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番外編 おだて上げに失敗した賢者

四十年前。


薄暗い私設研究室。床には高価なミスリルの粉末で極めて複雑な魔法陣が描かれている。

三つの小さな六芒星が中央の巨大な主陣に接続され、深い緑色の光を放っていた。


魔法陣の中央に立つのは、二十三歳の意気揚々とした青年だ。

金糸で未知の古代呪文が刺繍された荘厳な白いローブを身に纏い、巨大なダイヤモンドが嵌め込まれた華麗な杖を高く掲げている。


「よし……」


青年は呟き、その瞳には未知の領域への狂熱と自信が煌めいていた。


「この賢者リヴィが、時間の奥秘を解き明かしてやろう! 時間魔法、発動!」


低い詠唱と共に、魔法陣の緑光が眼を刺すほど強烈に輝き出す。

魔力の奔流が室内に狂風を巻き起こし、ローブを激しくはためかせた。


だが、異変は突如として起きた。


安定していた緑光が、前触れもなく黄色に変色する。

続いて、名状しがたい恐怖の力に汚染されたかのように、光はおぞましい血紅色へと染まっていった。


血の色がリヴィの顔を照らす。

自信に満ちていた表情は完全に消え失せ、代わりに眉間には深い皺が刻まれ、滝のような冷や汗が流れ落ちた。


「な……なんだ、これは……」


それが、彼が世界の『根源』に触れた瞬間だった。


刹那、過去、現在、未来の歴史、そして宇宙に存在する人類の理解を超えた膨大な知識が、濁流となって彼の脳内へ強引に流れ込んできた。


「うわああああっ――!」


魔法陣の光が瞬時に明滅する。凄絶な悲鳴と共に、リヴィの姿は虚空へと消え去った。


混沌とした時の流れの中、彼の精神はその情報量の衝撃に耐えきれず崩壊寸前まで追い込まれた。

代償として肉体は徐々に縮み、骨格と筋肉は退化し続け、最終的に十三歳の姿へと変貌してしまう。


ドサッ。


研究室に、再びリヴィの姿が現れた。

だが、そこにかつての意気揚々とした青年賢者の姿はない。

代わりにいたのは、不釣り合いなダボダボのローブを着て、床に座り込んでガタガタと震える痩せこけた少年だった。


頭を抱えるその瞳からかつての鋭さは失われ、錯乱と怯えだけが残っていた。


「うぅ……どうしよう……失敗だ……こんな姿になっちゃって……」


------------------------------


「うぅぅ……誰も来ない……ボク、本当にここで餓死しちゃうの……?」


空腹で目を覚ましたリヴィは、未だに廃採石場の野営地に倒れ伏していた。

冷たい風が吹き抜け、痩せ細った体を丸める彼の腹の虫が、物悲しい悲鳴を上げる。


史上初の「餓死した賢者」になるかと思われたその時、背後の岩の上に突如として二つの人影が現れた。


「いたいた。ギルドマスターの言った通り、ローブを着たひ弱そうな少年だ」


「なんだか可哀想だな……到底あの賢者様には見えないぜ」


現れたのは、上質な装備に身を包んだ男女の冒険者だった。

彼らは虫の息のリヴィを見るなり岩から飛び降り、まずは慎重に半瓶の水を飲ませてから、ジャムをたっぷり塗った分厚いパンを押し込んだ。


腹を満たしたリヴィは、ようやく少し生気を取り戻した。


「もぐもぐ……助かったぁ……ありがとう……」


リヴィは袖で口元のジャムを拭い、感涙にむせんだ。


「どういたしまして、リヴィ様」

男の冒険者は爽やかに笑った。

「俺たちは北方本部から派遣された事後処理班の支援部隊で、二人ともAランク冒険者です。バルガス・ギルドマスターが今朝になって、あなたがまだここにいることを『思い出して』、慌ててよこしたんですよ」


『思い出した』という言葉を聞いて、リヴィは再び大粒の涙をこぼした。


「うぅぅ……ひどいよ……完全にボクのこと忘れてたなんて……」


「それはそうと、リヴィ様」

女の冒険者が興味深そうに尋ねた。

「以前はここで、ローウェン先輩と特訓をしていたと伺いましたが?」


リヴィは鼻水をすすり、怯えたように愚痴をこぼした。


「うぅ……あんなの特訓じゃないよ。ただずっと剣の柄でボクの頭を殴ってただけだもん」


二人の冒険者は顔を見合わせ、その目に同情の色を浮かべた。


「実はリヴィ様。俺たちも今回、あなたの特訓を命じられて来たんです」


男が言うと、リヴィは「えっ!」と飛び退き、両手で頭を抱え込んだ。


「君たちもボクの頭を殴るの!?」


「まさか!」

女の冒険者が慌てて手を振り、優しい微笑みを浮かべた。

「ローウェン先輩のやり方は乱暴すぎます。私たちは『褒めて伸ばす』方針ですから!」


彼女はリヴィの魔導書を取り出し、あるページを開いた。


「まずはこの『火球術ファイアボール』のページを開いて、呪文を覚えてください。今後魔物に遭遇したら、四の五の言わずに、とにかく火球術だけを使えばいいんです!」


「えっ……?」

リヴィは瞬きをした。

「それならできそう……火球術なら詠唱も短いし、頭を殴られることもないし……」


「でしょう!」


男の冒険者はすかさず淡く光る誘引の魔石を取り出し、少し離れた空き地に放り投げた。

魔石の匂いはすぐさま、体格の良いホーンラビットを三匹引き寄せた。


「さあ、リヴィ様! 賢者の名に恥じぬ力を見せてやってください!」

男の冒険者が傍らで大声で鼓舞する。


右から「リヴィ様」、左から「賢者様」と持ち上げられ、リヴィのへし折れていた自尊心は一瞬にして急膨張した。


「よ、よし! 見せてあげるよ!」


リヴィは背筋を伸ばし、いかにも賢者らしい威厳を装って片手を振った。


火球術ファイアボール!」


人の頭ほどの大きさの灼熱の火球が三発、寸分の狂いもなく目標へと飛んでいく。

ドカンと音を立て、三匹のホーンラビットは一瞬にして黒焦げの丸焼きと化した。


「素晴らしいです、リヴィ様! やっぱり私の目に狂いはありませんでした!」

女の冒険者が熱烈に拍手を送る。


「その通り! 単独で氷玉竜を討伐した賢者様だけある! この精密な魔力制御、まさに芸術ですよ!」

男の冒険者も負けじとべた褒めする。


「えへへへ……いやぁ、それほどでも……」

リヴィは後頭部を掻きながら有頂天になり、鼻高々にデレデレと笑った。


予想以上の効果に、二人の冒険者は鉄は熱いうちに打てとばかりに提案した。


「それでは、もう少しだけ魔物のレベルを上げてみましょうか!」


「任せてよ! どんな魔物だって……あれ?」


男の冒険者が言い終わるや否や、巨大な体躯に青いたてがみを生やし、凶暴な赤い目を光らせた『ブルーメイン・ブル』が、岩を砕きながら前方に姿を現した。


巨牛は頭を下げ、低くくぐもった怒号を上げると、一直線にリヴィへ向かって突進してきた!


「わあああああっ!」


突如現れた巨大な魔物を前に、リヴィが先ほど築き上げたばかりの自信は一瞬にして崩壊した。

恐怖が理性を飲み込む。リヴィの両手は制御不能に陥り、狂ったように分厚い魔導書をめくり始めた。


「待って! リヴィ様! それは……」


男の冒険者はリヴィの周囲で魔力が爆発的に膨れ上がっていることに気づき、顔面蒼白になって叫んだ。


だが、すべては遅すぎた。


「『火炎竜巻フレイム・トルネード』!!」


直径十メートルにも及ぶ炎の竜巻が大地から巻き起こり、瞬時に可哀想な巨牛を包み込んだ。

狂暴な炎と旋風は魔物だけでなく、二人のAランク冒険者と野営地の機材一式を丸ごと飲み込んだ。


「ぎゃああああああっ――!」


一分後。


猛威を振るった魔法がようやく収まった。

あのブルーメイン・ブルは完全に消滅し、黒焦げの骨格だけが地面に散らばっている。


その骨の隣には、防護魔法で辛うじて命こそ取り留めたものの、全身の鎧は使い物にならなくなり、髪の毛までチリチリのアフロヘアにされてしまった二人のAランク冒険者が突っ立っていた。


二人はその滑稽な髪型のまま、冷ややかな目で前を見つめている。


その視線の先には、数日間の絶食でただでさえ魔力が枯渇していた上に、強引に大型魔法を放ったせいで、完全に白目を剥いて気絶しているリヴィが倒れ伏していた。


「……チッ、やっぱりダメか」

男の冒険者は頭の灰を払い落とし、冷淡に呟いた。


「ええ」

女の冒険者は半分黒焦げになった杖を見つめ、無力感にため息をつく。

「ギルドマスターの言う通り、持ち上げれば効果があると思ったのに。いざ緊急事態になれば、結局いつも通りじゃない」


二人は同時に気絶したリヴィに目を向け、脳裏にあの常に無表情なローウェンの顔を思い浮かべた。


「ローウェン先輩も苦労してるんだな……こんな厄介者を押し付けられて」

男の冒険者は心底同情するように漏らした。


「まあ、いいわ。私たちも任務でやったことだし、とりあえず連れて帰りましょう」

女の冒険者が前に出る。

「あなたが足を持って。私が手を持つから」


こうして、スタート村の郊外の道にこんな光景が現れた。


アフロヘアのAランク冒険者二人が、一人は足首を、もう一人は手首を掴み、かつて精霊の森でされた時と同じように、堂々たる賢者リヴィを逆さ吊りにしてスタート村まで運んでいく。


過程がどれほど滑稽であろうと、少なくともこの賢者は、餓死という運命だけは免れることができたのであった。

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