過去編 冒険者ギルド事後処理班
純潔と神聖を体現する世界樹の化身――『お母様』が、泥まみれのローウェンを静かに見下ろしていた。
世のすべての理を見透かすような銀白色の瞳には、一抹の雑念も混じっていない。光で構成された腕がゆっくりと持ち上げられると、柔らかな緑の光が瞬時にローウェンを包み込んだ。
温かな微風が、意識の奥底を吹き抜ける。深く、途方もなく広大な思念が、ローウェンの脳内に直接響き渡った。
『血と悲鳴にまみれた子よ……お前の望みを見せてごらん』
世界樹がその煉獄のような記憶を読み取った直後、ローウェンの虚ろな両眼に瞬時に焦点が戻った。彼は流木にすがりつく溺死者のように、玉座の足元へ勢いよく身を投げ出した。
「お願いします!」
ローウェンの声はひどく掠れ、ひび割れていた。
「『世界樹の露』を俺に……! ほんの一滴でいい、どんな代償を払ってでも構わない! あいつらを助けに戻らなきゃならないんだ、みんな俺を待ってる……!」
目の前で哀願する人間を見つめ、純粋な魔力によって形成された『お母様』は、わずかに伏し目がちになった。
傷ついた我が子を見守るように、彼女は深い慈愛と憐れみに満ちた小さなため息をこぼした。
「哀れな子よ。それはただの、人づてに歪められたおとぎ話にすぎないの」
『お母様』の声は極めて優しかったが、同時になによりも残酷だった。
「私の露が千年に一度結実するのは事実。けれど、それは瀕死の者に生気を取り戻させることしかできない。一度失われた命の理は、世界を律する絶対の掟。誰にも覆すことなどできないの」
その一言は、非情な宣告の槌のように、ローウェンに残された最後の理性を粉々に打ち砕いた。
「嘘だ……」ローウェンは全身を震わせ、極度の絶望で両眼を血走らせた。「リンデリルが言ってたんだ! 絶対に方法はあるはずだ! 露を渡せ――ッ!!」
完全に我を忘れていた。狂ったように咆哮し、這いずるようにして玉座へ突進しようとする。
「無礼者ッ!」
二人のエルフの護衛が怒声を上げて素早く歩み寄り、ローウェンの両腕を背中に乱暴にねじり上げると、その頬を湿った泥の中に力任せに押し付けた。
ローウェンは泥にまみれながらも必死に抵抗し、喉の奥から声にならない悲鳴を漏らし続けた。
「やめなさい。放してあげて」
『お母様』が静かに制止する。泥に押し付けられたローウェンを見つめるその瞳には、深い悲哀があった。「この子の魂は、とうの昔に壊れてしまっているわ」
エルフたちは無言で手を離し、左右へと退いた。
拘束を解かれたローウェンだったが、もはや立ち上がることはなかった。最後の奇跡すら存在しないと悟った瞬間、彼の中からすべての気力が抜け落ちたのだ。魂を抜かれた抜け殻のように泥の上にへたり込み、声を上げる気力すらなく、ただ生気のない虚ろな呼吸を繰り返すだけだった。
『お母様』はそっと手を掲げた。
温かな緑の光とともに、光を帯びた柔らかい蔓が地面から姿を現す。それらは母親の両手のようにローウェンを優しく包み込み、やがて生命の息吹を放つ巨大な緑の繭を作り上げた。
「ゆっくりおやすみなさい」
『お母様』は低く囁いた。「せめて、私の加護の下でそのボロボロになった肉体を癒やしなさい。羽化する時、その重い傷みと悲しみを忘れられるように祈っているわ」
……
ローウェンは世界樹の抱擁の中で、丸半年もの間、深い眠りについた。
その半年の間に、体内に残留していた『血蝕』の呪いは完全に浄化され、砕けた骨や断裂した筋肉も完璧に癒え切った。世界樹の純粋な魔力の洗礼を受けたことで、彼の身体機能はかつての限界すらも突破していた。
だが、樹の繭が枯れ落ち、ローウェンが再び目を開けた時、彼は『お母様』が願ったように過去の傷を忘却してはいなかった。それどころか、彼はその痛みと絶望を、骨の髄の奥深くまで徹底的に刻み込んでいたのだ。
繭を破って出てきたのは、死水のように光を失った瞳の男だった。
ローウェンは命を救ってくれた恩に報いるため、静かに『お母様』へと深く一礼し、踵を返して森の外へと歩き出した。
「我が子よ」
『お母様』は彼の孤独な背中を見つめ、静かに告げた。「もしこのまま魔王軍に抗い続ける道を選ぶのなら、最後には必ず非業の死を遂げることになるわ。剣を置き、平穏な日々を送りなさい。そうすれば、天寿を全うできるでしょう」
ローウェンの足取りは、微塵も揺らがなかった。
彼は振り返ることもなく、ただ前方に立ち込める霧を見据え、背筋が凍るほど平坦な声で答えた。
「魔王軍を殺せるなら、この命、いつだって差し出しますよ」
……
精霊の森を去ってから、時は飛ぶように過ぎ去った。
三年の間、ローウェンは北方王国の冒険者ギルドへ戻り、疲れを知らない殺戮マシーンと化して、「魔王軍と遭遇する可能性が最も高い」高危険度の任務を狂ったように引き受け続けた。単独任務だろうがパーティー編成の依頼だろうが、彼はすべてたった一人でこなしてみせた。
決して誰かとパーティーを組むことはなく、常に一匹狼を貫いた。
遠征から帰還し、血眼になって仲間を探していたあの小隊の最後の生存者――トゴルトの存在を知った時でさえ、ローウェンは意図的に彼を避けることを選んだ。最後に残された家族と、どう向き合えばいいのか分からず、そして恐れていたからだ。
そんな病的なまでに自己を放棄した戦闘の日常は、丸三年もの間続いた。
そして三年が経った、ある深夜のこと。
閉店後のギルドの酒場で、ローウェンは珍しく泥酔していた。
向かいに座る本部部長は、机の上に積まれた分厚い戦死報告書の束をめくりながら、苛立たしげにこめかみを揉み、低い声でこぼしていた。
「最近の新人どもは一体何を考えてるんだ……明らかに形勢が悪いのに、いつ逃げるべきかすら分からず、犬死にを繰り返すばかり。まったく、頭が痛い……」
その何気ない愚痴は、ローウェンの心臓を正確に貫いた。
ローウェンはうつむいたまま、手に持った半分ほど残ったエールに視線を落とした。薄暗い照明の下、水面には彼自身のひどく荒んだ姿が映り込んでいる。
グラスの中の自分を見つめていると、後悔の念が再び波のように押し寄せてきた。
もし、あの時すぐに撤退を命じていれば。もし、あんなに自惚れていなければ……仲間たちは無事だったかもしれない。たとえ本当に不測の事態に陥ったとしても、もしギルドに専門の支援人員がいれば、せめて……仲間の遺体が魔王軍に持ち去られるようなことはなかったはずだ。
彼は乱暴にグラスを掴み、残ったエールを一気に飲み干すと、「ドンッ」と音を立てて机に強く叩きつけた。
「おい、部長……」
ローウェンはしゃっくりを一つ漏らし、掠れた呂律の回らない声で口を開いた。
「冒険者なんてのは、ただ前に突っ走ることしか知らねえ馬鹿の集まりだ……だったら、ギルドは専門の小隊を派遣して、そういう馬鹿どもの尻拭い(事後処理)をしてやるべきなんじゃないのか?」
彼は空になったグラスをじっと睨みつけ、まるで過去の自分自身に向かって囁くように呟いた。
「せめて……誰かがあいつらの骨を拾いに行ってやらねえと……」
この泥酔した状態で漏らした、尽きせぬ後悔に満ちた呟きこそが、冒険者ギルド史上最も特異な部隊――『事後処理班』が誕生する決定的なきっかけとなったのだ。




