第19話 恩恵
視界が、パッと開けた。
ローウェンとリネアは、純血エルフであるエラの後ろについていき、足を止めた。
目の前にあったのは、まるで空全体を支えているかのような、幹の太さが数十メートルもある巨木。
伝説の、エルフの聖地『世界樹』だ。
世界樹の巨大な幹の正面には、太い木の根が自然に絡み合ってできた、天然の椅子があった。
今、その椅子の上には、常識を超えた存在が静かに座っていた。
それは血の通った実体ではなく、純度の高い緑色の魔力が集まってできた、まるで半透明の立体映像のような女性の姿だった。
彼女は古いローブを纏い、まわりの空気はその膨大でやさしい魔力のせいで、微かに歪みを生じさせていた。これこそが、エルフたちが『母』と呼んで敬う、世界樹の化身だ。
リネアはその姿をみた瞬間、急に足の力が抜けてしまい、柔らかい草の上にドサッと膝をついた。
4分の1だけエルフの血を引くハーフエルフの彼女にとって、これが人生で初めて目にする、信仰の絶対的な中心だった。
リネアは感動のあまりガタガタと全身を震わせ、両手を胸の前できつく握りしめた。
その目には涙があふれていて、極度の畏敬の念から完全に圧倒され、いつものおふざけなど微塵も出せない状態になっていた。
「お、お母様……」
興奮しすぎて涙声になったリネアは、思わずその神聖な名前を口にしてしまったのだ。
「やめなさい」
隣に立っていたエラの、静かな顔が、一瞬で凍りついた。
彼女はふり返り、すこし高慢な声色で怒鳴りつけた。
「ハーフエルフ。あなたは純血ではない。母をそう呼ぶ資格はありません!」
リネアはビクッとして慌てて首をすくめ、下唇をギュッと噛みしめた。
もう息をすることすらできないほど怯えている。
「まあまあ、エラ。そんなに子供に厳しくしなくてもいいじゃない」
あたたかく、柔らかで、慈愛に満ちた声が、3人の頭の中に直接響きわたった。
耳から聞こえる声ではなく、緑色の魔力から直接おくられてくる思念だった。
エラの排他的な雰囲気とはまったく違い、世界樹の投影が話す口調は、まるでイタズラな孫娘を見守る優しいおばあちゃんのようだった。
魔力で構成された女性の投影はクスッと笑い、リネアに向かってひらひらと手を振った。
「どう呼んでも構わないのよ。森に戻ってきた子は、みんな良い子だからね」
リネアは感動のあまり、とうとう涙のダムが決壊した。
隣にいたローウェンは、この厳かな雰囲気に、まったく影響されていなかった。
エラの警告するような視線をスルーし、軽くお辞儀をすると、いつもの平坦な声で本題に切りこんだ。
「冒険者ギルド、事後処理班のローウェンだ」
世界樹はローウェンの方を向き、その瞳にすこし懐かしそうな光をうかべた。
「ギルドの任務を遂行しにきました。メテオ騒動を起こした張本人である『リヴィ』を連行します。森を壊されたくないという、あなたの希望にも沿うはずです」
『リヴィ』という名前を聞いて、それまで優しかった世界樹の投影も、顔にすこし困り果てたような苦笑いをうかべた。
「あのリヴィという子は……本当に困った子ね」
世界樹はふぅと小さなため息をついた。
「森に入ってきたのなら、いつでも居場所がわかると思っていたの。だけど、あの子が使っている隠蔽魔法はとても特殊だったわ」
「あなたでも感知できないのですか?」
「ええ。姿や気配を消すだけでなく、自然界との魔力のやり取りを完全に遮断しているの。私にとっては、体の上を何かが這い回っているのに、どこにいるのか全くわからないようなものだわ」
母の声音には、すこし頼み込むような響きが混ざっていた。
「森の中にいることだけはわかるのだけど、どの辺りに潜んでいるのかが確認できないの。もしあの子がここで迷子になって餓死したり、パニックになって魔法を乱れ撃ちしたりしたら……森が大変なことになってしまうわ。だから、あの子を引っ張り出すのを手伝ってほしいの」
世界樹でさえリヴィの魔法に手を焼いていると知り、ローウェンは頭のなかで、あのバカへの評価をまた何ランクか引き上げた。
本当にトラブルの塊だ。
「捜索は引き受けます」
ローウェンは冷静に現状を分析し、現実的な問題を指摘した。
「ですが、世界樹のまわりは広すぎます。ここでしらみつぶしに探すとなれば、何日もかかるでしょう。俺たちの持ってきた食料には限りがありますし、あなたの領地では、狩りや素材の採集は禁止されているはずです」
「そうね。それじゃあ、私から少し力を貸してあげるわ」
投影の女性はニッコリと笑って椅子から立ち上がり、ふわりとローウェンとリネアの目の前まで浮かんでやってきた。
そして、純粋な魔力でできた指先を伸ばし、2人の額にチョンと軽く触れた。
ローウェンは避けなかった。
触れられた瞬間、あたたかく、限りなく純粋で、計り知れないほど膨大な魔力が、額から体の中へ直接流れ込んでくるのを感じた。
それはとても不思議な感覚だった。
長旅のせいで溜まっていたわずかな疲れが一瞬で吹き飛び、代わりに、体の中の細胞がすべてエネルギーで満たされたような完璧な充実感があふれてきた。
お腹の空き具合も、奇跡のようにサッと消えてなくなった。
「これはほんの小さな『恩恵』よ」
母は優しく説明した。
「この恩恵が消えるまでの数日間、あなたたちの体は森の中にある魔力を直接吸い取って、エネルギーに変えるわ。簡単に言えば、一時的に純血のエルフと同じ体質になったのよ」
リネアは驚いて自分のお腹をさすった。
「ということは……」
「ええ。あなたたちはこれから、ご飯を食べる必要も、眠る必要もないわ」
母は笑ってうなずいた。
「これなら、昼も夜も関係なく、ずっと捜索を続けられるでしょう?」
ローウェンは体の中をぐるぐると回るエネルギーを感じながら、深く息を吸い込んだ。
生理的な欲求が完全にゼロになるこの状態は、長期の捜索クエストにおいて、まるでチートのようなアドバンテージだ。
「エラ」
母はとなりの純血エルフの方を向いた。
「あなたはまわりの地形を一番よく知っているわ。これから、この人たちの手伝いをしてあげなさい」
「……御意、母上」
露骨に嫌そうな気配を漂わせていたが、エラはそれでも恭しく頭を下げた。
飲まず食わず、不眠の恩恵が与えられ、ガイドも決まった。
人間、ハーフエルフの少女、外見が冷徹な純血エルフという、奇妙な3人チームが正式に結成された。
彼らはこの明るく澄み切った神聖な禁足地の中で、歩く天災を生け捕りにするため、昼夜を問わないしらみつぶしの捜索を開始するのだった。




