第3話 裏市場
早朝のスタート村東区広場。
空気にはまだ、薄い酸っぱい匂いが残っていた。
ローウェンは、壁の隅に縮こまり、全身に固まった粘液をこびりつかせた四人の新人の前に歩み寄った。
酷く怒鳴られると思っていた新人たちは、恐怖でガタガタと震えている。
だが、ローウェンは長々とお説教をすることもなく、武器を抜くこともしなかった。
彼は表情ひとつ変えず、懐からギルドの赤い印が押された紙を取り出すと、遠慮なくリーダーの魔法使いの胸に叩きつけた。
「東区の公共施設に対する損害賠償の請求書です」
ローウェンは平坦な声で言い、背を向けて重たい巨大なバックパックを背負い直した。
「明日の朝八時、自らギルドの受付へ赴き、分割払いの手続きを済ませてください。もし現れなければ、各国のギルドに指名手配書を回します。一分でも遅刻すれば、その場で冒険者ライセンスを剥奪します」
その容赦のない言葉を残し、ローウェンはリネアを連れてそのまま立ち去った。
後には、とんでもない金額を見て絶望の悲鳴を上げる新人たちだけが残された。
……
翌日の朝九時。ギルドマスターの執務室の中。
バルガスは机の上に置かれた、赤い文字がびっしりと刻まれた黒い魔石を見て、酷く険しい顔をしていた。
「『誘引の魔石』……しかも、かなり純度の高い違法アイテムだ」
バルガスは歯軋りをするように言った。
「この村の裏市場『ネズミ道』でしか手に入らねえ代物だ。どんな手を使ってもいい、これを買った奴を調べ上げろ!」
三十分後。ローウェンとリネアは、スタート村の外れにある薄暗いスラム街を歩いていた。
ここが『ネズミ道』だ。
空気には安物の煙草と酒、そしてジメジメしたカビの匂いが漂っている。
二人は、ボロボロの布が掛かった店の前で足を止めた。
店の中には、片目を失明した、暗い緑色の肌の年老いたゴブリンの商人が座っていた。
ローウェンは前に進み出ると、その誘引の魔石を木のカウンターに無造作に放り投げた。
「あんたが『片目じいさん』だな? この石を売ったのはあんただろう。買った奴が誰か教えろ」
片目じいさんはケケケといやらしく笑い、残った片目で二人を値踏みした。
「人間の冒険者さんよぉ、ネズミ道にはネズミ道のルールがある。情報が欲しけりゃ、口だけじゃ足りねえぜ」
その時、ローウェンの後ろに立っていたリネアが前に出た。
彼女は無駄口を叩かず、腰のベルトから不気味な赤紫色の液体が入った小さなガラス瓶を外し、スムーズにコルクの蓋を抜いた。
「シュゥゥ……」
瓶の口から一筋の白い煙が漂う。
カウンターの木の板は、その空気に少し触れただけで表面が黒く変色し、泡を吹き始めた。
「これは高濃度の『キングスライム強酸抽出液』よ。たった一滴で、あんたの後ろにある貴重な違法魔法の巻物を、全部紙屑に溶かせるわ」
リネアは表情ひとつ変えず、瓶の口を少し傾け、片目の老商人の背後にある棚に狙いを定めた。
「三つ数えるわよ。一……」
片目じいさんはギョッとしたが、まだ強がってみせた。
「お、お前ら、ネズミ道で暴れる気か? ここの裏の傭兵たちがタダじゃおかねえぞ!」
「傭兵は、ギルドの『正規の立ち入り検査』には手を出さないさ」
ローウェンが横から絶妙なタイミングで口を挟んだ。
彼は剣を抜くことさえせず、腕を組んだまま、まるでお役所仕事のような平坦な声で言った。
「ギルドの規約によれば、危険な違法アイテムを隠匿し販売した場合、ギルドにはその店舗を直接差し押さえる権限がある。たとえ今、彼女があんたの財産をすべて酸で溶かしたとしても、事後に俺が報告書を一枚提出するだけで済む話だ。しかも、その報告書ならすでに書き終えている」
リネアの手にある瓶がさらに少し傾いた。
赤紫色の液体はすでに瓶の口で揺れ、いつでもこぼれ落ちそうだった。
「二……」
リネアの物理的な『脅し』と、ローウェンの隙のない『事務的な脅し』。
その挟み撃ちを受けて、片目じいさんの商人としてのちっぽけな意地は、一瞬で砕け散った。
「待て! 待ってくれ! やめてくれ! 全部話す! その物騒な瓶をどけてくれ!」
片目じいさんは怯えて頭を抱え、大声で泣き叫んだ。
「黒いマントを被った奴だ! 訛りからして南部の人間らしかった! そいつが一気に五十個も誘引の魔石を買っていったんだ!」
「それをどこへ持っていくか言っていたか?」
ローウェンは声音を一段と低くした。
「俺に計画を話すわけがねえだろう!」
片目じいさんは震えながら首を振った。
「だが、そいつは魔石を買ったあと、高い金を出して『闘技場』の地下水道の地図も買っていったんだ。最初は不思議に思ったぜ。あんな臭い迷路に、宝なんて隠されてねえからな」
片目じいさんは生唾を飲み込み、あの時の不気味な客を思い出したのか、ブルッと身震いした。
「でもよ、裏社会で長く生きてりゃ、嫌でも危険の匂いには鼻が利くのさ。来週、闘技場じゃ大掛かりなイベントがあって、近隣の貴族のお歴々がVIP席にずらりと並ぶ手はずになってるだろ……?」
老商人の顔に、明らかな恐怖の色が浮かんだ。
「大量の『誘引の魔石』と、闘技場の真下の地図……。あの野郎、間違いなく地下迷宮で魔石を起爆剤にして、貴族サマたちの足元に魔物の大群をけしかける気だぞ! あの蛇みてえな冷酷なツラ……本気でこの村ごと潰す気だぜ!」
ローウェンとリネアは顔を見合わせた。
二人の表情が同時に険しくなる。
誘引の魔石。闘技場。貴族のお歴々。
片目じいさんの推測とこれらのキーワードを繋ぎ合わせれば、最悪の答えはすでにハッキリしていた。
この危機的状況を察知し、二人は急いでギルド支部へと戻った。
「誘引の魔石が五十個だと!? しかも闘技場の地下水道の地図だ!?」
執務室の中で報告を聞いたバルガスは、恐怖で顔を真っ白にし、腰を抜かしてそのまま椅子にへたり込んだ。
「ギルドマスター、来週、闘技場で何かイベントがありましたか?」
ローウェンは冷静に尋ねた。
「来週は、今年の『冒険者昇級試験』だ……」
バルガスは頭を抱え、声を震わせた。
「ギルドの赤字を埋めるために、わざわざチケットを売る『武闘大会』として宣伝しちまったんだ。おまけに、周りの領地の金持ちの貴族を二十人以上も招待して、一番前のVIP席に座らせる手はずになってる……」
執務室の中が一瞬で静まり返った。
「純度の高い魔石五十個を、迷路みたいな地下水道で同時に発動させたら……」
バルガスは絶望したように呟いた。
「周りの森の奥にいる高ランクの魔物を全部引き寄せて、魔物の大群になっちまう! もしその二十人以上の貴族が、うちのギルドの会場で魔物に襲われでもしたら……。スタート村のギルドが各国の軍隊に潰されるどころか、冒険者ギルドそのものがただじゃ済まないことになるぞ!」
ローウェンは眉間を揉み、その顔に久しぶりの冷たい殺意を滲ませた。
彼はトラブルが嫌いだ。
そしてこれは間違いなく、彼ら全員の平和な生活と飯の種を完全にぶち壊す、最悪のトラブルだった。
「つまり、その黒マントの男が誰であろうと、来週の大会でそいつを石ごと引きずり出さなきゃならない、というわけですね」
ローウェンは腰の剣の柄をトントンと軽く叩きながら、恐ろしいほど平坦な声で言った。
ギルドが直面する絶望的なピンチに二人の男が顔を暗くしている時。
隣にいたリネアは、バルガスの机の上にある『冒険者昇級試験の告知張り紙』をじっと見つめていた。
正確に言えば、彼女は張り紙の隅に書かれた、とても小さな文字に釘付けになっていた。
――『優勝賞品』。
「ギルドマスター」
リネアが突然口を開いた。普段の冷静な声に、少し不気味な熱がこもっている。
「この張り紙に書いてある『無垢月光草』って……本物なの?」
「あ? おう、そうだ。とある男爵が協賛で提供してくれた高級品で、エルフの森から直接採ってきたものらしいが……」
バルガスはきょとんとした。
バンッ!
リネアは両手で机を強く叩いた。
その顔には、マッドサイエンティストのような狂熱の炎が燃え上がっている。
「あたし、今回の昇級試験に出るわ!」
リネアはバルガスの襟をぐいっと掴み、ギリギリと歯軋りして言った。
「無垢月光草! 五十年も探し続けたのよ!
会場に爆弾を仕掛けて、あたしがその草を手に入れるのを邪魔する奴がいたら、特製の王水で骨の髄まで一滴も残さず溶かしてやるわ!」
完全に執念に取り憑かれた相棒を見て、ローウェンは黙って半歩後ろに下がった。
今の彼女と環境問題について話し合うのはやめておこう、と心に決める。
「いいぞ! すごく元気があっていい!」
バルガスは藁にもすがる思いで、すぐに二人に仕事を与えた。
「リネア、お前はCランク冒険者としてリングに上がれ! 優勝をもぎ取って、ついでに怪しい動きをしてる参加者を監視しろ!」
続いて、バルガスは引き出しからギルドの最高権限のマークが刻まれた特別パスを取り出し、机にバンッと叩きつけてローウェンに押しやった。
「ローウェン! このパスがあれば、会場の立ち入り禁止エリアにどこでも入れる。お前は地下水道のパトロールを頼む! たとえ空が落ちてきても、一匹たりともVIP席に魔物を近づけるな!」
ローウェンはそのパスを手に取ると、懐の内ポケットにしっかりとしまい込んだ。
その全身からは、これ以上ないほどの鋭い気迫が放たれている。
「了解。魔石を爆発させてパニックを起こすのが狙いなら、絶対に警備が一番甘い死角に隠すはずです。試験が始まる前に、闘技場の地下をひっくり返してやりますよ」
……
数日後。スタート村の中央闘技場。
賑やかな会場に太陽の光が降り注ぎ、観客の歓声と、焼けたソーセージのいい匂いが混ざり合っている。
何も知らない貴族たちは、派手な観客席に座って笑い合い、この盛大な「冒険者昇級試験」が始まるのを待っていた。
一方、闘技場の薄暗い地下水道の入り口。
ローウェンは地味なレザーアーマーを着ていた。
余計な装備は一切なく、腰には鋭い片手剣と、いつもの事後処理用の道具、そして懐にはギルドのパスだけだ。
彼は頭の上から聞こえてくる大会の開幕の騒ぎ声を聞きながら、表情ひとつ変えずに、地下室の重たい鉄の扉を押し開けた。
「……もし悪戯をするつもりなら、俺より速く走れるように祈っておくことだな」




