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1話

 鋼板製の窓枠から隙間風が漏れていた。細く入ってくる地下鉄の突風が、ぐったりと項垂れるリラ・ウッドワードの濡れた髪に冷たい指を通す。

 普段であれば苛立たしく思ったはずだが、今の彼女に些末なことを気にしている余裕はなかった。浮かんだ汗が額から落ちてくる。焼け付きそうなほどに拍動していた心臓は、今ようやく落ち着いてきたばかりだった。

 夜のマンハッタンを縦断するR1/9系は、後数本で今日の運行を終了しようとしていた。まばらに座る乗客に会話はなく、モーターの唸り声が車両を満たしている。天井に備え付けられた剥き出しのファンは重い空気をかき混ぜようと懸命に回っていた。裸電球が揺れるたび、底抜けに明るいピーナッツバターの広告が唾液を付けられた痕のように反射する。

 リラは窓の外に視線を向けた。暗い地下鉄構内では外の景色など望むべくもない。自身のやつれた表情が映り込むだけだった。

 雨に濡れた髪が肌に纏わりついている。ダークブラウンの髪は短く切り落としているが、流行りのプレジション・ボブのように整ってはいない。長い髪を嫌って乱雑に切り落としただけだった。

 髪には魔力が宿る。迷信であってもそのイメージは人々に根付いている。リラは少しでも自分から魔女としての要素を排除したかった。同じ理由で、呪物として使われがちな宝石やアクセサリーの類は身に着けていない。

 だが、その眼だけは隠すことができなかった。

 濁った緑瑪瑙の瞳。呪いを授ける邪眼。

 忌避されるその瞳は、実際のところ呪いなど宿していないが薄気味の悪いことに変わりはない。何よりも、もっともそれを嫌悪しているのは自分自身だった。人と目を合わせないのが癖になっている。羽織る漆黒のレインコートは髪と同様にひどく濡れて、烏の羽のように光沢を帯びていた。内部まで染みた雨水の冷たさがブラウスをあっけなく透過する。少しずつ奪われる体温にリラはじっと耐えるしかなかった。


「大丈夫かね? お嬢さん」

「構わないで」


 通路の反対側に座る老人だった。窓側に十代の孫らしき少年を連れている。親切心で声を掛けていることはその声で判る。大方、劇場街(ブロードウェイ)にでも連れ出して帰りが遅くなったのだろう。リラは顔を向けることなく撥ねつけた。


「以前のようにはならなければいいが……」


 老人は孫に語り掛けるように呟く。以前というのは、ミシシッピ川の氾濫のことだ。ニューヨークだけでなく全米が被害を受けた大洪水だった。

 駅で停車すると三人の男が乗り込んでくる。視線だけで探し当て、リラの方へ歩いてきた。

 ハンチングを被った中肉中背の男が大柄な二人を連れている。連れ歩く男たちより腕っぷしは強くなさそうだが、ややこけた頬が神経質そうな印象を与えていた。大柄な二人の男は一方が茶色のジャケット、もう片方がネクタイ外し襟を開けている。ハンチングの男はリラを見下ろすように吊革に掴まった。


「逃げることはないだろ?」


 男がリラの肩に手を置いた。浮き出た喉仏が気味悪く動く。


「傷ついたよ」


 絡みついて値踏みするような物言いだった。リラは無視を決め込む。彼らはずっとリラを追ってきていた。隣の老人には目もくれない。


――構わないで。


 心の底から願いは虚しく、ハンチングの男がリラの手首を掴んだ。単純な腕力では叶うはずもなく座席に押し付けられる。周囲の乗客はリラが襲われる状況を静観していた。隣に座っていた老人は孫を庇うようにしている。糾弾はできない。老人の膂力で解決できるような状況ではない。


――だから、私にッ!


 冷静を保とうとしていたリラだったが、頭に血が昇るのを止められない。

 その瞬間、“精霊”が囁いた。

 車両の両側の窓ガラスが、手前から順にとてつもない速度で割れていく。

 乗客の一人が叫び声を上げて車両を慌てて出ていった。女が襲われる状況を見ている時点で耐え難かったのだろう。他の数人も堰を切ったように隣の車両に逃げ出していった。

 老人と孫が取り残される。老人のしわがれた唇が畏れるように動いた。


「魔女……」


 恐怖を帯びた眼差しが、肩で呼吸を繰り返すリラを硬直させる。幾度となく浴びせられてきた慣れようのない視線だった。


「まだ存在していたなんて……そんな……」


 魔女はすでに絶滅した。近代化した現代において、あろうことか経済的にも科学的にも世界一の都市であるニューヨークに存在していいものではない。

 魔女が絶滅してから魔法はより忌むべきものとなった。世間では魔法や魔術を排斥しようとする機運が高まっている。それが返って、今でも魔法に携わる者たちの凝集性をより強固にした。もはや対立には歯止めが効かなくなってきている。


「触るな……ッ!」


 掴まれた腕を振り払おうとするした瞬間、リラの身体は突然重力が増したかのように床に押し付けられる。通路を引きずられ貫通扉へ強かに背を打った。


「……ッ!」


 呻き声を上げたのとほぼ同時、ジャケットを着た男の巨体が弾き飛ばされる。リラの反作用を受けたかのように吹き飛んだ身体はステーションポールに激突し、ポールは鋼鉄製とは思えないほど簡単に拉げていた。

 リラはさらに息を荒くする。脂汗が額に浮いていた。

 開襟にした男は、その体格に反して表情に恐怖を浮かべている。暴力的なカオスを前に、できるだけ早く力でねじ伏せてしまおうと考えたのだろう。助走をつけた男の剛腕がリラの頭上を掠める。躱したわけでない。男の身体も宙に浮いていた。

 地下鉄の天井など高さは限られている。まして大柄な男が伸び伸びできるスペースはない。空中で振り回された男は回転するファンに激突し、ぶら下がった電球を割りながら吹き飛んだ。布切れのように扱われた身体は吹きすさぶ窓枠にぶら下がる。

 孤立したハンチングの男は懐からコルト・ガバメントを抜いた。


「出来損ないでも魔女には変わりないか」


 リラは歯噛みした。

 魔女は魔法陣をもって精霊を隷属させる者のことを指す。それが魔法という現象として現れるのだ。だがリラは思い通りに精霊を従わせることができない。ただ自身の感情によって周囲の精霊を刺激しているに過ぎなかった。

 身体を起こそうとステーションポールを掴もうとしたリラの手が空を切る。否、空を切るはずの手そのものを肘関節の先から消失していた。

 眼球が痛くなるほど強く瞼を閉じて、開ける。元通りになっていた腕に、リラは安堵して深く息を吐いた。

 銃口がリラを見下す。


「協会から逃げる必要はない」


 協会――魔法・魔術師協会はリラを必要としている。だからこそ追手を寄越したのだ。殺すことはないだろうが、五体満足で連れ戻す必要もない。


「魔(・)女(・)は(・)そ(・)の(・)魂(・)を(・)以(・)て(・)精(・)霊(・)と(・)契(・)約(・)し(・)、魔(・)法(・)を(・)使(・)う(・)――魂を喰われかけてるぜ」


 魔法は、彼岸と此岸と世界のすべて。それらを一様に区別なく語る。人が知覚し語る世界の在り方は、魔女にとっては常に片手落ちだ。魔女は、そんな人々が取りこぼした世界と、人の世界の境界に立っている。超自然的な“精霊”の力を魂と引き換えに借用しているのだ。境界線に立ち続ける繊細なバランス感覚を保てなければ、あっけなく喰い尽くされ、この世界から消えてしまう。

 電車は徐々にスピードを殺し、駅に停車した。リラが乗る車両に駅員たちが乗り込んでくる。

 拳銃を抜いていた男は真っ先に駅員に囲まれ、苦々しそうに両手を上げた。

 その隙にリラは車両を飛び出す。追い縋る駅員の声を振り払って、ホームの階段を駆け上がった。

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