4話
その町は、港と坂道でできていた。十九世紀の捕鯨によって栄えていた町は、鯨油の需要が石炭に移り変わると衰退の一途を辿った。当時の繁栄の面影は今や立派な港や並んだ赤煉瓦倉庫だけにしか残っていない。住人は毎年減少の歯止めが効かず、人口は最盛期に比べて半分を下回っていた。古い建物は多いが観光地となるようなランドマークはない。それならば、と閑静なことを利用して都会の喧騒に疲弊した富裕層たちを呼び込もうとした時期もあったが、交通に不便な土地であるせいでその夢も立ち消えた。
大理石の手すりに肘をついたマーガレット・モーガンは、木蓮が描かれたシガレットケースを手にしていた。煙草を咥えて、マッチの炎をその先に舐めさせる。
「ふぅ……」
妙に眼の冴えた夜だった。一息つくと、麻糸のように紫煙は海風にほどけていく。
「退屈かな?」
ぎぃと背後の戸が軋む。声を聞くより前に夫のジェームズだと判った。メイドが起きている時間ではないし、何しろ三十代前半にしては重い聞き馴染みのある足音だった。
同じ手すりに並んだジェームズは同じ寝間着姿。折り目正しく着たナイトガウンは小太りの腹に沿って緩やかな弧を書いている。
「いいや。むしろ充実している」
「そうか」
マーガレットはゆっくりと息を吐いて安堵した。
出会いは、彼の一目惚れから始まった。夫は父親の経営していた鉄鋼会社を相続していた。近代化するアメリカにとって鉄鋼の需要は年々増加するばかり。鉄鋼は建築、インフラ、家電といったあらゆる基幹産業、そして戦争に欠かせない。ジェームズは鼻に掛ければ恨まれ、謙虚にすれば嫌味だと言われ程度には富豪として名が通っていた。
そんなジェームズが、まるで青年のようにガチガチに緊張してプロポーズしたのだ。出会ってから一か月と経っていなかった。今でもそれは夫婦だけの甘い笑い話の種になっている。
「実はプレゼントがあるんだ」
「唐突だな」
「まあ、引っ越しの記念ということでどうだろう」
差し出したのは小さな樫の木箱だった。新しくはないが滑らかで小綺麗に作られている。
彼の言う通り、引っ越してきたからまだ数週間しか経っていかった。二人にとって縁も所縁もない土地。だからこそこの町に居住を決めたのだ。
マーガレットは丁寧に包装を解く。箱の中にはオイルライターがあった。
「君は、僕より愛煙家だから」
手に取ってみると、それが普通のライターでないことはすぐに判った。金属ケースの表面に緻密な魔法陣が彫刻されている。磨かれたケースの表面が室内から漏れる光を反射していた。
「特別な魔法をかけておいた。僕がじゃないけど」
喫煙はもともと夫の趣味だった。紙巻き煙草、葉巻、パイプ、その他喫煙道具についてもこだわりがあった。
マーガレットは自分を惚れやすい性格だと思ってはいないが、一度惚れた相手には心底心酔してしまう自覚はある。好きな相手の好きな物にはすぐに愛着が湧いてきて、自分も好きになりたいと思ってしまうのだ。影響を受けやすい性格に律儀なところが相まって、知らぬ間に真似をしていた相手より熟達していることがままあった。夫婦にとって、煙草はその代表だ。
「ありがとう」
マーガレットが感謝を伝えると、ジェームズは目尻に皺を寄せる。いつもの控えめな笑みだった。




