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第44話 手首一本

 酒場の空気が一変した。


「……いい気になるなよ!」


 若い冒険者は怒りに顔を歪めると、セリーヌの腕へ向かって手を伸ばした。


 その瞬間だった。


 パシッ。


 乾いた音が静かな酒場に響く。


 アデラーンが男の手首を軽く掴んでいた。


 本当に、それだけだった。


「離せ!」


 男は力任せに腕を引く。


 しかし、びくりとも動かない。


 まるで巨大な岩へ掴まれたかのようだった。


「くっ……!」


 さらに全身の力を込める。


 アデラーンは静かに一歩踏み込み、男の手首をほんの僅かに返した。


 ただ、それだけ。


「ぎゃああああっ!」


 男の悲鳴が酒場中へ響き渡る。


 膝から崩れ落ち、顔を苦痛に歪めた。


「い、痛い!」


「腕が!」


「折れる!」


 アデラーンは静かに答える。


「安心しろ」


「折ってはいない」


「少し関節を極めただけだ」


「以前、少し加減を誤って骨を折ってしまってな」


「それ以来、力加減には気を付けている」


 男は涙目になりながら叫ぶ。


「わ、分かった!」


「降参!」


「もう離してくれ!」


 アデラーンは静かに手を離した。


 男は床へ崩れ落ち、大きく息を吐く。


 酒場は水を打ったように静まり返った。


「……何をした?」


「剣も抜いてないぞ……」


「手首を掴んだだけじゃないか……」


「見えなかった……」


 取り巻きたちは顔を見合わせる。


「てめぇ!」


「調子に乗るな!」


 三人の冒険者が同時に襲い掛かった。


 しかし――。


 一人目。


 腕を軽く流され、自らの勢いで床へ転がる。


 二人目。


 踏み込みを利用され、身体が宙を舞った。


 三人目。


 拳を振り上げた瞬間、肘を制され、そのまま床へ押さえ込まれる。


 わずか数秒。


 四人全員が床へ転がっていた。


 酒場中が騒然となる。


「武器を抜いてないぞ!」


「武術だけで銀ランク冒険者四人を制圧した!」


「何なんだ、このおっさん……!」


「まるで達人じゃないか……!」


 アデラーンは静かに男たちを見下ろした。


「武とは、人を傷付けるためのものではない」


「力は弱き者を守るためにある」


「二度と女性へ手を上げるな」


 静かな声だった。


 しかし、その一言には誰も逆らえなかった。


 男たちは顔を伏せ、小さく頭を下げる。


「……悪かった」


「分かればいい」


 アデラーンはそれだけ言うと席へ戻り、冷めかけた紅茶を一口飲む。


 まるで何事もなかったかのようだった。


 一方、セリーヌは先生の横顔を見つめ、胸の前でそっと手を握る。


(やっぱり先生……)


(世界一かっこいいです……)


(もう好きです……)


(あっ……)


(また心の声が漏れそうになりました……)


(先生の前だと……)


(私、金ランク冒険者じゃなくて……)


(ただのベルフォン村の女の子になっちゃいます……)


 頬を真っ赤に染めながら、小さく微笑む。


 その姿は、かつて数多の魔物を討ち果たした元金ランク冒険者ではなく、ただ恋する一人の少女そのものだった。


 そして酒場の冒険者たちは、まだ知らない。


 目の前の”弱そうなおっさん”こそ――


 魔王を討ち、世界を救った英雄。


 暗黒騎士アデラーン・グランディス、その人であることを。

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