第82話 未来へ
ベヒーモスは崩れ落ちた。
地下研究施設を包んでいた轟音も、ようやく静まり返る。
アデラーンは床へ倒れ込んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。
息も絶え絶え。
全身から力が抜け、指一本動かすこともできない。
それでも、その視線だけはベヒーモスの亡骸を見つめていた。
誰もが勝利を確信した、その時だった。
「まだ終わってない!」
アーサーが鋭く叫ぶ。
その視線の先。
崩れ落ちたベヒーモスの亡骸から、黒く禍々しい結晶がゆっくりと姿を現した。
絶え間なく魔素を放ち続ける異形の核。
セリーヌは息を呑む。
「あれは……!」
アデラーンは倒れたまま、小さく呟く。
「……魔王因子」
アーサーは静かに首を横へ振った。
「いや」
「魔王因子の紛い物だ」
「だが、あれを破壊しなければ終わらない」
アデラーンは苦しそうに息を整えながら言う。
「しかし……」
「あれはミュゲでも……」
アーサーは静かに前へ歩み出た。
「心配はいらない」
「所詮は紛い物だ」
「おそらく魔王因子の外殻だけを模倣し、膨大な魔素を無理やり封じ込めたに過ぎない」
「言ってしまえば、異常なまでに魔素を詰め込んだ巨大な魔石だ」
光の剣を静かに構える。
「この程度なら」
「私の力でも十分に浄化できる」
アーサーは深く息を吸う。
「光よ」
「すべてを浄めよ」
眩い光が地下最深部を包み込む。
純白の光は黒い結晶を飲み込み、その禍々しい魔素を次々と浄化していく。
やがて――
パキッ。
乾いた音とともに結晶は砕け散り、黒い魔素は完全に消滅した。
地下研究施設を満たしていた瘴気も、静かに消え去る。
アーサーは剣を納め、小さく息を吐く。
「終わったな」
アデラーンも安堵したように目を閉じる。
「ああ……」
こうして――
オルフェ商会事件は終結した。
数日後。
アデラーンは王立病院の廊下をゆっくりと歩いていた。
まだ一人では満足に歩くことはできない。
左肩を支えているのはセリーヌだった。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ……何とかな」
苦笑するアデラーン。
全身にはまだ包帯が巻かれ、歩くたびに傷が痛む。
それでも、その足は確かに前へ進んでいた。
リュカは腕を組みながら笑う。
「ほんと、よく生きてましたね」
リリアも安堵したように微笑む。
「先生の生命力には驚かされます」
アーサーも穏やかに笑った。
「約束は守ったな」
アデラーンは小さく頷く。
「ああ」
「全員で生きて帰る」
「約束だからな」
セリーヌはその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
あの日交わした約束は、確かに果たされた。
しかし。
アーサーだけは、どこか腑に落ちない表情を浮かべていた。
「……一つだけ、引っ掛かることがある」
アデラーンが尋ねる。
「何だ?」
「本当にオルフェ商会だけで、これほどの事件を引き起こせたのだろうか」
「魔王時代の終焉で経営が傾いたとはいえ、一介の商会だ」
「巨大な地下研究施設」
「魔王因子製造計画」
「莫大な研究費」
「優秀な研究者」
「そのすべてを、一商会だけで賄えるとは思えない」
アデラーンも静かに頷く。
「……確かに」
「裏で糸を引く者がいたとしても、不思議ではない」
その時だった。
一人の騎士が駆け寄る。
「団長!」
「地下最深部から、新たな証拠品が見つかりました!」
差し出されたのは、一枚の血濡れた羊皮紙。
アーサーは慎重に受け取る。
羊皮紙の隅には、一つの奇妙な紋章が刻まれていた。
複雑に絡み合う魔法陣。
その中央に描かれた、不気味な紋章。
アーサーの表情が曇る。
「この紋章は……」
アデラーンが尋ねる。
「知っているのか?」
アーサーは静かに呟いた。
「まことしやかに語られる秘密結社――」
「魔導結社『神秘の会』の紋章だと言われている」
沈黙が流れる。
アーサーは羊皮紙を見つめたまま、小さく呟く。
「……まさかな」
その言葉だけが、静かな地下室へ消えていった。
王都には再び平穏が訪れた。
だが、その平穏の裏では、新たな闇が静かに動き始めていた。




