第九十五回
朝食もそこそこに上山は家を飛び出した。幽霊平林が云ったとおりだとすれば、南枕で、というより、いつもの姿で、いつもの状態で眠ったのだから当然、元に戻って人々の姿が目に入らねばならない。上山は首を右左と動かし、人の姿を探した。その時だった。上山は肩を叩かれる感触を得た。慌てて上山が振り向くと、部下の岬が立っていた。
「課長、どうかされたんですか?」
上山は喜びの余り、訝しげに棒立ちする岬を抱きしめた。そして、なぜか涙が流れ出て、嗚咽した。岬は上司の取り乱しように、どうすればよいか途方に暮れ、されるまま、立ち尽くすのみだった。
しばらくして我に返った上山は、自分のとり乱しように気づき、慌てて岬から離れた。岬も余りのことに瞬間、かける声を失くしたが、それでも、恐る恐る声は出した。
「いやあ…、ははは…。昨日はお休みになったんですか? 皆、連絡がとれず、心配していたんですよ」
「…ああ、そうだったか。いや、すまんすまん。手の離せない急用があってな。つい、連絡を忘れてしまった」
「よほどのことだったんでしょうね。まあ、ご無事でよかったですよ。私達の媒酌人なんですから」
「そうそう、六月だったね。そろそろ文面を考えなきゃいかんな」
「はい、よろしくお願い致します」
岬はペコリと頭を下げた。二人は無言で駅方面へと歩きだした。
「それにしても、まさか君が朝、私の家前に現れるとは思ってなかったよ」
「ははは…。さきほどの話ですよ。出水係長から課長の様子を見てこいって釘を刺されたんですよ」
「それって、例のイジメなんじゃ?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。私の家が課長の駅に近かっただけのことですから…」
「そうか…。なら、いいんだが…」
二人の会話は歩きながらも続いた。




