目覚め
周りが、白い。
「チーフ! 起きたか! 馬鹿野郎、無理はしないって、約束だったじゃねえか!」
「安永、様……。」
まだ、頭が回らない。ここは……どこだ?
身体が熱い、まだ熱が残っているのを感じる。
ゲホ、咳が出る。
その弾みに一気に失態を思い出す。
もしかして、倒れた……?
いけない。
身体を無理矢理に動かして、起き上がろうとする。
たったそれだけなのに、関節が悲鳴を上げて、顔が歪む。
「店に、戻らなきゃ……。百瀬くんを、一人にできない……。」
急に動いたからだろうか、咳が止まらない。
咳き込む度に、喉と肺が焼けるようだ。
安永様が水差しから水を飲ませてくれる。
喉に染み込むように、冬の空気に冷やされた潤いが広がる。
しかし、すぐにその冷たさも熱に変わっていく。
身体の熱が痺れを伴い、思うように考えがまとまらない。
安永様が枕元の何かをいじりながら、背中をさすってくれる。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから。店は、横山マスターが人を貸してくれることになった。お前がいなくてもちゃんと店は動いている。」
「そんな……! ただでさえ、百瀬くんをお借りしてるのに、これ以上は!」
安永様に縋り付こうとして、動いた時だった。
腕の内側が妙に重くて、視線を落とすと管が刺さっている。
ベッドの横に、銀色のスタンドが置かれている。
吊るされた黄色い液体を湛えたパックから、等間隔に雫が落ちていた。
『ナースステーションでーす、どうしましたかー?』
枕元のスピーカーから、突然くぐもった声が響き渡る。
今、なんと言った? ナース、ステーション?
「付き添いの安永です。患者が目を覚ましました。」
『わかりましたー、今先生お呼びしますねー。』
どこか間延びした声が部屋の中に響く。
白い天井。
点滴。
ナースステーション。
現実が、急に色付いて押し寄せてくる。
「安永、様……ここ、は……病、院?」
まずい。
「ああ、病院だ。お前、倒れて入院したんだ。二日も目を覚まさないから、みんな心配したんだぞ。」
金が、ない!
一気に頭が冷える、二日だと!? 入院!? 一体、いくらになるんだ!
「そんな……! 無理だ、今すぐ退院しないと! 今はそんな、余計な金なんて!」
今月はもう、金がない。
ただでさえ、制作に戻って画材代が逼迫しているのだ。
入院だの病院だの、そんな金を捻り出すことは到底不可能だ!
慌てるオレを、安永様は押さえ付けるようにしてベッドへ倒す。
「何が余計だ! お前、死ぬとこだったんだぞ! 無理はするなって約束しただろうが!」
安永様は……泣いていた。
コンコン、とノックの音が、二人の会話を途切れさせる。
涙を拭い、どうぞ、と促す安永様の声は、疲れの色を帯びていた。
そういえば、安永様のスーツはヨレヨレだ。
いつもパリッとしたお洒落なスーツを身に纏う安永様にしては、珍しい。
もしかして、ずっと、オレなんかの側に……?
ドアをスライドさせて、そこに姿を現したのは。
市川先生と、名医として名高い内科の村上先生だった。
村上先生はオレのいる店に足を運ばれたことはない。
だが、"あの日"、マスターを診察してもらい、がんセンターへの移送を手配してくださった先生だ。
その時に面識があった。
市川先生は、汚れひとつない白衣に身を包み、険しい顔をしている。
よく見れば、薄っすらとその目には涙の跡が見て取れる。
知られてしまった、という恐怖が襲ってくる。
「驚いたよ。マスターが担ぎ込まれた時、あんなに取り乱していたキミと、市川先生が絶賛するバーテンダーが。まさか同じ人だとはね。」
村上先生は、怒ったように告げる。
「何故、こんな無茶をした。」
淡々とオレを責める声が聞こえる。
「既に胃の拘縮が始まっていた。昨日今日の話ではないだろう。まさか、"あの日"からずっと。」
顔を背ける。
二人がいる前で、認めることはできない。
「答えられない、か。だが、わかっているのか。キミがこれだけの無茶をしたことで、どれ程の人に心配を掛けたのか。どれだけの人が私に問い合わせの連絡をして来たと思う? いい迷惑だよ。」
胸が締め付けられる。
あの時は、どれ程の人に見られていたんだろう。
お客様に不安を与えてしまった。
思わず心臓を握り潰すように胸を掻き抱く。
指先が、ネックレスに通した指輪に触れる。
「村上、先生……そこまで、言わなくても……。」
市川先生が止めに入る。
だが、村上先生の言葉は容赦なくオレを打ち据える。
「市川先生。貴方も医者ならわかるでしょう。」
小さく息を吐く。
「この患者は、生きる事を放棄している。すべてを、誰かのために捧げようとしている。生きる意思を無くした人間に、尽くす手はない。」
胸の痛みが増していく。
喉を突いて出てくる咳が、やけに肺に響く。
「市川先生がどうしても、というから診たが……キミに必要なのは、身体の治療じゃないよ。キミが、どれだけの人々に愛され、必要とされているか――その目で、その体で。しっかりと理解するんだ。それまで、退院は許さない。」
どこかで、わかっていた。
オレは……壊れている。
それはきっと、"あの人"を喪った、あの日。あの人が死んだ事を知った、あの瞬間から。
言葉を発する事ができない。
奥歯を噛み締める。血の味がする。
苦しい。
それは、肺の痛みだけじゃなくて。
心臓が鼓動を上げる事を拒否するかのような、悲しい痛みだった。
安永様と市川先生は、何も言えずにオレと村上先生を見比べている。
「起きてすぐに喋ったんだ、疲れたろう。眠りなさい。」
そういう訳にもいかない……今すぐにここを出なければ。
これ以上、入院費だなんて、
「金のことなら心配すんな。安心しろ。」
安永様の声が頭の中に響く。
確かに、疲れていた。
その声を聞いて、オレは何故か安心して……意識を手放した。




