりと潮の香りを運ぶ風が頬をなでる。
「わぁ……これぞ本物のバカンスね!」
リネアは馬車から飛び降りると、両腕を高く伸ばし、太陽の匂いがする空気を思いきり胸に吸い込んだ。
しかし、そんなのどかなリゾート気分は、そう長くは続かなかった。
広い石畳の道を歩き、街の中央にある大埠頭へたどり着いた時、三人は思わず足を止めた。
数十隻の巨大な商船がとまれるほどの超大型港。だが今、その広い広場は、足の踏み場もないほど大勢の市民で埋め尽くされている。
宙を舞う紙吹雪、耳をつんざくようなブラスバンドの演奏、そして割れんばかりの歓声が港全体を飲み込んでいた。穏やかな朝どころではない。街をあげてのお祭り騒ぎだった。
「見ろよ!『流星』小隊だ! ライト隊長、万歳!」
「すげえよな! ここキライナで名を上げ始めてたった2年で、もうAランク昇格だぜ!」
「昇格してからの依頼達成率は100パーセントらしいぞ! 普通ならベテラン6人がかりの高難度討伐を、たった3人でこなすんだから。まさにキライナの誇りだよ!」
最前列にいる住民たちが、興奮気味に大声を張り上げている。
熱狂する群衆の視線の先を追い、トゴルトは騒ぎの中心をようやく見つけだした。
防波堤の浅瀬に、太く錆びた鎖で、小山のように巨大な肉塊が厳重に繋ぎとめられていた。体長二十メートルを超える「深海覇王烏賊」だ。すでに息絶えているものの、吸盤がびっしりと並んだ暗赤色の太い触手は、今なお不気味な威圧感を放っている。
そして、その死骸の前に作られた立派な高台には、街中の英雄扱いを一身に浴びる三人の若い冒険者が立っていた。
トゴルトは顎をさすり、面白そうに口笛を吹いた。
「ほう? 軽装鎧の剣士に、大盾持ちの戦士、それに後衛の魔術師か。三人で標準的な六人小隊の仕事量をこなすってんなら、確かにデカい顔をするだけの実力はあるな」
高台の中央に立つのは、軽装鎧を着た剣士のライト。長剣を掲げ、自信に満ちた態度で歓声に応えている。左側には大盾を担いだ屈強な戦士ドゥハン、右側には華やかなローブを着た女性魔術師メジナが控えていた。
ローウェンは足を止め、その烏賊の死骸を二秒ほど静かに見つめた。
何も言わず、ただ視線を外すと、港の裏手にある宿屋街へと歩きだした。
……
その日の夜、キライナ最大の酒場「海猫亭」。
店内はお祭り騒ぎの熱気に包まれていた。流星小隊がフロアの大半を貸し切り、無料のエールが滝のように振る舞われ、ほぼすべての冒険者が祝杯をあげている。
隅の丸テーブルに座るローウェン一行は、その場から完全に浮いていた。まわりの騒ぎには加わらず、ただ静かに皿に乗った焼き魚を切り分けている。
そのそっけない態度は、一段高い主賓席にいるライトの目に留まった。
ライトは酒の入ったジョッキを片手に、ほろ酔いの笑みを浮かべて近づいてきた。
「見ない顔だな、よそ者か? どうした、俺たち流星小隊の盛大な祝賀会は、お前らの口に合わなかったか?」
トゴルトは肉串をかじり、適当に答えた。
「俺たちはただ休暇で来てるだけだ。ついでに言っておくと、この二人は本部所属の事後処理班だ」
「事後処理班?」
ライトは一瞬きょとんとした後、隠す気もない嘲笑を漏らした。
「なんだ、他人のケツ拭きを専門にする清掃員かよ。本物の狩りの祝い方が分からないのも無理はねえな。どうせ普段から、他人の獲物を指をくわえて見てるだけなんだろ?」
ピキッ。
リネアが握っていた木製のジョッキに、ヒビが入った。彼女はギリッと奥歯を噛みしめ、エルフの耳を不快そうに後ろへ伏せている。
トゴルトの顔色も沈んだ。勢いよく立ち上がり、レイピアの柄に手をかける。
「小僧、口の利き方に気をつけろ。こいつは――」
ローウェンがスッと手を上げ、トゴルトの言葉を制した。
彼は立ち上がると、自分の飲み代である数枚の銅貨をテーブルに置いた。そして、ライトの挑発など全く耳に入っていないかのように口を開いた。
「Aランクに上がったのなら、定石を忘れるな」
声に怒りも、苛立ちもない。ただの業務連絡だった。
「海獣の死骸を、海中に一晩放置するな。腐臭が湧くぞ」
その警告だけを残し、ローウェンはさっさと背を向け、酒場の扉へと向かった。
トゴルトは舌打ちをして剣から手を離し、後を追う。リネアは去り際、ライトに向かって思いきりあっかんべーをしてから立ち去った。
ライトは三人の背中を見送り、鼻で笑った。
「チッ、ただのゴミ拾いのくせに、先輩風吹かせてんじゃねえよ」
ジョッキのエールをあおり、その忠告を完全に頭から締め出すと、ライトは再び群衆の歓声の中へと戻っていった。
……
どんちゃん騒ぎは夜通し続いた。
そして翌朝。
ローウェンが宿屋の扉を開けた時、顔に吹きつけてきたのは爽やかな朝の風ではなかった。
それは、むせ返るほど強烈で、生臭い異様な潮の匂いだった。
本来なら早朝から活気づくはずの港は、不気味なほど静まり返っていた。だがその直後、パニックに陥った無数の悲鳴が、その静寂を徹底的に打ち砕いた。
「な、何事!?」
リネアが目をこすりながら宿屋を出て、人々の視線の先、埠頭の方を見た。次の瞬間、彼女は息を呑んだ。
港が、真っ黒な泥沼と化していた。
昨夜の満潮時、浅瀬に浸かっていた烏賊の死骸が大量の腐肉食魚を引き寄せたのだ。その魚たちが防波堤の下で死骸を食い荒らし、奥に隠されていた巨大な墨袋を誤って噛み破ってしまったのである。
深海覇王烏賊の墨は本来、深海で敵を絡めとるためのものだ。毒性はないが、大量の海水と接触すると急速に反応を起こし、極めて粘着性の高い黒いゲル状の物質へと変化する。
黒い粘液は、引き潮とともに港全体にベッタリとへばりついた。数十隻もの商船の船底が水面にがっちりと接着され、桟橋は黒いゲルに覆い尽くされ、水面に浮かぶ木樽でさえ岩に埋め込まれたかのように固定されていた。
キライナの港の機能が、一夜にして完全に麻痺してしまったのだ。
「な……なんだよ、この化け物じみたスライムは!?」
遠くの方で、昨夜まで我が世の春を謳歌していたライト隊長が、目の前の惨状に顔面を蒼白にしていた。
大混乱と絶望の悲鳴が響き渡る中。
ローウェンは静かに通りの端まで歩み寄り、黒いゲル状の物体を見下ろした。




