第37話 師匠
王都での剣術指南を終えた夜。
魔剣流道場の居住区には、美味しそうな香りが漂っていた。
台所では、セリーヌが鍋をかき混ぜている。
今日の献立は、先生の大好物であるクリームシチュー。
焼きたてのパン。
彩り豊かなサラダ。
そして食後の紅茶。
「よしっ!」
最後に味見をすると、セリーヌは満足そうに頷いた。
ちょうどその時、着替えを終えたアデラーンが居間へ入ってくる。
「いい匂いだな」
その一言だけで、セリーヌの表情がぱっと明るくなる。
「先生、お疲れ様でした!」
「今日は先生の大好きなクリームシチューですよ!」
「そうか」
「楽しみだ」
(先生が『楽しみ』って言ってくれました……)
(頑張って作ってよかったです)
嬉しさを噛み締めながら料理を食卓へ並べる。
二人は向かい合って席に着いた。
「いただきます」
静かな夜。
昼間の熱気が嘘のように、道場には穏やかな時間が流れていた。
アデラーンはシチューを一口運ぶ。
「……美味い」
その短い一言だけで十分だった。
(やったぁ……)
(先生に喜んでもらえました)
セリーヌは幸せそうに微笑み、自分もスプーンを口へ運ぶ。
食事をしながら、自然と昼間の剣術指南の話になった。
「先生、今日は本当にお疲れ様でした!」
「騎士団の皆さん、先生の強さに驚いていましたね!」
アデラーンは苦笑する。
「皆、真面目だった」
「教えがいがあったよ」
セリーヌも嬉しそうに頷く。
そして、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば」
「団長も話していましたけど……」
「先代宗家、ロラン先生って強かったんですか?」
アデラーンの手が少し止まる。
懐かしそうに目を細め、小さく笑った。
「強かった」
「魔剣流宗家」
「ロラン八段範士師範」
「俺は、一度も師匠へ一太刀当てたことがない」
「ええっ!?」
セリーヌは思わず目を丸くする。
「先生でもですか!?」
「ああ」
「毎日鍛錬を終えた後」
「最後は必ず師匠との立ち合いだった」
「立てなくなるまでな」
苦笑しながら続ける。
「正直に言えば」
「魔王ニコラスと戦う方が気楽だった」
あまりにも真面目な顔で言うものだから、セリーヌは思わず吹き出してしまう。
「でも」
「稽古以外は、本当に優しい人だった」
その表情は、どこか少年のようだった。
セリーヌは静かに耳を傾ける。
アデラーンは、ゆっくりと言葉を続けた。
「魔剣流は、アルベール流のような高級剣術ではない」
「だから套路も存在しない」
「初代宗家は、魔法も使えず、力も弱かったと聞いている」
「国の圧政」
「他国の侵略」
「魔物の脅威」
「そんな時代だった」
「弱き者は奪われ」
「護りたい者すら護れなかった」
「だから初代宗家は」
「弱きが強きを倒し」
「弱き者でも、大切な人を護るための剣を求めた」
「そして」
「魔法が使えないなら」
「自ら魔力を生み出せばいいと考えた」
セリーヌは思わず息を呑む。
「そんなことが……」
「できるんですか?」
アデラーンは小さく笑った。
「それは、お前もやっているじゃないか」
「え?」
「奥義――暗黒」
「あっ……」
セリーヌは思わず声を漏らした。
確かに、自分も暗黒を使うたび、体内へ取り込んだ魔素を無理やり魔力へ変換している。
それが当たり前になり過ぎて、今まで意識したことすらなかった。
「暗黒とは」
「魔剣流すべての始まりとなる奥義」
「初代宗家が命懸けで完成させた技術でもある」
「お前が今使っている暗黒も」
「その歴史の上に成り立っている」
セリーヌは静かに頷く。
何気なく使っていた奥義。
その裏には、命を懸けた先人たちの歴史があった。
アデラーンは静かに指を折る。
「初伝――暗黒」
「中伝――暗黒剣」
「奥伝――暗黒魔剣」
そして、少しだけ間を置いた。
「秘伝――魔神剣」
「故に」
「魔剣流とは本来」
「四つの奥義を極める流派なんだ」
「剣術そのものを競う流派ではない」
「奥義を自在に扱えるか」
「そこに流派の真価がある」
セリーヌは静かに頷く。
アデラーンは懐かしそうに微笑んだ。
「だが」
「師匠は違った」
「四つの奥義を極めていただけじゃない」
「剣術そのものも卓越していた」
「暗黒魔剣を、まるで呼吸をするように扱いながら」
「剣術でも誰にも引けを取らなかった」
「おそらく」
「魔剣流歴代最強だったと、俺は思っている」
セリーヌは驚きを隠せなかった。
「先生でも……そこまで言うんですね」
アデラーンは静かに頷く。
「ああ」
「俺は、まだ師匠には遠く及ばない」
しばらく静かな時間が流れる。
やがてセリーヌは、おそるおそる口を開いた。
「先生」
「その……秘伝の魔神剣って、どんな奥義なんですか?」
アデラーンはゆっくりと箸を置く。
そして、遠い昔を思い出すように静かに目を閉じた。
「あれは……」
「俺が師匠を失った日の話になる」
窓の外では、静かな夜風が木々を優しく揺らしていた。
その夜は、まだ終わりそうになかった。




